リバーサイドの憂鬱
お正月企画その9
「はあ」
と、川岸津美子は憂鬱な溜息をついた。
リバーサイドであった。
「憂鬱だわ……」
津美子は口に出して憂鬱という。
だが仕方ない。事実、津美子は確かに憂鬱なのだ。
なぜなら目の前にあるポ〇ラDM100は、未だ一文字も書き込まれず真っ白だったのだから。
そう、川岸津美子は文字書き――同人小説家なのだった。
主に恋愛小説を書いている。
なお女性は登場しない。
彼女のペンネームは《賽野河原子》。
ツイッターのフォロワーは800人。
同人誌は、即売会において30~50部ほど捌けている。がんばっているほうだと自分では思う。
今は最新作の進捗がやばいのだった。
「ああ。憂鬱だわ。まるで涼宮ハ〇ヒのように……」
それは違うのである。
「宇宙人、未来人、異世界人、超能力者の男がいたら、私の前で絡み合ってほしい……」
当然、現実改変能力も持っていないのである。
「古キョン……」
もはや関係がないのである。
つらたんであった。
賽野河原子こと川岸津美子の本業は広告代理店勤務のOLである。
この冬休み、独り身の彼女は上司からの有給消化命令で獲得した五日間の休みを温泉旅行に当てていた。
何、金ならあるのだ。趣味には金銭を注ぎ込むタイプの津美子であったが、稼ぎのほうが勝る。
イベントごとは仕事の忙しさもあって、せいぜい夏冬の即売会くらい。ライブやアニメイベントには参加できない。かといってグッズの類いにはそこまで興味もなく、買うとしても漫画や小説、アニメのBlu-rayくらい。
津美子の預金通帳は数字が増えていく一方であった。
「今のうちから、夏の原稿を始めないといけないのに……」
正確に言えばスケジュール的にはまだまだ余裕がある。
それは仕事の忙しさを鑑みてもだ。ただ仕上げるだけなら間に合わないということはない、と思っていた。
問題は一点。
津美子はイラストを描けない。
小説本とはいえ、せめて表紙くらいにはイラストが欲しいところだ。ただでさえ同人漫画と比べて、同人小説は即売会でも市場規模が小さい。津美子が最大で50部も捌いたことには、陰の努力があるわけだ。
津美子は自分の本のイラストを大学生の弟に頼んでいる。
名を石太といった。
津美子と違い、石太は絵が描ける。だが大学が忙しいらしく、筆も遅い石太には、早めに依頼しておかなければ間に合わなくなってしまうのだ。石太は津美子の趣味にも理解があり、せいぜいご飯を奢ってやるくらいの対価で描いてはくれるものの、そもそもとしてあまり同人界隈に興味がない。所属する研究室が忙しくなれば断られるだろう。
そのくせ、下手をすれば自分の本文より石太のイラストのほうに人気がありそうで困る津美子だった。
「どうしたものかしら……」
いくら原稿に向かっていてもまるで進捗ダメです。
少し休憩しよう。このままではネタ出しすらままならない。
そう思って津美子は顔を上げた。コーヒーのお代わりを注文しようと思ったのだ。
正面の席に座る人物が目に入ったのは、ちょうどそのときだった。
……あら。
津美子はその光景に目を見開く。
今、津美子はホテル《リバーサイド長谷川》の一階ラウンジにある喫茶《六文銭》にいた。宿泊室の椅子と机は高さが低すぎて腰によろしくない。だから、川の見える窓際の席で、ゆったりと座れる喫茶店を選んだのだ。
時間は昼下がり。観光目的の宿泊客は、とっくに宿を出ている時間。
少なくともこの時間、喫茶《六文銭》にいる客は津美子を除けば正面の人物だけだった。
そこにいたのは、ひとりの男性であった。短髪を派手な金に染めており、ずいぶんと目立つ外見だ。
それだけならば意識には留まらなかっただろう。たとえ見つけたとしても注視はしない、というかむしろ避けたくなるような容貌ではあった。津美子はチャラ男が苦手だ。大学時代のクソ彼氏を思い出す。
あの野郎、何がホモはちょっとだ。お前、俺のこともそんな目で見てたの、だと? 見てたわバーカ。
こっちゃお前が「俺って結構オタクなんだよねー」っつーから趣味を開示したんだぞ? それがなんだあの態度は。わたしが悪いのか。いやそりゃまあちょっとは悪いかもしれないけど。野郎。
そんなことを考えてしまっていたせいだろう。
ちょうど顔を上げた金髪の男と、ばっちり目が合ってしまう。
「……えっと。何か……?」
しかも声をかけられてしまった。
だがこれは津美子が悪い。思いっきり見ていたのは自分のほうなのだから。
「あ、いえ。すみません……ちょっと気になってしまって」
頭を下げて津美子は言う。
思いのほか、柔和で話しやすそうな雰囲気だったからかもしれない。
ただそれ以上に気になっていたのは、金髪の男性が、四人掛けのテーブルの上に紙束を置いていたことだ。
会社の書類、という雰囲気ではなかった。それは大半が何も描き込まれておらず、そして男性は片手に鉛筆を握っている。
まるで漫画のネームを作っているかのようだった。
「はは、すみません、お恥ずかしい」
青年は軽く頭を掻いた。人好きのする照れたような笑みだ。
そのせいか。いくぶん警戒の解かれた津美子は、思い切って訊ねてみることにする。
「失礼だったら申し訳ないのですが……もしかして、漫画を描かれて……?」
「ええ、まあ。ネームを切っていまして。ほかにお客さんがいるなんて気づかなかったな、はは……」
「漫画家さんなんですか?」
「いえいえ! これは同人で……えーとつまり、趣味なんですけど」
男はやはり恥じらいながら言う。
気弱そうな物腰だった。
「ええと。や、いつもはデータで処理するんですけど、ネームの段階では紙でやるのが僕は……えっと」
何やらしなくていい話までする始末。
その姿に津美子は思わず微笑む。それから彼にこう告げた。
「ああ、大丈夫です。わかりますよ。すみません、邪魔をしてしまって」
「これはどうも……いえいえ。正直まったく進まなくて、詰まっていたところなんです」
「そうなんですか」
「……失礼ですけれど、テーブルの上のそれ、ポ〇ラですよね?」
もしかして、という表情の男。
津美子は頷いて答えた。
「ああ、あはは……実はわたしも同人で、その……小説を書いていまして」
「ああ! では、お仲間ですね。なんて言うのもアレかもですけど」
「や……いやいやいや。わたしなんて、その、ええと……ぜんぜん絵なんて描けなくて」
「僕だって、小説はまったく書けませんよ」
なんという偶然だろう、と津美子は思った。
まさか旅行に訪れた温泉地で、界隈のご同業に近い人物と遭遇するなんて。
津美子の内蔵するOTAKUセンサーがピーと音を響かせた。
心臓が、跳ねるような気がした。どくん、と。
高まる緊張。正面には顔のいい男性。しかも趣味はお隣。
ああなんてことかしら。
この、運命の、出逢いは。
もしかして。
――グヘヘヘいいネタになるんじゃないッスかね?(ゲス笑い)
津美子はどこまでも腐っていた。
乙女回路が叫ぶ。
「うぇへへ、この場にあとひとり男が欲しいっすねゲッヘ」
「え?」
「ああいえなんでも」
津美子はさっと視線を逸らした。
いけないいけない。腐葉土が漏れ出た(?)。不用意だわと。
危ない笑みを咄嗟に隠した津美子に、ふと男が言う。
「そのキーホルダー」
「え?」
「ああいえ、すみません。カバンについているものが目に入ってしまって」
「カバン……ああ」
テーブルの上に乗せていたポシェット。
そのチャックに、津美子はキーホルダーをつけていた。
超人気ベーゴマバトルアニメ『ゴマカッターRYU』のライバルキャラ、ワッキーヤくんだ。
「好きなんですか?」
「ええ、まあ」
問いに津美子は、当たり障りのない感じで答える。
男は笑った。
「いいですよね。僕も好きなんです」
「そ……そうなんですか。いやあ奇遇ですねえ」
「ええ。いいですよね、少年向けらしい熱さがあって。展開も面白くて」
「ですよねー」
いやもちろん作品としても好きなのだが。
それ以上に、こう、男の子同士の絡みを目的に観ているとは言えない津美子であった。
と、そのときだ。この喫茶店の店員らしき中年の男が、金髪の男の席に近づく。
おそらく注文してあったのだろう。コーヒーを運んできたのだ。
そういえば自分もお代わりを頼むつもりだった、とそこで初めて津美子は思い出す。
手を上げて、ちょうど近づいてきた店員を呼び止めようとした彼女は――。
「――はっ」
けれど、そこで言葉を失った。
目の前には作品に悩む金髪の男と、興味を持ったのか声をかける中年の店員。
「失礼ですがお客様、漫画家さんなのですか?」
「え……あーと、まあ、そんなような……」
「ははあ、なるほどすごいですね。私も漫画が好きなので気になってしまって」
小さな旅館の中の喫茶店員らしいフランクさを持つ中年男性。
金髪のほうは恥じらいつつも、興味を持ってもらえたこと自体は嬉しいのだろう。朗らかに答える。
旅先の解放感も、あるいは含まれているようだった。
「いえね。これでも私も昔、東京である漫画家さんのアシスタントをしていまして」
「え!? そうなんですか……へえぇ」
「はははは。まあ私には才能がなかったので。夢を諦めて田舎に戻りましたが」
「はあ……そんなことが」
「ええ。おっと、声をかけてしまってすみません。がんばってください」
そんな光景を見て。
津美子は、小さく呟いた。
「……いい……」
「え?」
店員が去ってしまったからだろう、こちらに気づいた金髪が首を傾げる。
津美子ははっとし、誤魔化すようにこう言った。
「あ、ええと、その……なんか喫茶店の店員さんって憧れますよね!」
「そう……ですか? 女性でも?」
「え? ええ、まあ……それは、なんとなく。格好いいですし」
「――はっ!」
「え?」
「いえなんでも。ははは。いいですよね喫茶店」
「ええ。いいですね喫茶店」
「ははははは」
「うふふふふ」
※
夏の即売会で津美子が書いた新作『鬼畜喫茶シリーズ』はその後、津美子の代表作となった。
同時期、某有名壁サークルが新作の百合物『恋喫茶シリーズ』を描いていたが、同時期に話題を攫ったこれら喫茶店シリーズに関係があることを知る者は、誰もいないのである。
このタイミングでバズった懐かしのワードに笑う。
あとひとつ!




