印象世界のポーン兵
ゆえにこそ、その都市を観念で捉えることはできない。
それは決して虚構ではない。確かにそこに存在する。だが時に陽炎のように揺らめき、時に波濤の如く揺蕩うそれを正確なカタチとして認識することは難しい。それは一秒だって同じ形を保たず、生き物のように在り方を変えた。
侵食性増殖性都市《ヒューム・ウォール》。
印象術師たちの間では、一種の結界として認識されるモノだった。
堆き移動する小山でありながら、寄せ返し全てを呑む津波でありながら、ありとあらゆる観念を喰らう空虚としての怪物である。
「はあ……はっ、ぁ――クソっ!」
青年は、そんな印象都市の一角を毒づきながら走っている。
いや、逃げている、と表現したほうが正解には近い。
すでに呼吸は上がり切り、今にも縺れそうな足に鞭を打って駆ける青年だったが、限界はとうに見えていた。
未だ追っ手に捕まっていないことが、奇跡とは呼ばずとも幸運だ。その理由は単純なもので、こんな下層の都市など追っ手にとっては未開の世界に等しく、一方で青年にとっては庭も同然だったこと。単純な地の利があったからこそ、なんとか捕えられずに済んでいる。
体にはあまりよくなさそうな、蒸気というより瘴気に近い煙が街を覆っていた。
これが街そのものの呼気だというなら、そもそも人が住むべきではない。だとしても人は都市に寄生する。いわば、生命としての都市を流れている、その構成要素の一部なのだった。
裏路地を駆ける。寂れたバーの位置を示す、悪趣味なネオンの広告が明滅していた。
表示された店名など読みもせず、黒の金属に四方を覆われた暗闇を走った。空さえここからでは見えず、道というより洞窟か、あるいはそう――怪物の体内としての印象だ。
複雑に入り乱れる器官を、けれど青年は迷いもせずに駆け抜けていく。折れては曲がり、あるいはうねり、その様相はほとんど立体迷路に等しい。地理に詳しい青年だからこそ、こうして追っ手を撒けている。
だが地はともかくとして、天と人は青年に対し、どうやら協力の意思が薄い。
――ましてこの状況で地にまで見放されては、無力な子どもに為す術などなかった。
うぞり、と。
突如として青年の目前で、走るべき道がカタチを変えた。
右が左に、左が右に。いっそなんらかの芸術作品かのように回転する。
地を駆けているのか天を走っているのかさえ、視覚ではもはや捉えようもない。
ならば認識するべきは――印象だ。
だが、青年にその素養はない。それでも駆け続けられること自体、いっそ異様と言ってもいいだろう。
それさえこの都市の異形性には呑まれるのだとしても。
道路が蠕動する。波打つ地面を、まっすぐ駆けようとすること自体に無理があった。
まるで、のたうつ蚯蚓の体内を這っているかのような気分だ。この道をこのまま進むのはよくない。
――迷え、
迷え、迷えと、世界が謳う。
この道は人を迷わせるものなのだからお前も迷わなければならない――そう告げるように。
「やかましい……!」
その声が錯覚でしかないことを冷静に理解しながらも、あえて答えて青年は地を、あるいは天を蹴った。
流動する舗装道。波打つそれが最も高きに至ったところで、青年は地面を蹴って横合いのビル――そのベランダから剥き出しになっていたパイプへと手を駆けた。身軽に身を捻って高いところへと避難する。
限界は、もう少し先に引き延ばせるはずだった。
掴んでいたパイプが、突如として生命を得たかのように動き出すことさえなければ。
「が……っ!?」
がくんがくん、と直角軌道するそれを、蛇と呼ぶのは烏滸がましかろう。
だが印象としてはそれに近い。対面の壁へと無駄な折れ曲がり方をしながら伸びて刺さったパイプが、槍のように青年の肩を貫いて、黒い金属壁へと磔にした。
痛みはない。少なくとも、貫かれた右肩には。せいぜい壁に叩きつけられた勢いくらいのものだ。
パイプは確かに貫通している。本来なら怪我では済まないはずだ。
だが傷口がない。赤い血が零れるはずの肩にあるのは、濃い墨汁の染みのように黒い穴。
「クソ、印象術師どもめ……!」
青年は暴れた。だが傷がないこと以上に、物理的に縫い留められているわけではないことのほうが問題だ。
どれほど抵抗しようとも、肩口で自分を壁に縫い留めるパイプの槍から逃れられない。そこに物理的な法則など介在してはおらず、ただ印象だけが全てを決める。
「ざけんな……ここで、なんもわかんねえまま殺されて堪るか!」
左腕で右肩に刺さったパイプを掴み、中空でとにかく揺らすように暴れる。
それが功を奏した、わけでは決してなかった。だが直後、青年はその戒めから解き放たれることとなる。
どぷん、
と。まるで肉体が急に液状化したみたいな音がした。肩を貫いていたはずのパイプが、するりと上方向へ抜けていく――いや、自分が下に落ちただけだ。それこそ肉体が流体化したみたいに、青年の体が道路へ落ちる。
肉体が肉体として保たれていることは、着地の反動で理解した。この程度で体勢を崩すようなことはないが、それでも足に跳ね返る地面の感触は、確かに互いの固さを伝えている。
無論、これで状況が打開されてわけではない。
むしろ逆だ。これで、全ての状況が詰んだために青年は解き放たれたのである。
気づけば、周囲を複数の人影が覆っていた。
どれもが画一的だ。身長も体型も変わることがなく、その全身を統一規格のスーツとヘルメットが隠している。
量産品じみた兵隊の群れ。そう表現するのが最も近いだろうか。
それらは、チェスの兵卒を彷彿とさせた。
というよりも、それらは実際にポーン兵とあだ名されている。顔を覆う丸いヘルメットと、誰もが同じ格好をしていることからつけられたのだろうと、見れば一発で理解できるくらいだった。
だが、それらを兵士と呼ぶには足りないものがひとつある。
兵装――つまり武器だ。それらは武装していない。全身のスーツとヘルメットが防具だと言えばそうだが、攻撃的な武装を何ひとつ身に纏っていないのだ。
それもそのはず。
そこに不思議はひとつもない。
なぜなら、それらにとって武器とはすなわち、この都市そのものなのだから。
青年を囲むポーン兵。それらが一斉に片手を挙げる。
それらはこの都市において《印象術師》と呼ばれる、ある種の異能者の一団だ。
現実を印象によって改変する異能集団。その尖兵たる統一規格の意思なき兵士。
それが操る異能とは――そのもの印象で世界を捻じ曲げる術。
印象術。
世界を思うがままに変換する、神への冒涜とも呼ぶべき偉業/異形である。
次の瞬間、大地はその原型を完全に失った。
もちろんここは街の中。大地を移動し、通過した全てを呑み込みながら成長していく侵食性増殖性都市型結界、その内部。ゆえにそれは大地ではなく、あくまで造られただけの金属板でしかない。
だが、だとしたところで。
こんな風に硬度を保ったまま柔らかく歪み動くはずがない。
金属としての硬度と、液体としての流動性。
そのふたつの性質を同時に保ったまま、意志を持ったかのように襲い来るそれ。
世界そのものが一斉に敵に回ったにも等しい光景だった。
「――CODE:P603‐6573/処分」
冷徹に響いたのは、声とも機械音とも取れない個性なき言語。
一切の感情なく、ただ命令された通りに、それは青年の全てを呑み込もうとしている。
――ふざけるな……!
そう思った。なぜこんなところで、わけもわからず殺されようとしているのか。
目覚めた瞬間からこうだ。何をどこで間違ったのかもわからない。
記憶さえ曖昧だった。
もはや自分が誰かすら不明。
ここがどこかも、覚えていない。
けれど、確かに思っている。
死にたくないと。
捕まるのだけは嫌だと。
その先は絶対に閉じているという確信だけが彼にはあって――。
だとしても。ここで青年が、何かの奇跡を起こして逃亡に成功するなんて未来はない。
力も知識も持たず、持っていたとしても失っている青年に抵抗など不可能だ。ここで当然のように、世界の波に攫われてしまうのが妥当な未来であり、それ以上は決して起こり得ない。
青年は、この状況を打破するような能力など、何ひとつとして所有してはいない。
――だから。
彼の命を繋いだのは、彼ではない助けがあったからだ。
突然だった。青年が覚醒してから、突然でないことのほうが稀有だったとしても。
それはあまりにも、劇的すぎるほどに唐突な奇跡だった。
現象としては、何が起こったというわけでもない。というよりは、何も起こらなかったというべきだ。
ただ彼を呑み込むはずだった波としての金属が、ふと気づけばただの路地に戻っていただけ。
印象に飲み込まれたはずの世界が、観念としての在り方を取り戻したに過ぎない。
無論、それはポーン兵たちの意図するところではなかった。
背後から聞こえた少女の声が、青年に《助けられた》という自覚をもたらす。
「――間に合った……! もう大丈夫」
大丈夫、と。たったひと言告げられただけで、どうしてここまでの安堵を覚えるのだろう。
青年にはわからない。できたことといえば、その声に誘われるがままに、ただ背後を振り返ることだけ。
少女が立っていた。
たったひとり。退路さえ塞いでいたはずのポーン兵が、根こそぎその周囲に倒れている。少女が撃破したということだけが、唯一の明白な事実であった。
黒い長髪。なびくこともなく闇に溶けるそれが、けれどこの世の何より美しい。
嘘のようなその光景が、この場では何より現実味に溢れているという矛盾。
上背は低く、まだ年若い少女だった。童顔だが美しく、その表情には優しい笑みが満たされている。
少女という以外に形容がない。そのはずだ。
にもかかわらず、ならばこの圧倒的な存在感はなんなのだろう。
たとえるならば――それはまるで、女王を思わせるような。
そして少女が、くっ、と軽く手を払うように前に突き出した。
それだけ。たったそれだけで、青年を挟み撃ちにしていた前方のポーン兵が吹き飛んでいく。
印象術を消去し、それに敵対しながらも、同じくして現実を改変する存在。
記憶のない青年にも、なぜかその知識だけはあった。その存在を、この都市ではこういう風に呼んでいる。
すなわち――
「観念術師……?」
「ちょっと、その呼び方やめてよね。私たちはそんなんじゃないっての」
むっとしたように少女は頬を膨らませて言った。その呼び方は好きではないようだ。
そんな様子だけは見た目相応で、青年に忘れていた疲労を思い出させる。
それでも彼は訊ねた。どうあれ助けられたことに変わりはなく、その礼は告げるべき言葉だと思ったから。
「……助けてくれた、んだよな? ありがとう」
「んー、そうね。まあ結果的にはそうだし、とりあえずお礼は貰っとくことにする」
「あんた……それで、何者だ? いったいなんて呼べばいい?」
「何、そっちこそまだボケてるわけ? 呼び方なんてもちろん名前でしょう。その交換も済んでないうちにするような話じゃないってだけ。おわかり?」
「……名、前……?」
きょとん、とする青年。逆に少女ははっとしたように口元へと手を当てた。
「あ、うわ――マジか。そのパターンは想定外。まだ思い出せてない感じなんだ……や、よくそんなんで逃げてこられたもんだよ。なんだ、見た目に似合わず意外と優秀? だとしたら、こっちとしては掘り出し物って感じだけど」
「……何言ってんだ?」
「あー、パス。その説明は長くなるし面倒だから別の奴に聞いて。時間ならあるわけだしね、うん」
よく喋る奴だ、なんて風に青年は思った。
そんな青年の目の前で、少女はこちらに差し出すと、嫣然と笑みを見せる。
「名前の交換はまたの機会ってことで。とりあえず逃げるけど、まずは質問――ついて来る?」
「……ああ」
少し迷ってから、迷う余地などないということに気づいて青年は頷いた。
少女は笑う。よろしい、と口にして、心からの歓迎と喜びをその表情で表していた。
「つっても呼び方がないと不便は不便だよね……どうしよっかな。なんか、暫定で呼ばれたい名前とかある?」
「……いや、そんなことを急に訊かれても、だな……」
「んー、まだボケてるな。そもそも自分が何者かすら把握できてないレベルと見た。レアケースだわ」
「お前……さっきからいったい何を言って――」
「――《CODE:P603‐6573》」
「それ……さっきの連中が言ってた」
「そう。そして、それが今のあなたを示す記号。名前さえ奪われた兵士だった頃の識別数字」
告げられ、自然と青年は自分の体を見た。
顔はわからない。だが黒い髪が生えていることはわかる。
そして体には――さきほどのポーン兵たちとまったく同じスーツ。
「……俺、は……」
「そして私たちは、そんなシステムに反逆する……ま、気取って言うなら印象世界の反逆者ってとこ」
差し伸べられた手の先で。
少女は、笑う。
それが天使の微笑みか、それとも悪魔の微笑みか。
そのどちらだとしたところで、青年にできることはひとつだけ。
手を握り返した青年に、少女は笑ってこう告げた――。
「――印象世界へようこそ、今は名もなき反逆の兵士さん?」
ツイッターで得た悲しみを糧に書きました(?)。
あ、最新の活動報告もよろしくどうぞー。




