悪夢との対峙
ざぶん、と音を立てて陣が沈んだ。
周りを満たすのは、水。それもやけに流れが速い。
「これは?」
「世界の端、海が滝となって虚空に落ちていくところ」
手足を広げ、体の安定を取りながら訪ねる陣に、レティシアが答える。
水中にあっては流れの方向しか判らず、水の透明度が高いのもあってまるで空中に浮いているかのように陣は感じた。
水中であるというのに、果てが見えない。
『ここは境界部分……ジンさん、どうにも我々、嵌められたようです』
「……それは?」
『ここは夢と心の本当の境界……おそらく、あの滝を落ちれば、二度と戻る事はできないでしょう』
要するに誘い込まれた、となれば、ナイトメアがとる次の手は……
どう、と水の勢いが強くなる。
持ちこたえる事ができずに、陣の体が流される。
「ジン!」
『しまった!』
まるで水流の影響を受けていないかのようなレティシアと、あせるシャルルの声が重なる。
ゆっくりと、二人の姿が滝の上へと消えていった。
***
不意にアクイラが閉じていた目を開いた。
すぐさま呪文を唱え、魔術を作り出す。
それはきっと、ニールとリーンヴルム以外の誰もが聞いたことのない言葉による、聞いたこともない魔術
「ディグ・オードィア・ニグ・ウル・ジード・ドラグナム・シエラヴルム」
それが古の書に記されている竜語だと果たしてその場の誰が知る事ができただろうか。
「ディア・ラ・ドゥーズ・ラグディア・ドゥーム・フォズド」
アクイラの掲げる杖にキラキラとしたものが集まり始める。すぐに渦を巻き、膨大な光を放つようになったそれを、アクイラは陣へと注ぎ込む。
少し後、光の奔流が収まると、アクイラは軽く息を吐く。
「これで、うまく行くと、いい、けど……」
「何をしたんだ?少なくとも、俺は君が何をしたのか判らないが……」
その場を代表して、将司が口を開く。それを受けて、アクイラは次のように告げた。
「今、夢の精霊の力を借りて……夢を、ジンを介してレティシアに注ぎ込んだ」
***
落下途中で岩が足場の様に出ている部分にぶつかり、陣はそこで移動を止めた。
結構な距離を水の中で落ちていたのだが、服が濡れても居なければ、溺れる事もなかった。
「さて、どうしたもんかな……」
シャルルの言葉通りなら、ここは夢というより心に近い場所になるはずだ。
落ちていく水は本物にしか見えない。
細い道の向こうには森の中に混じる様に作られた集落のようなものが見える、あれは、恐らくレティシアの「原風景」なのだろう。
たぶん、関わらないほうが良い。そう判断した陣は、現在位置から動かない事を選択する。
シャルルがこちらをうまく見つけてくれるといいのだが……そう考えながら、腰を下ろす。
どうどうと流れる水の音が、どこか心地よく響く。
ぼんやりと集落の方を見ながら、エルとレティシアの生きてきた世界に、陣は思いをはせる。
「よもや、ここに来るとは思いもよりませんでしたよ、あなたは余程運が良いようだ」
不意に聞こえた声に、陣は跳ね起き、そちらを見る。
果たしてそこには、道化の格好をして仮面をつけた存在が、ふよふよと浮かんでいた。
特徴的……というには極端に長い手の先には巨大な金属の爪が揺れている。
「しかしそれもここで終わりです、目障りな淫魔もまだあなたを見失っている、ここであなたが死ねば、世は事もなく平和に戻る、という事です」
「……」
陣は何も言わない、そこに「ある」と信じると、愛用のハルバードが手の中に現れた。
「おぉ、怖い怖い……しかし、果たしてあなたは、私に勝てますかね?“そんなボロボロの、ハルバードで”」
手の中に現れた違和感、それを確かめるようにハルバードを見る。
鋼の銀に鈍く光っているはずのそれは、青錆に覆われた斧頭に変わっていた。
「別に、ぶん殴るにゃ……十分だ!」
柄を長く持ち、振り下ろしの勢いを足した大ぶりの一撃は、案の定余裕を持ってかわされる。
左半身、右手を後ろに引き、左手を前にして、刃先をナイトメアに向けて構えなおす。
笑みを浮かべる仮面をつけたままのナイトメアの表情は読み取れない。そんなものが有るのか、判りようもないが。
「無駄ですよ、あなたは絶対に私を殺せない」
言いながら、ナイトメアが動く。
身を低くして陣の内懐に潜り込むと揃えた指先で目の前を薙ぐように斬りつける。
わずかに逸らした陣の頭部、その直前を鋭い爪先が走っていった。後方へ転がる様に回避し、ハルバードを構える。
「おや、避けますか、無駄な事を」
鈍い音を立てて、ハルバードが爪を受け止める。
真っ向からの力押し、ぐい、とハルバードが爪を押し込む。
押し切った、ハルバードの斧頭を、ナイトメアが滑る様に避ける。
しかしその動きに精彩はなく、陣の目から見ても追撃の機会に見えた。
すぐさま、追いかけて横なぎの一撃を放とうとする。
そこに、10歳ほどのレティシアが突如として現れた。
「!?」
刃を止め、そこから離れる事ができたのはまさに奇跡のような事、と言えるだろう。
改めてナイトメアに目を向けると、それを守るかのように、さまざまな年齢のレティシアが手に武器を構えて立っていた。