獣
そこが何処なのか、誰もが明確に答えることはできないだろう。そこに陣は居る。しゃがみ込み、身を縮ませて恐怖に震えている。その傍らにもう一人分の人影がある。昏く青い光に照らされたそれは、陣の顔をしていた。昏い笑みを浮かべながら、それは手にした槍斧で陣を切り刻む。痛めつけることが目的であるかのように、急所を避けて、時に浅く、深く。斬撃の軌跡は陣の体を縦横に走り、しかし血の一滴も流れることなく、陣の体はすぐ元に戻る。まるで水に映ったホログラムに切りつけるように。
斬りつけられるたびに、陣は悲鳴を上げる。しかし、それが槍斧を振り下ろす速さは決して速いものではない。しかし、陣はうずくまったまま動かない。両腕両足に枷をはめられ、頑強な鎖で地面につながれていては仕方のない話かもしれないが。実際、それが無くとも陣は動かなかっただろう。折れかけた心を支える、それだけで手一杯で、最早ほかにどうしようもない。
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アーディンの戦槌を潜り抜け、陣の突き出した一撃は円盾に弾かれる。振り下ろされた槌を半ば跳ねるように回避し、低く低く、身構える。
「っ……!」
アーディンと陣の戦いは膠着状態に陥っていた。あまりに早い動きの陣を捕えられないアーディンと、鉄壁の防御を貫けず致命打を与えられない陣。どちらも決め手に欠ける状況が続く。ふと、アーディンは自分の頬についた血に気づいた。自分のものではない、となれば……と相手を観察してみれば、両の手足から夥しい出血が始まっているのが見えた。これが機会とアーディンは再度の突撃をしかける。思った通り、敵に先ほどまでの勢いはなく、動きも目に見えて遅い。原因は判らないがあれには過度な負担か制限時間、あるいはその両方があるのだろう。限界を超え、動きの止まった相手なら敵ではない。無防備な頭部を殴りつけようとして、アーディンの背筋を嫌な予感が走った。本能が意思に反して距離を取らせる。刹那、ごうという音を置き土産に、陣の突き出した槍が空を切った。今まで以上の速さに、アーディンの額に汗が浮かぶ。
「るるぅぅぅぅぅぅぅぅ……」
それで仕留めるつもりだったのだろう、陣はうなり声をあげながら再度身を低く構える。その額に浮かぶ文字は、徐々に光を増し、赤く染まっていく。
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「ちょっ……どーなってんの!?」
状況を見たニールが悲鳴に近い声を上げる。彼女の眼には、血みどろになって戦う陣とアーディンが映っていた。
「なんにしても……援護!」
アクイラの反応は端的で、状況に即したものだ。すぐに魔術を放とうとして、ふと動きを止める。彼女が見つめる先で、陣が咆哮を上げ、手にした槍斧を振り落ろしていた。様子を見て咄嗟に扱う魔術を切り替える。
「眠りの……雲!」
裂ぱくの気合を込めて放った魔術は、陣とアーディンを同時に眠りにつかせた。
「あ、アクイラ!?」
「話は……あと!」
状況に追いつけていないニールを置いて、アクイラはすぐに陣に駆け寄る。魔術により強制的に眠らされているはずの陣の体は、それでもなお動こうとしているように見える。その傍らにしゃがみ込み、解呪と静心の魔術を使う。陣の額に浮かぶ文字が、抵抗するように強く光った。
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そこで、陣は未だ斬られ続けていた。もうどれだけ斬られたのかなど判らない。ただ、自分が立ち上がれない事、反撃のしようもないことは理解していて……それがさらに陣から抵抗する力を奪っていき、抵抗すらできない事に絶望して、立ち上がる力すら奪われていく。ふと、影が笑みを浮かべたように思えた。当然の結果としてそうあるべき状況になった事に満足するように。とどめとばかりに放たれた大上段からの振り下ろしは、不意に現れた杖に弾かれる。影の持つ槍斧の一撃を弾いたのは、丈の長いローブを身にまとった、女性の姿。その髪から覗く耳は中途半端にとがっており、銀の髪と相まって不可思議な雰囲気を漂わせていた。彼女を前にして影は動かない……いや、動けない、と言ったほうが正しいか。距離を取り、いつでも攻撃に移れる姿勢で彼女を睨みつけ……しかし、影が彼女に敵うことはないと、影は知っていた。あれは調和の鍵、影のような異形を決して許さぬもの。
「」
彼女が何事か呟き、軽く手を振る。それだけで陣の拘束は解かれ痛みは消えた。逆に影は両手両足を頑強な鎖に縛られ、両手両足を引きちぎらんばかりに暴れて見せるが……鎖はびくともしない。押さえつけられ、封じられて、影がゆっくりと沈んでいく。諦めてなるものかと言わんばかりに吠え声をあげて。
彼女が振り返り、そちらを見る。そこには、側頭部から角を生やし、前腕と大腿に鱗を、尻の少し上あたりから尻尾を生やした別の女性の影が、ほっとした表情で杖を下ろしている姿があった。
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金属同士のぶつかる音、それが陣の意識を強引に引きずり上げる。痛む体に鞭うって顔を上げると、目の前には戦槌を振り下ろそうとする男と、それを大盾で受ける男。
「よぅ、ジン、気ぃついたか?」
「ウルリックさん……!?」
状況を思い出し、足に力を込めて立ち上がる。
「助かりました!」
「礼は、お嬢ちゃんがたに言ってやれよ、助けてからな」
慌てて周囲を確認する、目に入ってきたのは、神官戦士たちに追い込まれ、窮地に陥っているニールとアクイラの姿。
「アクイラさん!ニールさん!」
声を上げ、槍斧を構えて突っ込む。容赦など、相手が人間かどうかなど、考えている余裕はない。囲みの薄い所を文字通りぶち抜いてニールの服を破り取ろうとしていた若い男の横っ面を殴り飛ばす。状況を飲み込めない戦士たちが我を取り戻すよりも早く、陣はハルバードを振り回し、暴風のように暴れ始めた。
「うぅぅぅぅぅぅらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
そこに、大音声が響き、地面が揺れるほどの衝撃を伴って……ドゥビットの戦士達が集団突撃を敢行してきた。その先頭にいる、ひときわ大きな鬨の声をあげる姿を陣はしっている。
「ノーリさん!?」
「ジンくん!無事ね!?」
足を止めてジンの安否を確認するノーリ、その横から躍りかかってきた生き残りは、横から放たれた矢の直撃を受け、もんどりうって倒れる。
「おらボケっとすんなよ岩団子!」
「うっさいどチビ!」
「ネレッド!?」
さらに聞こえる知った声、ノーリの死角を補うように立ち回るフービットの斥候は、陣ににやりとした笑みを浮かべると、すぐに愛用の機械弓を構えた。
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騒がしい陣達と対極にある様に、ウルリックとアーディンの間にある空気は静かな、しかし緊迫したものだった。
「なぜです、先輩……なぜ邪教徒を、異種を庇うのです!?」
それはかつて、ウルリックが何度もアーディンからかけられた疑問。故に、ウルリックの答えも変わらず。
「何度も言ったろ?女神教の教義に、ヒュムネ以外を迫害し、奴隷にしろとは書いてない……それに、それぞれが崇める神に、違いがあると思うか?」
「っ……あなたという人は相も変わらず!」
振り下ろされた槌を受け止め、大盾に力を込めてウルリックが続ける。
「寛容であれ、救いを求める心を否定するな……この二つは教義にあったと思うが、今の女神教はそれに準じているか?」
「っ……あなたは!」
アーディンの振るう槌は、勢いこそあるが精彩を欠いている。ウルリックが大盾で槌を弾き、自分の持つ槌の先端をアーディンの喉元に突き付けた。
「揺さぶられると簡単に動揺するのは変わらねぇな、アーディン」
「くっ……!」
明確に突き付けられた勝敗。これほどまで勝てないウルリックという存在が、アーディンには妬ましく、羨ましかった。
「アーディン、お前の真っ直ぐさは美徳だ、お前の隊の連中も、お前のそこに惹かれて一緒にやってるんだろう」
「……」
「けどな、神の言葉は妄信するもんじゃねぇ、いつも、いつだって、道を歩くのは神の言葉じゃなくて、自分の足だ」
あぁ、やはり勝てない……アーディンの胸の内に、訓練生時代と同じ思いが澱んでいった。