餅怖くない
お正月企画その5
――いえね。ここ、出るって噂なんですよ。
という不動産業者の言葉を、俺は何ひとつ信じなかった。
どころかむしろ歓迎したくらいのものだ。
なぜなら家賃が安くなるのだから。俺が幽霊を信じない以上、単にお得なだけである。
まあ、さすがに事故物件だと言われていたら躊躇した、かもしれない。
だがそういう話でもないという。
この部屋で誰かが亡くなっただとか、陰惨な事件の現場だとか。そういうことはまったくないらしい。
――ただね、夜な夜な聞こえるって話なんです。
不動産業者はそう言った。謎の泣き声するとかなんとか。
どうでもいい、としか思わなかった。
俺はそのアパート《もちもち荘》の一室で暮らす契約を結ぶ。
全ての手続きが終わってから、これからは住所書くときもちもち荘って書くのかあ、と初めて嫌な気分になった。
※
入居初夜。正直、このときにはとっくに業者から聞いた話など忘れていた。
それなりに過ごしやすかったし、初めてのひとり暮らしに舞い上がってもいたのだと思う。片づけを終わらせ、食事を終え、シャワーを浴びてから歯を磨いて、そしてベッドに入る。
引っ越しの疲れもあって、すぐに俺は眠りに就いた。
音に気づいたのはそのあとだった。
耳障りなそれに目を覚ます。まだ見慣れていない天井が視界に入った。
最初は、慣れない環境に落ち着けないでいるのだと思った。だが微かに、けれど確かに音が聞こえる。
おれは業者から聞いたことを思い出していた。
泣き声――だろうか?
よく聞こえない。だが確かに届く音。俺は耳を澄ませて正体を確認しようとする。
そいつは今、俺がいる部屋の中から聞こえた。
昼間は何も聞こえなかった。夜になって初めて音がする。
そのことは確かに多少の恐怖を感じさせたが、やはり幽霊だなんて信じちゃいない。
隣の部屋の音が響いているだとか、水道管から夜間だけ異音がするとか。どうせその程度のことだろうと。
音の出どころを確かめるべく、俺は耳を澄ませた。
――聞こえた。
「もちもち」
もちもちという音だった。
「…………え?」
「もちもち」
「いや。え?」
「もちもち」
「何これ」
「もちもち」
「ていうか誰?」
「もちもち」
うるせえし一周回って逆に怖えし、いや、もちもちって。何?
もちもちだった。
もちもちと聞こえてきていた。
もちもちした音がするとかそういうことじゃない。そもそももちもちした音の意味がわからない。
そうではなく、もう完全にただただ言葉としてもちもちと喋っている声がするのだ。
泣き声がするとかじゃない。
しいて言うなら鳴き声がしていた。
俺は布団から起き上がって部屋を見渡す。
と、なんだろう。部屋の隅、引っ越しに使った段ボールが並べられているその隙間に、何か白いものが見えた。
それはよく見ると白いものだった。
説明になっていない。
だがほかに説明のしようがない。
俺に見えたのは《白いもの》であって、それを《白いもの》という以外の語彙で表現することが難しい。
「……ふむ」
なんか、いる。
それはとりあえず理解した。
よもや本当に霊なのか。だとしても俺に恐怖はない。
俺は、その白いサムシングに声をかける。
「おいお前! 俺の部屋に化けて出るとはいい度胸じゃねえか!」
「もち……?」
そいつが言った。
「ま、まさかわたしが見えるもちか……?」
「本当に喋ったよオイ」
どこだよ口。
「なんだテメエ、やっぱり霊魂とかそういう類いか。まさかと思ったが……なるほど。なんか白いしな」
「白いって関係あるもち? いや白いけれどもち」
「幽霊ってなんかなんとなく白いだろ」
「かもしれないけれどもち」
「いいから。ていうかお前は出てこい、とりあえず。安眠妨害だ」
「す、すみませんですもち。今出ますもち……まさか見えるとはもちもち」
もちもち言いながら、そいつは段ボールから姿を現す。
やっぱりなんか真っ白だった。
「お前……えっと。その、誰? 誰っていうか、え……何?」
「すみませんもちすみませんもち……」
「いや。だから……えっと」
「わたしは」
白いものは、名乗った。
「餅です」
「餅」
「そう。お餅」
――お餅。
「嫌嗚呼ああああああああああああああああああ怖いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!!」
「えっ今さら?」
※
「すまない。無様を晒したようだ」
落ち着きを取り戻し、俺は言った。
部屋の隅で膝を抱えて蹲って。
「現在進行形で無様を晒し続けている気がするもちが……」
「何を言う。俺はお前など何も怖くない。餅怖くない」
「尻餅をついていたもち」
「餅にかけて喋ってくるのやめろ」
「じゃあなんでそんな部屋の隅っこに行ったもち?」
「これはただの完全防御姿勢」
「これはただの完全防御姿勢」
「おい俺の言ったことを繰り返すのやめろ」
「やっぱり怖いんじゃないもちか」
「怖くない」
「もち」
「もうもちもちもちもちもち言うのやめて本当もうっ!」
「……なんかごめん……」
別に『もち』をつけなくても普通に喋れる餅だった。
餅が喋っている時点で普通じゃない点は除く。
「ていうか、あなた、幽霊は怖くないのに餅は怖いの……?」
餅に言われる俺である。何これ。
今、俺の目の前には段ボールから姿を現した餅がいる。
すげえ日本語だ。
餅は、言われてみれば餅以外の何者でもないというかなんというか。とにかく餅! っていう感じの見た目。
なんだろう、たまにフィクションとかで発射されるトリモチを思わせるヴィジュアルだ。白くて温かそうな柔らかいもちもちした、まあ要は餅が、おおよそ人間サイズで目の前にいた。
だから何それ。
「喋る餅は怖いだろう、どう考えても」
「まあそうですが」
「もっとも、俺は怖がってなどいないがな」
「あ、頑なに認めない形で。はい」
「ちょっと餅にトラウマがあるだけだ」
「餅にトラウマ」
「幼い頃、餅を喉に詰まらせたことがあってな……」
「ああ……」
「アレは俺が七歳の頃だった」
「そうですか」
「らしい」
「……らしいって言いました今?」
「七歳の頃のことなんてまともに覚えているわけないでしょ!」
「まあ微妙なラインですけど……ならなんで」
「その思い出を家族がいつも語って聞かせてきたんだ」
「ああ」
「『お前は餅で喉を詰まらせた』『危ないところだった』『お前は餅で』『餅』」
「言われ続けたんですね……」
「お陰で、俺は餅を喉に詰まらせた記憶もないのに餅が怖い。あっ違う怖くはない。ちょっとアレなだけだ」
「絶対に認めない」
「いや、ていうかお前はなんなんだよ!!」
俺は至極真っ当な突っ込みをした。
餅がもちもちする。
間違った。もじもじする。
……まあもちもちしてるんだがもちもちしてる様がもじもじしているように見えるという、もう、この説明いる?
「うぅ……話を誤魔化しましたね……」
「誤魔化してない。どう考えても正当な疑問だろうが」
「まあそうですけどぉー」
「決して餅が怖い話に突っ込まれたくないとかじゃない」
「……逃げたもちー」
「語尾やめろ。反撃してくんな」
「わ、わたしは見ての通りのしがない餅ですよう」
「しながい餅て」
「正確には神様です」
「いや、餅なんじゃねえのかよ。餅から神はちょっとワープ進化しすぎだろう」
「アレです。要するに、付喪神ということですよ」
「付喪神」
「そうです。餅の付喪神なのです」
「へ、へえ……」
「付餅神なのです」
「なんでちょっと上手いこと言おうと試みたの?」
「餅つき神ではありませんよ? えへへへ」
「上手くねえから」
「お餅は美味しいですよぅ」
「そういう話はしていないんだ」
えへへへ、と恥じらう餅であった。
餅に話しかけられた人類なんて俺が初めてではないだろうか。
いや。そういえば以前、知り合いが言っていた。
『昔、ちょっと育てていた豆苗が話しかけてくることがあってね。アイドルだったよ』
ついに頭がおかしくなったのかと思ったが、もしかしてあれは本当の話だったのだろうか。
餅が話しかけてくるのだから、豆苗が話しかけてきてもおかしくないような気がする。
いや違う待て落ち着け。
どう考えてもどっちもおかしいとしか言いようがないぞ。毒されてきてる。
「……で? その餅が、どうして夜中に『もちもちもちもち』呟いてたんだよ」
もう餅がいるという前提がどうしようもないので、そのあとのことを俺は訊く。
できれば前提のほうをどうにかしたかったが、だっているんだもの。どうしようもないじゃないですか。
俺の問いに、餅はきょとんしたように(したかわかんないけど)答える。
「ええ? それはまたおかしなことを訊きますねえ」
「そんなにおかしなこと訊いた今……?」
「だって餅ですよ?」
「餅だな」
「餅はもちもちしているものでしょう」
「餅はもちもち言うものではねえよ」
「あっ盲点」
「なんなのお前」
「ですよね、すみません。確かにそうでした。餅としての義務感がつい」
「餅としての義務感がつい」
「繰り返して言うのやめてもらっていいですか……」
「……」
「……」
「なんか、落ち着き始めたね?」
「お前を突いてやろうか」
「餅だけに……」
「お前もう本当にそれやめろよマジで」
餅はダジャレが好きだった。
「……なんで、お前はこの部屋にいるの?」
俺は問う。すると餅はちょっとむっとしたように膨らむ。
膨らむって言うと餅っぽくて腹立つから、やっぱむくれるに表現変えたい。
「そんなことを餅に聞かれても困るよう」
「現在進行形で俺を困らせてる奴が言うんじゃねえよ」
「えー、でも先にこの部屋にいたのわたしだし」
「違法占拠じゃん……」
「付喪神に人間の法律とか関係ありませんー」
「横暴すぎる」
「まあまあ。ほら、座敷童がいると思えばむしろハッピーでしょう?」
「座敷童じゃないじゃないですか。餅じゃないですか」
「じゃあ座敷餅ってことで」
「新しい概念を作ってくるのやめろや」
「もうっ、何が不満なんですかぁ」
「引っ越してきた部屋に喋る餅がいたことかな……」
「正論はダメだよぅ……」
すすり泣く餅だった。
なんか、ちょっと感情移入し始めている俺がいる。
「出て行くわけにはいかないのか」
「持ち出し禁止です」
「餅だけにね。よしブッ飛ばす」
「すみませんごめんなさいちょっとしたお茶目ですっ!」
「いいから出てけや!」
「そんなこと言わないでくださいよぅ……お願いですよぅ……うえぇぇ……」
「イギャー縋り寄ってくるなァ!?」
「やっぱ餅怖いんじゃないですかー!」
「餅怖くない!」
「わたしが見える人は貴重なんですよぅ……これでも餅だからぁー。餅の付喪神だからぁー」
「わかった、わかった! わかったから、やめ、こっち来んなやめちょっ、ま、こわ、怖い怖い怖い怖い怖い!」
「餅は怖くないですよう……」
「わかったから近づいて来ないでっ! どうすれば許してくれますか!?」
「じゃあわたしといっしょに暮らしてください」
「くそぉ代償が大きい!」
「でもほら、わたしといれば餅が食べ放題なんですけど」
「餅は嫌いだっつってんだろ!!」
「酷い!」
ともあれこうして、俺は餅と暮らすことになった。
※
五年後。
餅は餅ではなく人間の形態になれることが判明した(付喪神だから)餅と、俺は籍を入れた。
今、餅のお腹は餅のように膨らんでいる。新たな命が芽生えているのだ。
「えへへへ……きっとかわいい子どもが生まれますよぅ」
餅が笑う。俺もまた笑顔を作った。
鏡餅のように、座敷童のように、彼女はきっと俺に幸せを運んできてくれたのだ。
俺は、もう餅を怖いとは思っていないのだから。
生まれてくる子どもはきっと、餅のようにもちもちした肌をしているだろう。
初めてお正月らしいお話になりましたね!(洗脳)




