無題1
高校に入学してからの一週間、俺は慣れない環境に情緒をやられ不眠症を患った。絶え間のない幻視と幻聴が、常に俺を苛んでいるせいだ。
このところ本当にロクなことがない。冬以降の幸運といえば、入試の結果を実力によるものだと仮定した場合たったのひとつだけで、それも最初の席替えで教室後方窓際の席を確保できたという程度。幸不幸は波のように寄せ返すなどと、もどきの詩人や哲学者気取りが詠って謳って喧しいことこの上ないけれど。
それを是とした場合、幸運の波だけいささか低すぎると言わざるを得まい。
「どうだ、渡瀬。新しい生活には慣れたか?」
などと訊いてくる担任教師松岡のしたり笑顔が実に癪だった。ごめんね八つ当たりして。
放課後。廊下。傍から見れば教師とふたりきり。ああ、この状況でテンションを上げろというほうが無理だろう。
おそらくは新たな担当生徒との距離を会話で縮めていこうという魂胆なのだろうが、ただでさえ日直でもないのにたまたま目に留まったからなどという理由で授業用の資料を三階分上の世界化資料室まで運ぶ手伝いを命じられた上に、個人的な理由から今の生活にはまったく慣れていない俺としてみれば、もはや挑発されているも同然の台詞にしか聞こえない。
だから俺は笑みを作って「いやあ、まだ一週間ですから。よくわかりません」と、まあだからも何もないという程度のごくごく当たり障りない返答でお茶を濁した。教師に喧嘩を売る気はない。
「そうか。仲のいい奴はできそうか?」
「ええ、まあ。何人かは。同じ中学だった奴もいますし」
如才ないとはこのことよ、と自らを持ち上げるには如才以前に中身がないテンプレ返答。
素直な生徒は、ウケはいいかもしれないが教師の印象に残らない、なんてことを言った中学時代の学年主任を俺は思い出す。それを聞かされいる時点で、おそらく俺は彼の印象には残る生徒だったということなのだろうが、卒業後にたとえば街ですれ違うことがあるとして、いちいち声でもかけられようものなら面倒この上ないと思う。ぜひ忘れてください、と言いたいことも言えないこんな世の中じゃなんとやら。毒づきたいね、まったく。
とはいえ素直に答えるわけにもいかなかった。なぜなら素直に答えては、今おそらくは獲得できたであろう素直という印象評価を手に入れることができなかっただろうからだ。
もちろん試しに《いやあ入学と同時に霊視能力に目覚めてしまったようで、夜な夜な幽霊が枕元に立つんですよ、慣れませんねー》などと素直な答えを返してみるチャレンジ精神がなかったとは言わないが、そのリスクに見合うリターンなど考え得る限りひとつもないし、予想だにしないリターンがある可能性もやはり信じちゃいなかった。
「同じ中学、か。あー、そういえば渡瀬は××中の出身だったな」
この、さも今思い出しました感をバリバリに偽ったバレバレの演技に騙されるような高校生が果たしてこの世にいるのだろうか。
わからないが、少なくともあの世にいる可能性だけならば今、俺の背中辺りで提示されていた。
もっとも背後のそいつを高校生だとするのなら、という注釈は必要だ。
そして当然、俺は背後にいる浮遊存在が高校生であることなど認めないし、それは中学生であるという意味でもないし、そもそも実在しているとも思わない。思いたくない。浮いているのはクラスにおける俺の立場だけで充分だろう。
『わわっ。このせんせー、ちゃんとちゅーたの学校を暗記してるよ! いいせんせーだねえ』
さーてどうだか、なんて答えるわけもなし。
もちろん個人的には、教育熱心な担任教諭が受け持ちの生徒全員分のパーソナルデータをある程度頭に叩き込んでいるという説を積極的に採択したいところだが、残念なことにそれを信じるには俺の目は冴えすぎていた。
ほら、幽霊とか見えちゃうくらいだしね。あと五限ずっと寝てたし。
たとえ目が冴えようと頭は少しも冴えていないのが俺という人種だという説はとりあえず措く。
ともあれ上手い切り返しだ。ここはその台詞を、少しばかり改変した形で盗用させてもらうとしよう。何、幽霊相手の著作権侵害など、親告罪である以上は問題になるまいて。
「松岡先生、生徒がどこ中か全部覚えてるんですか? 偉いっすねー」
「お……おう、まあな。それくらいはな。ははは、ともあれ先生も安心したよ」
いくらなんでもその演技が嘘臭すぎることくらいは自覚したらしい松岡が話題を変えるように何かを口走ったが、もう俺は聞いていなかった。そんなに心配しなくても、「じゃあクラス委員長の上永さんってどこ中なんすかー?」とか意地の悪い掘り下げはしないでやるから。
第一、入学早々の席替えで、教室最後尾窓際の席を引き当てた俺をあえて指名する時点で話があること請け合いだ。その仕事を請け負うことも強制である以上、さて何を言われるかと覚悟していたものの、この分ならそう大した話があるってわけでもないんだろう。単なる様子見、といったところか。
心配しなさんな。そうそうおかしな挙動を見せたりは――まあ、俺だってなるべくしたくないんだ。
「なあ、渡瀬」
それでも突っ込んでくる松岡はやはり教育熱心な教師なのかもしれない。
「なんですか?」
「まあ、あれだ。困ったことがあれば相談に乗るからな?」
えーと、なら先生。
――中学時代に死んだ友達の幽霊が、高校に入学したらいきなり見えるようになったんですけど、これどうしたらいいですかね?
なんつって。
もちろん、こんなものは幻視幻聴の類いであり、曲がりなりにも仲のいい友人を失った心の傷とかそういう系のアレが、こう、なんかしてなんかなってなんだかんだみたないなね。現代の若者の内側に巣食う心の闇が云々とか、確かそんなようなことを、ほら、コメンテーターが言ってたよ。テレビでね。
にしても。
『よかったね、ちゅーた! これはきっと、とってもいい先生に当たったよー!』
やかましいなあ、この幻覚。
※
無論のこと俺は幽霊などこれっぽっちも信じていなかったし、それ以上に自分の心の強さなんつーものを欠片たりとも信じていない。つまるところ俺がある日突然霊視能力的サムシングに目覚めて幽霊が見えるようになりついでに声も聞こえるようになった可能性より、弱い弱い俺の心が都合のいい幻覚妄想を世界に投影しているだけだという可能性のほうを支持している。霊魂も残留思念も死後の世界も輪廻転生も何もかも俺は信じない。死体とは物体であり行き着く先など墓の下オンリー。俺の儚い妄想は墓の下に今も奴が埋まっているという事実が否定している。
それを裏づける証拠として、この幻視幻聴幽霊女は俺以外の人間に姿が見えず声が聞こえない。わざわざ地元の寺にまで行って坊さんと会話したきたのだ。「知り合いが亡くなったので話を聞きたくて」とかなんとか吐瀉物の如く大嘘撒き散らした俺に、今どき感心な子だねなんつって微笑みながら説法くれたお寺の偉いさんには申し訳ない気持ちでいっぱいだ。「彼女の霊は幸せにしていますかね」とかなんとか言ったときは思わずマジで吐きそうになった。
つまりこの程度のことですら心が揺らぐことが証明されたってこと。もちろんお寺さんは俺の背後に霊など知覚していなかったし、この件で俺が得たものはお寺で淹れてもらうお茶は意外に美味いという知識と、やはり幽霊などいないという確信と、また来なさいねという優しいお寺さんの笑顔だけだった。心痛え。
『ねえねえ、ちゅーたー? 今日はもう帰るのー?』
だからうるせえっつってんだろ。忠太、という俺の下の名を、どこか間延びした風に「ちゅーた」と呼ぶのは彼女に特有の発音だった。俺はそれを知っているのだから、これが幻覚ではなく幽霊だという証拠にはもちろんならないし、絶対に俺は認めない。
『ちゅーたー? 無視ー?』
「…………」
考えてもみろ。もしこいつが本当に幽霊だとしてみろ。
嬉しいか? 俺は喜ぶべきか? 死んでなお会いにきてくれた彼女に感謝するべきなのか。
――違うだろう。
そうなら俺は死んでまで彼女を縛りつけていることになってしまう。俺はお寺さんが言った「彼女の魂はきっと天で報われている」という言葉を嘘でも信じたかったし、それを邪魔するものが俺であってはならないと信じている。
そして俺は、自分が今もなお彼女の死を引きずっているだなんて信じたくないのだ。
だからこいつは幽霊じゃない。あくまでも俺の幻覚妄想。幻視であり幻聴でありこの世には存在しないしあの世もできれば存在してほしくないし存在するのならそこで幸せにしているべきだ。こんなところに降りてくるな。
俺は今だって彼女が焼ける葬式の煙の匂いまで覚えているんだから。彼女は亡くなったのだから、その通り亡くなっているべきなのだ。
頼むよ。
死ねよ。
お願いだから。
下らない益体もない取るに足らない考えを頭から振り払って教室の戸を開く。資料室遠すぎなんだよクソ。
開くなり飛び込んできたのは、閑散とした教室の光景。ひと気が少ない。
ああそういや昨日から部活体験週間だったっけか、と思い出しながら自分の席に歩いていく。みんなさっさか部活動見学に向かったか、興味なければ帰ったのだろう。待っていてくれる友人がいない? いや何まだまだ。
「ねえ? えっと――そこのアンタ」
「渡瀬くんだよ、アキちゃん!」
「ああ、そうだっけ? んじゃそこの渡瀬」
唐突にかけられた声を一瞬だけ無視しそうになる。
だが違う。あいつは俺を渡瀬と名字で呼ぶことはないのだ。いや違うそもそも幻覚だ。
だとしても幻覚に反応しないように、という警戒がわずかに返事を遅らせて。
「……、っと。ああ、えっと……なんだ?」
それを誤魔化しながら答えた俺に、教室に四人だけ残っていた生徒のうちのひとりが言う。
今し方、俺に声をかけてきた――名前、なんだっけ? 覚えてねえや。
「渡瀬。アンタ今までどこ行ってたの?」
警戒と敵意の滲む態度。
ふむさて。名前も知らん相手にこんな態度取られる理由なぞ心当たりないが。
まあ、どうでもいいとしておこう。
「どこって……資料室だけど」
「資料室? 何それ? なんでそんな――」
「違うよ、アキちゃん! 渡瀬くんは、ほら、授業のあと先生に頼まれたから」
「そうだっけ。覚えてないけど……リナが言うならそっか」
途中で声を挟んだ女子生徒のお陰で、最初に声をかけてきたほうの女子が何かを納得する。
それでも彼女は、睨むようにこちらを見据えて訊いた。
「にしちゃずいぶん遅い気がすっけど。アンタ、何? 途中でどっか寄った?」
「別に……どこにも」
「ふうん。あっそ。まあどうでもいいや。んじゃ行っていいよ」
「ああ何様だテメエはっ倒すぞ」
なんて言える度胸があったら幻覚なんて見てないっつーね。言ってませんよ、もちろん。ええ。
とはいえ不快感を抱いたこと自体は事実だ。それは表情にも出てしまったらしい。
「何? なんか文句ある?」
などと問うアキさんとやら。
特に何もない。流そうとしたところで――
『なんですかっ! そんな言い方されたら気になるに決まってます!』
「そうだな。そりゃそんな言い方されたら気にもなるわ」
俺は言わなくてもいいことを言わされていた。
おーい。幻覚さんやー? さっきまで反応しないようにとか言ってた気がもにょもにょ。
あ―これ無駄に怒らせたんじゃないの、っていう危惧はともかく、答えたのは意外にもアキとかいうクラスメイトではなく、その横にいたリナとかいうほうだった。そういや両方クラスメイトだわな。
「あ……ごめんね? ちょっとアキ、気が立っててさ」
「リナ――」
「なんでもないの! ただ私の――その、ポーチがなくなっちゃっただけで!」
「ポー、チ?」
その程度かよ、というニュアンスを『ポー』の辺りまで込めてしまった。『チ』の部分で軌道修正したつもりだが、さてバレているだろうか。違いますよ、疑問しただけですよー。
「う、うん。アキが、盗まれたって聞かなくて。わたしは失くしただけだと思うんだけど」
『うわあ。それは大変だねえ。探さなくっちゃ!』
「だって、いきなりなくなるなんてあり得ないじゃん!」
あり得ない、なんてこたぁない。モノどころかヒトだって、気づいたときには失っているもんだ。
まあ、そのうちひょんなことで戻ってくることもあるさ。せいぜいポーチの幻覚だけは見ないよう気をつけてくれ。
実際に俺はこの時点で関心を失った。へーそっすかー、という感じでそのまま自分の席へ近づき、鞄を持ってそのまま帰り支度を始める。面倒に巻き込まれたくないとか関わり合いになりたくないという以前に、そもそもとして興味がない。
さっさと帰ろうと再び扉に向かったところで――。
『あ、あったよぉ。――このひとが持ってたみたい!』
「――――」
さすがに、足を止めざるを得なくなる。
何を勝手に探してんだとかいきなり見つけてんじゃねえよとか言いたいことはいろいろあったが、そんなことはこの際まったく問題じゃない。そうでなくともツッコミどころは大量にあったし、違和感なんてそこら中に振り撒かれていたが、この幻覚妄想が俺にしか見えていない時点でわざわざ教えてやる義理もなければ説明のしようもなかった。
踵を返して振り返る俺。
教室の中でふよふよ浮かんでいる幽霊が、四人の女子生徒のうちのひとりを明らかに指差していた。
――これは、ダメだ。
だってそうだろう? 仮にこいつが霊体であるところの自由を駆使して彼女たちの持ち物を検査してなくなったとかいうポーチを見つけ出したとしよう。この時点で明らかにおかしい点がひとつある点はとりあえず措くが、重要なのは《俺が知らない情報》を《霊体が知っている》という一点に終始する。
この場合、俺はここにいる幽霊某さんが彼女であるという事実を認めなければなくなってしまう。
幻覚や妄想で自分の知らない情報を入手することなんてあってはならない。そんな都合のいい自己暗示はない。
このまま帰るという行為自体が彼女が彼女であるという事実を認めるも同然なのだ。
「おい。そこの――えっと、アキとかいう奴」
俺はその場で踵を返して再び四人のほうへと視線を戻す。
あ? という威圧するような視線が俺を貫いたが、んなこたどうだっていい。今の俺にとって重要なのはこの幻視幻聴が本当に幽霊であるなどというふざけた可能性を潰すことであって、お前らがなくしたポーチになど一切の興味はないということ。これだけはしっかり含んでおいてもらいたい、ところだが言えるわけもないので仕方ない。
さて、どうしたもんか。
方法論その一。幽霊の言っていたことが間違いであると証明する。
当たっていないのなら俺の知らない情報を幽霊から提供されたなんて不可思議も否定される。だがこの場合、いずれにせよ盗人とやらを特定しなければならない上に当たっていた場合にどうしようもなくなる。
ならば方法論その二。
よしんば当たっていたとしても俺くん霊視能力覚醒説を否定するにはどうするか。
――要するに、俺にとってポーチの行く末が既知の情報であればいいわけだ。
なら証明するとしよう。俺は彼女たちの話を聞いた段階で明らかにおかしい点に気づいており、それが深層心理下で俺に自覚を促そうと幽霊の形を取って教えたのだ、ということにしてしまおう。
実際問題、今の話には疑問点が含まれていた。それも複数。
これを突っついていけば、なるほど俺は予感としてそいつが犯人だと感づいており、単にこの場を去ろうとする罪悪感とかそういう類いのものが俺を突き動かしたに過ぎない、ということにできなくもない。幽霊などおらず、あくまでこいつは幻視幻聴幻覚妄想。
それをこの場で証明しようじゃないか。
「――お前、五限の授業が終わったあと、どこ行ってたんだよ?」
そのために俺は口を開く。
さて、謎解きのお時間です。
推理なんて面倒だ。謎なんて謎のままであってくれたほうが俺にとってはありがたい。
不必要なのは確信で、つまり俺はあいつには死んでいてほしいということ。にもかかわらず俺の弱さが具現化してしまった妄想なら、今度こそ俺が殺してやらなければならない。
こいつはそういう戦いだ。
教えられて知ったのではなく、その前から気づいていたのだと自らに対して証明する。
そのために俺は謎を解く。
――全てはそこにいるはずのない、彼女の幻影を殺すため。
某企画のために考えたのですが様々な理由から没となった原稿の供養です。