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前編

 水も滴るいい男、なんて、よく言ったものだ。



「あの……使います?」


 私は普段、感情に流されて行動するタイプの人間ではない。少なくとも、理性という名のもと分析や予測といったワンクッションを置いてから動ける……そう自負している。

 しかしまぁ、本当に、よく言ったものだ。


「……いい、お姉さん風邪引く」

「大丈夫、もう一本ありますから」


 残業終わりの23時16分。何か月かぶりに体と口が勝手に動き、自分で驚いた。

 職場では機械のように仕事をこなして、キツいノルマに文句ひとつ零さず赤べこのように頷く私にも、情だけで動くことができたなんて。


「使ってください、置いておきますから」


 通り道の歩道橋の真ん中。座り込み項垂れるその人を見つけた瞬間、思わず駆け寄ってしまったのだ。事情とか経緯とか知る由もない。ただ、気付いたら鞄の中に眠らせていた折りたたみ傘の存在を確認し、それまで差していた大きめの傘を彼に押し付けていた。


「待って」


 カシャンという音に、コッコッと再開しかけたヒールのリズムがまた止まる。

 私が手放したはずの大きめの傘は、今まさに折りたたみ傘を開こうとする私の頭上に戻ってきていた。

 隣に置いていたコーラの瓶を倒す勢いで立ち上がった、彼によって。


「送らせて」


 ……ああ、本当に、よく言ったものだ。

 少しクセのある黒い髪が程良く水分を吸収して、その先端から涙のように滴を不規則に垂らす。座り込んでいる姿だけではきちんと把握できなかったけれど、そこそこ背が高い。180センチあるかないか。


「そんな、お気遣いなく……」

「送らせて、お願い」


 どうしたんだろう、何があったんだろう、私に何かできることはあるのだろうか、送ってもらって彼の身の上話でも聞くべきなのか……。

 心配を通り越したおせっかいを発動させるのに充分すぎる台詞と声色だった。ちなみに細められた瞳がダメ押し。


「……家は、」

「お姉さん送ってから」

「……そう、ですか」


 試しに一歩踏み出すと、彼も一歩踏み出した。これはもう、どんなに振り切っても無駄なパターンだ。開きかけの折りたたみ傘を鞄にしまい、「そこまで言うならお願いします」と軽く頭を下げた。彼は「ん」と短い返事をして、私の真横に立つ。どちらからともなく歩き始め、歩道橋の階段を下りた。

 そこから私の住むマンションのエントランスまで、歩いてほんの10分程度。その途中で、彼は口を開いた。


「傘、嬉しかった」

「へ?」

「だから、お礼」

「そんな……わざわざすみません」

「謝らないで、お姉さん悪くないし」


 視線を感じて、一瞬だけ右斜め上を見てみる。目が合ったから、すぐ逸らした。

 やばい。大変申し訳ないけど……捨てられた仔犬にしか見えない。いや本当に、大きいけど、背が高いけど、仔犬にしか見えない。

 どうしてあそこで話しかけてしまったのか……傘置いていくだけで良かったじゃない。私、疲れてたのかな、疲れてたんだろうな。


 溜息を何度かつきながらいつもの帰り道を辿り、気まずい沈黙を乗り越え、エントランスに着いた。


「えっと、送ってくれてありがとうございました。傘、あげます。あと……これもあげます、使ってください」


 百均で買ったハンドタオルを差し出すと、彼は小さく首を横に振る。


「いい」

「でも、あなたが風邪引くことに……」


 私の言葉を遮るように、彼は畳んだ傘を差し出した。その意図が汲み取れず、傘の柄と彼を交互に見る私。


「あの……それ、使ってください。帰るまでにまた雨に濡れたら……」

「返すから、お願い」

「お願い?」

「泊めて」


 …………聞き間違いであることを切に願った。残念ながら、違った。

 その衝撃的な発言が聞き間違いであるどころか、気が付いた時にはもう既に、私は彼の腕の中に閉じ込められていたのだ。

 何で? 何がどうしてこうなったの? 本当に、話しかけるんじゃなかった……!


「寒い……」

「えっ、あの、」

「お姉さん、あったかい……」

「あ、の……」


 そんな、縋りつくように抱きしめるなんて。

 彼の髪に含まれていた水分が、ひやりと私の首筋を伝う感触。敢えて生物学的に言えば、冷たい滴に奪われる熱を補いたいのだろう。とにもかくにも私の体温は急上昇した。


「と、と、泊めるのは……無理、です……さすがに」


 表情は見えないけれど、彼の両腕が抵抗の意思を示す。捨てられた仔犬につぶらな瞳で見つめられているのと同じ心境になってしまうから、不思議だ。


「えっと……泊められないけど……シャワーくらいなら、貸しますから……ほら、風邪引くと良くないですし」

「あがって、いいの?」


 (彼の髪はだいぶ乾き始めてたけれど)水も滴るいい男効果は、まだ私に有効だった。


「ありがと、お姉さん」


 狐かキャッチセールスに騙されているんだろうな、という半信半疑……否、九割疑惑持ちの状態で、私は彼をマンションの一室に招いた。



 ***



「このジャージ、着ててください。まだ乾燥機終わらないので……」

「うん」


 腰にタオル巻いただけの格好で脱衣所から出てきた時は、さすがに軽く悲鳴をあげた。

 仕事、仕事、仕事詰めで寝ても覚めてもキャリアウーマンな生活だったため、そもそも誰かを家にあげるなんてことも久しぶりだった。


「何か飲みますか?」

「ううん、いらない」


 さすがに世話を焼き過ぎてるかな、こういう場合の接客は分からない。

 会社を訪ねてくるお客様は山のように相手してるのに……あ、その場合も飲み物くらいは……でも、いらないって言うし……


「お水だけ、置いておきます」


 もしかして(泊めて、とか常識外れなこと頼んでおきながら)遠慮してるのかも知れない。そう考えた私は、コップ一杯の水道水を彼が座っている前の机上に置いた。

 客に対して水道水って、社会じゃ問答無用でアウトだと思うけど。

後編に続きます。

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