ドリンク婆
「まあ飲みなせえ」
ドリンク婆は言った。
このお茶を飲むとHPが全回復するそうだ。
便利だった。
ドリンク婆のお茶は無限に提供される。
彼女はそういうNPC――ノンプレイヤーキャラクターなのだ。
この先には魔王住まう北の魔大陸へと続く港へと続く街道へと続く平原へと続く洞窟の入口があり(面倒臭えな)、言い換えるなら、多くの戦闘が予期されるエリアへの出発点ということになる。
当然、体力を消耗している状態で突破できるほど、やわなエリアではなかった。
彼女――ドリンク婆はいわば、そんな死地へ進む冒険者たちへ運営から送られた最後の砦。ここで体力と魔力を回復し、続く戦いに備えよという救済措置であるわけだ。
VRMMORPG。
そう呼ばれるジャンルのゲームが隆盛を誇ってから数年が経った。
体験型のヴァーチャルリアリティがゲームの標準装備となってから幾星霜。
というほどの時間は経っていないにせよ、今の時代においてゲームといえばその基本はVRゲームだ。
そして、このゲーム『ファイナルクエスト』は、あらゆるゲームを過去にするべく誕生した史上最高の出来を誇る、新生代型のVRゲームである。
過去のゲーム全方位に喧嘩を売っている感じのタイトルからは想像もつかない重厚な世界観に始まり、濃密なやりこみや収集要素、広大極まるマップ――その全てが《ゲームの冒険》を一段階上のものへと引き上げたと称される。
俺はそのプレイヤーだった。
「ところで」
俺は言う。ドリンク婆に向けて。
もちろんのこと、彼女の《ドリンク婆》という呼称は非公式なものだ。NPC一体一体に信じられないほど複雑な設定の施されたこのゲームのことだから、彼女にもきっと壮大な背景があるに違いない。
俺はそう睨んでいた。
そう睨んでいるからこそ彼女の許へと訪れたのだ。
新時代のVRRPG『ファイナルクエスト』――略称《FQ》最大の売りは、言葉通りにひとつの世界を仮想空間上へ用意してみせたところにあると思う。
NPCとは、これまでのゲームの常識において、決められた言葉を決められた通りに喋るだけの機械に等しかった。
その常識を打破したのが、個人的に考えるFQ最大の相違点である。
彼ら彼女らは、単なるNPCの常識を超越した生命だ。この仮想世界に、実際に皆が生きている。
マジふぁっきゅークオリティ、と言わざるを得まい。
これはFQの質を褒めるときにネット上で定番として用いられる褒め言葉だ。
村の入口で現れた人間に時刻を教える兵士から、村でただ作物を育てるだけの農夫にまで――FQではありとあらゆるNPCに重厚な設定がつけられている。
そのひとりひとりが、この世界を生きる人間であるよう振る舞うのだ。
システムオプションから《人物名鑑》を開くことで、これまで出会った様々なNPCの情報をあとから確認できる。これは言ってみればNPC版の自動登録されるフレンドリストのようなもの、とでも称せばわかりやすいか。そんなシステムがつけられているくらいに、この世界はNPCに溢れていた。
なれば当然、ネット掲示板で《ドリンク婆》として有名なこの老婆にだって、きっと裏設定があるに違いない。
俺はそう睨んだわけである。
「あなたは、どうしてこんな僻地に住んでいるんですか?」
そんな質問をしたのも、だから当然、ドリンク婆の背景にあるシナリオを読み解くためだ。
NPC個々人に設定がつけられているこのFQにおいて、特定のキャラクターに特定の質問をすることで派生する新しいクエストなどは枚挙に暇がない。どんな設定が隠されているか、わかったものではないのだから。
そうした裏設定、裏クエストのひとつひとつを探し出すのも、FQの楽しみ方のひとつであると言えよう。
ドリンク婆は俺の問いにこう答えた。
「まあ飲みなせえ」
話聞いてなかったのかという具合いの返答である。
マジふぁっきゅークオリティ。
そんな、なんなればbotじみた定型文的な答えが、だが俺の期待をさらに盛り立てる。
どれほど高度なAIが積まれているのだろう。FQのNPCたちは、どれほど狂ったことを言われようと、それらしい答えをきちんと返してくれるのだ。
それがこんなに決まった答えしか返してこないという点が、逆にドリンク婆が《実は重要なNPCなのではないか》という期待を大いに盛り立てる。正しい質問や言葉を渡せば、必ず裏クエストに派生するはずだ。そんな予感があった。
こういった裏クエストは、通常プレイでは手に入らないような上位アイテムや、あるいは重要な世界観設定をもたらしてくれることがままある。俺がこうしてドリンク婆に絡んでいること自体、それを狙ってのことであった。
必ずドリンク婆からクエストを受注してやる。
そんな強い思いが、こうして俺を北の果ての入口まで導いているのだった。
この先の道のりを踏破し、長い冒険を繰り広げた先の魔大陸にはグランドクエストが存在する。
まあ正式名称はグランドクエストではなくファイナルクエスト――最終課題。このゲームをクリアするためのクエストということになるのだが、それだとゲーム名と区別つかないため、半々でグランドクエストと呼称するプレイヤーがいる。ゲーマーにはそのほうが通りがいいため、俺はこちらを採用していた。まあ余談だが。
多くのプレイヤーは、こんなところで足踏みしないで、このゲームのグランドクエストクリアを目指して攻略を続けているのだった。
一級の高レベルプレイヤーは、廃プレイの結果として最前線を魔大陸直前の港まで広げている。
そうでなくとも、この魔大陸前最後の砦である洞窟~港までの道のりを超えて行くプレイヤーたちは、じわじわとその数を増やしていた。
ここまで到達できない低レベルプレイヤーが大半だろう。
この先へと早々に冒険を進めていくのが一部の高レベルプレイヤーだ。
こんなところで足踏みしているアホは、ほとんどいないのが実態だった。
だからこそ挑戦する意味があるというものである。
裏クエストの中には、本当に《最初のひとり》しか受けられないものもあると聞く。MMOでは珍しいシステムだろう。
思うに、このドリンク婆から派生するだろうクエストも、そういった類のひとつだと俺は読んでいた。これまで数多のプレイヤーが通り過ぎながら、その誰ひとりとしてドリンク婆からクエストを受注できていないからだ。
こだわり派の運営のことである。
クエストの内容如何では、後れを取っているグランドクエスト攻略に重要な何かしらが手に入る可能性もあった。
本当に、この広い世界の隅々までを、全プレイヤーが協力して冒険しなければならないシステムなのだ。
「お婆さんはどうして冒険者たちに飲み物をくれるのですか?」
だからこそ問う。
この近辺の冒険はひと通り済ませてきたが、ドリンク婆に繋がりそうな情報はひとつとて手に入らなかった。あるいは、ドリンク婆は本当にただの回復場所的NPCで、裏クエストなどないと考えたほうが妥当なのかもしれない。
だがこのFQ運営は、そういったところにこそこっそり伏線を張っておく連中だ。
ただの回復ババアなんてあり得ない。そういった意味で、俺はプレイヤーとしてFQ運営を信用していた。
マジふぁっきゅークオリティ。
「まあ飲みなせえ」
俺の問いにドリンク婆は答える。実質何も答えていない。
この問いもダメなようだ。まあ俺のように考えて挑戦したプレイヤーがほかにいなかったわけでもあるまい。
こんなに単純な質問で裏クエストに派生するなら、上位プレイヤーの誰かが気づいていることだろう。
だが、俺に諦めるつもりはなかった。下手にソロプレイを貫いてしまったせいで、グランドクエストの攻略に後れを取っているからだ。ドリンク婆の裏クエストを見つけたいという以上に、俺は起死回生の策を探しているのである。
たとえ総当たりになろうとも、あらゆる角度からドリンク婆を口説き落としてみせる。
「ここ、いいところですよね」
「まあ飲みなせえ」
「俺、必ず魔大陸に向かいますよ」
「まあ飲みなせえ」
「そして必ず、冒険者として魔王を倒します」
「まあ飲みなせえ」
「ところで今日はいい天気ですね」
「まあ飲みなせえ」
「今の季節はなんでしたっけ」
「まあ飲みなせえ」
「ちょっと蒸し暑いですね」
「まあ飲みなせえ」
「暑いから上着を脱いじゃおっかな」
「まあ飲みなせえ」
「腹踊りが得意なんです」
「まあ飲みなせえ」
「おいババア大概にしろよテメエ」
「まあ飲みなせえ」
俺は諦めない。
「俺、実は独り身なんですよ」
「まあ飲みなせえ」
「彼女が欲しいなあ」
「まあ飲みなせえ」
「リアルの仕事もだいぶブラックだし」
「まあ飲みなせえ」
「お先真っ暗っていうか」
「まあ飲みなせえ」
「戦士系のジョブと魔術系のジョブどっちが好きですか?」
「まあ飲みなせえ」
「ご家族は?」
「まあ飲みなせえ」
「何か欲しいアイテムとかありますか?」
「まあ飲みなせえ」
「魔大陸」
「まあ飲みなせえ」
「MMO」
「まあ飲みなせえ」
「ファイナルクエスト」
「まあ飲みなせえ」
「港町ペコリーノ」
「まあ飲みなせえ」
「全界七選騎士団」
「まあ飲みなせえ」
「グランドクエスト」
「まあ飲みなせえ」
「ぷぇ」
「まあ飲みなせえ」
「シュレディンガーの猫」
「まあ飲みなせえ」
「ゲシュタルト崩壊」
「まあ飲みなせえ」
「ランドルト環」
「まあ飲みなせえ」
「バター猫のパラドックス」
「まあ飲みなせえ」
「シュミラクラ現象」
「まあ飲みなせえ」
「超芸術トマソン」
「まあ飲みなせえ」
「イベントホライゾン」
「まあ飲みなせえ」
「獲得的セルフハンディキャッピング」
「まあ飲みなせえ」
「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国」
「まあ飲みなせえ」
「寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝る処に住む処藪ら柑子の藪柑子」
「まあ飲みなせえ」
「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディウス・シプリアノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」
「まあ飲みなせえ」
「拙者親方と申すは、御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、青物町を上りへ御出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今は剃髪致して圓斎と名乗りまする」
「まあ飲みなせえ」
「グレービーボート」
「まあ飲みなせえ」
「バッグクロージャー」
「まあ飲みなせえ」
「ラバーカップ」
「まあ飲みなせえ」
「このお茶クッソ不味そうなんだけど」
「まあ飲みなせえ」
「まずなんで紫色なんだよ、おかしいだろ。お茶の色じゃないだろ」
「まあ飲みなせえ」
「小学生のときに作った花を淹れた水みたいなんだけど」
「まあ飲みなせえ」
「ぼくドラ〇もんです」
「まあ飲みなせえ」
「はっきり言うけど裏クエストやらせてくれ」
「まあ飲みなせえ」
「頼むよ」
「まあ飲みなせえ」
「おっぱい」
「まあ飲みなせえ」
「やだ、『おっぱい飲みなせえ』とか卑猥じゃない?」
「まあ飲みなせえ」
「おっぱいがいっぱい」
「まあ飲みなせえ」
「おっぱいぷるんぷるん」
「まあ飲みなせえ」
「ちっちゃいおっぱいとおっきいおっぱいどっちが好き?」
「まあ飲みなせえ」
「垂乳根が」
「まあ飲みなせえ」
「×××××」
「まあ飲みなせえ」
「オイいい加減にしろぶっ殺すぞババア」
「まあ飲みなせえ」
「もう嫌だ」
「まあ飲みなせえ」
「ふぁっきゅー」
「まあ飲みなせえ」
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
「まあ飲みなせえ」
……、……。
落ち着け。だんだんとイライラが抑えられなくなってきている。
ていうか途中からもうなんか俺のほうも若干ちょっと遊んでる感じ出てたしな。
絶対に関係ないこと言ってたしな。
とにかく、総当たりで闇雲にやってみるのはやめよう。
ていうか初めから正直、それでは無理だとは思っていたのだけれど。このFQの作りこみは半端じゃない。
ワンチャン引っかかったら超ラッキー、みたいな。その程度のものだった。
真面目に、まずは設定から紐解いていこう。
――といっても、そもそもわかっていることが少なすぎるから総当たりを試さざるを得なかったのだが。
ドリンク婆。本名は不詳で、こいつはもちろんネット上の攻略掲示板などでつけられたあだ名だ。
本名が設定されていない、わけではないはずだ。そんなキャラは、どんなに端役のNPCだろうと存在しない。むしろ逆に、なぜか本名が存在しないなんてことが仮にあった場合、そのほうが期待に煽られてしまう。特別感がある。
わかっていることは少なかった。
近場の村や攻略掲示板などで聞き込みを続けた結果、彼女は古くからこの場所に住んでおり、冒険者にお茶を出して回復させることで支援をしている、ということだけ。このゲームのことだから、《なぜお茶を提供しているのか》という理由がきちんと設定されているはずだと読んだのだが……。
「……うーん……」
「まあ飲みなせえ」
うるせえ。
……読みを外してしまったのだろうか。
当たり前の話だが、全てのNPCから派生の裏クエストを受注できるわけではない。中には当然、特に裏クエストを請けさせてはくれないNPCだって存在するわけだ。ドリンク婆もその口、ということなのだろうか……。
諦めが、狡猾な蛇のように鎌首をもたげ始めていた。
俺は目の前に差し出されたお茶を見つめる。
……紫色の毒々しいお茶。
回復っていうか、むしろ毒状態のバッドステータスとか受けそうな見た目だが、これ一杯で宿屋一泊分の回復効果を所有する――要するにHPMP全回復に全バッドステータスの解除といった完全回復効果がある――もし仮に持ち運びが可能で戦闘中に使用できるのであれば、間違いなくチートクラスのアイテムになる。
ふむ。
とりあえず飲んでみようか。
実は考えがあって――というのも、このお茶を飲む前の状態でしか進まないイベントがあるのではないかと思って――今までなんとなく飲まないできたのだが。
こうも「まあ飲みなせえ」以外を言わないとなると、さすがに若干の面倒臭さが出てきてしまった。
会話が進まねえんだもの。
とはいえ、飲んだら飲んだで今度は「ではがんばりなせえ」しか言わなくなるということも掲示板で聞いていた。
この手のイベントは、おそらく一度目を逃したら終了だ。
俺では二度と――それこそキャラクターを作り直して一から始めるくらいの気概がなければ、同じクエストは二度と請けられない。ゲーム的な時間のループはこのゲームにはなく、進行したイベントは進行したまま終わってしまう。そのリアル寄せな作り込み具合は確かにFQの魅力だが、こういった場合では恐ろしいものがあった。
ここでお茶を飲んだ場合、俺は二度と《お茶を飲まなかった自分》に戻ることができない。家を出て入り直せば時間まで戻っている、なんてことはないのだ。ドリンク婆は、同じプレイヤーに二度とお茶を提供しないと聞く。
正確には《お茶を飲んだ上で》《一度でもこの先の洞窟に進むと》《二度とお茶が出ない》ということらしい。つまり、飲んだ上で引き返せば、再びお茶を提供はしてくれるということだ。
だが、少なくとも内部システム上、一度お茶を飲んだプレイヤーに俺のステータスが書き換わることは間違いない。
ここはひとつの分水嶺なのだ。
もしドリンク婆に裏クエストが実装されており、かつその受注前提条件に《お茶を一度も飲んでいない》という要素が含まれていた場合、俺の挑戦はここで終わる。
フラグは書き換わり、俺はドリンク婆のクエストを二度と請けることができなくなってしまう。
……迷いながら湯呑みを手に取った。
飲むべきか。
飲まざるべきか。
湯呑みを持っていた手が震えているのが自覚できた。
――と、そんなときだ。
俺はあることに気がついた。
それがクエストの鍵だと思ったわけではない。ただなんとなく口にしていた。
「……温くなってる」
湯呑みが。というか中の紫がかった色水じみたお茶が。
うだうだ時間を食っていたせいだろう。いつの間にか湯気も立てず冷めてしまっていた。
別に、それ自体は驚くようなことではない。いやある意味でその精巧さに驚くべきかもしれないが、そういった触覚、あるいはその他の五感の再現度は、VRであることを忘れさせるほどにこだわられている。
放っておけばお茶が冷める。これは、このゲームでは当たり前のことなのだ。すごいんだけど。
ドリンク婆は言った。
「おや。淹れ直そうかねえ?」
「ああ……えっと」
普通に答えかけて待て待て待て待て待て。
え、嘘。あれ、何。ドリンク婆が違うこと話し出したぞオイ。
イベント進んでないコレ?
……マジで!?
「お、あ、え――」
驚きのあまり呻きじみた声を漏らしてしまう俺。
偶然だ。だが俺は、どうやらドリンク婆のイベントを進めるキーワードを引き当てたらしい。
お茶が温くなるまで待って、それをドリンク婆に告げる。これがイベントを進めるために必要な要素であったということになるのだろう。
いや、そんなもんわかるかボケ!
ふぁっきゅー!
「お、お――おっ、」
落ち着け。焦るな冷静になれ。ここでブチ壊しては全てがご破算だ。
だが、どうする? どういう選択肢を選べばいい?
ここで考えられるのは、温くなったお茶を淹れ直してもらうか、あるいはそのまま飲み切るかだ。
どっちだ。どっちが正解だ――?
普通に考えれば前者、つまり淹れ直しのほうがイベントが進みそうな気がする。だが確証なんてない。勘に任せて外してしまっては、悔やんでも悔やみきれないだろう。
ここは――まず会話を引き延ばし、情報を引き出してみるのが得策!
「あ、わ、悪いね。せっかく淹れてくれたのに」
――どうだ?
何か、別の反応が見出せるか――?
「いいのさ。猫舌なんだろう?」
ドリンク婆は言った。
猫舌――猫舌?
これがキーワードなのか。
「いつも冷ましてから飲んでいたからねえ」
「……そう、だね」
頭が高速で回転する。今の会話におかしな点はあったか。
――ある。
なぜならドリンク婆は《いつも》と言った。これは明確におかしい。ここに来るのは初めてであり、基本的に一度しか挑戦できない以上、このクエストの前提とその言葉は明確に食い違っている。
ならば、なぜドリンク婆は《いつも》と言ったのか。
――ボケているだけ……?
そんなバカな、と切り捨てかけて、しかし直感が待ったをかける。
ボケている。あり得ない、とは言い切れないのがこのゲームの奥深さだ。
なにせこのドリンク婆ときたら、何度話しかけても、何を言っても、返す言葉は「まあ飲みなせえ」。
ゲーム的に考えるなら、単に会話がループしているだけだろう。いくらFQでも、まったくどうしようもないことを言えば決まりきった返答が繰り返されることはある。これはゲームだ。
だが、ドリンク婆の会話パターンはあまりに少なすぎる。この点は引っかかっていた部分でもあった。
その点が逆に、何か裏クエストが実装されているのではないかとプレイヤーたちに疑わせるきっかけとなった個所ではあるのだ。その答えがボケているからというのは、あり得なさそうだからこそあり得そうだ。
マジふぁっきゅークオリティ案件。
少しだけ迷って、けれど俺は直感に従った。
つまり、なぜドリンク婆が「いつも」と言ったのか。その答え。
――俺を誰かと勘違いしているから。
と、いうのはどうだろう。
ドリンク婆にはいつもお茶を淹れてあげる相手がいた。ボケた今、かつての行動をルーチンとして繰り返している。
「いや。このまま頂くよ」
果たして俺は、そう言った。
直感だ。淹れ直すのではなく淹れ直さず飲むほうへ。果たして吉と出るか凶と出るか。
「せっかく淹れてくれたのに、無駄にしちゃうのは申し訳ないからね」
理由もつけておく。ちょっとビビっている俺であった。
間違っていたらどうしようという思いは、当然ながら捨てきれない。
いや間違ってたらこんな《貴方を思いやっての行動ですよ》みたいな予防線敷いてもなんの意味もないのだが。
それでも付け加えてしまう辺りに、なんというか俺の小心性が垣間見える感じ。
だが――それでいい。
俺は、誰より多くのNPCを《人物名鑑》に登録する。
誰より多くの裏クエストを攻略する。
それだけを目的として、このゲームをプレイしているのだから。
俺は、多くのプレイヤーが目指すグランドクエストの攻略には関われない。
そんな実力が俺にはないからだ。
この場所に来られる時点で、全体の中でも上位10%には最低でも入るくらいの高レベルではある。だがそれは単に、俺がこのゲームを長く続けてきたからに過ぎない。
多くの時間を攻略より交流に費やしてきた俺が、今さら上位勢に追いつくのは無理だろう。いやもちろん、研鑽次第ではトッププレイヤーとは言わずも、その集団に入ることはできるだろう。それくらいの位置にはいる。
けれど、――その時間を俺はNPCとの交流に費やしてしまっていた。
そのことに後悔はない。あるのは誇りだけ。おそらく俺は全プレイヤーの中でも断トツクラスで人物名鑑の登録NPC数が多いプレイヤーだろう。厳密なことは知らないけれど。
俺は、そのためにこのゲームを始めた。
……とは言わない。そればかりはさすがに嘘だ。この世界の魅力に気づいたのは、ゲームをプレイし始めてからだから。
だが構わない。俺はこの広大な世界の、その中で生きる――そう、生きているNPCたちに何よりも魅力を感じていたのだから。
そんな俺だからこそ、今までも数々の裏クエストを攻略することができたのだと信じている。
「――ああ。懐かしいねえ……あなたはいつも、わたしの淹れるお茶を美味しいと言ってくれていた」
そして、果たして。ドリンク婆は言う。
懐かしい誰かを想うように。
それはデータで、単なる設定だ。だとしても価値がないとは思わない。
「猫舌のあなたはいつも冷めるまで待っていたけれど」
「…………」
「熱いほうが美味しいよ、とわたしは言うのだけれどね。あなたに入れるお茶が、不味くなっては恥ずかしいから」
「…………」
「けれどあなたは、いつも冷めてからわたしのお茶を飲んでくれたね」
「…………」
「美味しいよ――と言ってくれたね」
……めっちゃいい話なんですけどぉ……。
どうしよう。まだ詳細はわかっていないけど、このドリンク婆の裏にはきっと、何かしらの愛の物語があったに違いない――なんかそう思わせる感じの導入が襲ってきやがった。マジかよ。やめてくれ。
俺はこういうのに弱いんだ。
どうしよう。もうすでに若干ちょっと涙腺が潤んでいる俺がいる。
「……いただきます」
涙を堪えて、そう言って。お茶をひと口、喉に流した。
冷めてしまっている。温度はとても微妙だった。けれど――なんだ。
見た目の割には、ぜんぜん悪くない味じゃないか。
「うん――美味しい」
「そうかい」
と、ドリンク婆は笑った。
それはかつての、彼女がまだ若かった時分を思い出させるような。
きっと、それは美しい女性だったのだろうと思わせるような。
そんな笑みで。
「――あなたには、紫が似合うからねえ」
その言葉で――ピンと来た。
来てしまった。
俺は、誰よりNPCの設定を多く把握している。その自負がある。
直感的に俺は《人物名鑑》を開いた。
探すのは《全界七選騎士団》の項目だ。このFQ世界で最強のNPCと呼ばれる七人の騎士たち。
彼らはそれぞれ虹の七色になぞらえた色をモチーフとして設定されている。その中で紫に該当する人間の設定――かつてクエストで一度だけ遭遇したことがあった――の中に存在する、設定だけのキャラクター。
全界七選騎士団、先代《紫の騎士》。
そのパーソナルデータには、確かある記述があったはずだ……。
ページを見る。
『先代は老齢の騎士で、魔大陸で亡くなった冒険者だった。僕は彼の弟子として、よくお茶を淹れていたんだけれど、師はとても猫舌でね。いつも、冷めてしまってからお茶を飲むんだ』
ゲーム中でも断トツの有名NPC――とはいえ、その設定の中にほんの一部だけ語られている、フレーバーテキストだけの設定キャラクター。
これだ。これがきっと、ドリンク婆がプレイヤーと勘違いしてるキャラクターなのだ。
ぴこーん!
という音がした。システムサウンド。
新しいクエストの発生を報せるための音色。
それを見て。
俺は。
「お茶、ありがとう。ところで」
「なんだい?」
「――私とデートしませんか?」
最速で、迷わず老婆を口説きにかかった。
……いやはや。
まさかドリンク婆から派生する裏クエストの内容が、こんな恋愛ものだと誰が考えよう。
システムメッセージには、こんな風に記されていたのである。
《クエスト:かつての恋
達成条件:彼女を口説き落とせ!》
こんなもの、俺でもなければ気づけやしない。
小さく笑いを零して、それから面食らう老婆を見ながら。
さて。
俺は言う。
お馴染みの――このゲームへの最大の褒め言葉を。
はい、せーの。
「マジふぁっきゅー」
「……いや。え……続きは!?」
「未定」
「なんだこの投げっ放しジャーマン……」
「続くかもしれない」
「し、続かないかもしれない」
「それが間隙短編」
「お前ってやっぱりバカだよね」




