ちんちんかもかも(前編)
ある朝、ふと目覚めた椎森和雄は、自分が「ちんちんかもかも」としか喋れなくなっていることに気がついた。
いったいどういうことなのだろう。
考えてはみたものの、答えなど一向に出てこない。出てくるはずもなかったのだ。
だって、意味がわからない。
「ちんちんかもかも……」
意訳『どういうことだろ……』。
和雄は呟いた。呟くと、何を話そうとしても口が勝手に「ちんちんかもかも」を形作る。そもそもなぜちんちんかもかもなのだ。そこからして意味不明だ。
まず音の響きがなんか嫌だ。いや別にアレな言葉ではない、至って普通の日本語であることは知っているのだけれど。それでもなんか嫌だ。ちょっと他人には聞かれたくない。
健全な男子高校生であるところの和雄は一応、ちんちんかもかもという言葉の意味自体は知っていたけれど、普段から使うような言葉かと訊かれれば絶対に違うし、というかおそらく今日が人生で初めてちんちんかもかもを口から出した日だし、そもそもちんちんかもかもな間柄の相手もいないし、だからちんちんかもかもしたことなど一度だってないし、よってちんちんかもかもを口にする理由はないはずなのだが、けれどちんちんかもかもが出る。喉からちんかもなのだ。なんでちんかも。ちんかもなんで。
「……ちんちんかもかも……」
意訳『……これは困ったなあ……』。
幸い、今日は休日だ。学校に行く必要はない。
だから一日中自室に引き籠っていれば、とりあえず《ちんかも症候群》――この状況を暫定的にそう命名した――を誤魔化すことはできる。はずだ。と思う。
だが――それにはひとつだけ障害がある。
そのときだった。
「――お兄ちゃん? 朝ご飯できてるよー?」
扉の外から、妹の声が聞こえたのは。
ひとつ年下の妹――紗智子との仲は取り立てて悪くない。特別に仲がいいというほどでもなく、まあ至って普通の兄妹というくらいだろう。
だが妹も華の女子高生。多感な時期である。自分の洋服と、お父さんのパンツはいっしょに洗ってほしくないくらいには思春期センターど真ん中(重言)なのだ。
そう。何が問題かと言えば、いったいことのことを家族相手にどう誤魔化せばいいのかという部分だった。
「お兄ちゃん……? どうかしたの?」
扉の外から、紗智子の不審そうな声が聞こえてくる。
どうにかして誤魔化さなければ。だが、上手い考えが出てこない。
和雄の頭は回っていなかった。そもそも寝起きだったし、状況があまりにもあまりで混乱していた部分もあるのだろう。その点は同情に値するはずだった。
だが、
「ち、ちんちんかもかもっ!」
意訳『べ、別になんでもないっ!』。
などと叫んでしまったのは、はっきり言って下策だった。
当然だろう。ベリー思春期な紗智子は精神もストロベリースイーツに決まっている(超偏見)のだから、まさかちんちんかもかもだなんて言葉が通じるはずもない。セクハラだと思われてしまう。
いや、だいたいそもそももともとちんちんかもかもとはとは《男女の仲が睦まじい》ことを指す言葉なのだ。もし仮に紗智子がちんちんかもかもという言葉を語彙の引き出しにコレクションしていたとしても、それはそれでやはりセクハラじみている。兄妹でちんちんかもかもなど、現代社会は許していないのだ。
案の定、紗智子は露骨に狼狽えたような声を上げた。
「お、お兄ちゃん……? ど、どど、どうしちゃったの……!?」
「ちんかも!(違うんだ!)」
「おおお兄ちゃん!? ま、まさか――」
「ちんちんかもかも、ちんちんかもかもーっ!(そうじゃないんだ、話を聞いてくれえーっ!)」
「まさか……っ!!」
――終わった。そう和雄は思った。
平凡で、けれど温かな家庭に生まれた和雄だ。これまでの人生が、走馬燈のように思い出されてならない。嗚呼、俺はなんて幸せな子どもだったんだろう……。
せめて筆談とか、冷静になればもうちょっと何かあったんじゃないのって感じである。なんでよりにもよって、実の妹相手に迫るかの如くちんちんかもかも連呼してしまったのか。
これでは、たとえどう言い繕おうとセクハラダイナマイトナンバーワン。というかそもそも言い繕えない。だって和雄にはちんちんかもかもしかない。
なんてひどい。和雄がいったい何をしたっていうのか。確かにクラスで人気者の、和雄もちょっと憧れていた可愛い女の子が、どうやら野球部のエースとちんちんかもかもし始めたらしいと知ったときは呪ったものだ。自分だってちんちんかもかもしたい。そう願った。
でもそれはこういう意味じゃない。
どうする。このままでは和雄の人生は転落ゴートゥーヘル一直線。
とはいえなんて説明すれば、「朝起きたらちんちんかもかもしか喋れなくなっていたんだよ」なんて納得してもらえるというのだ。いるわけねえだろ、そんな奴。
でもいるんだよ。どうしよ。
和雄は、もはや沙汰を待つ罪人の気分だった。今に扉の向こうから、妹の罵声が、あるいは悲鳴が聞こえてくるに違いない。
なんてことだ。このまま妹に勘違いされ、行く先は牢屋か処刑台かというのか。
でも、わかってもらえるはずが――。
「――まさかお兄ちゃん、ちんちんかもかもしか喋れなくなっちゃたの!?」
あった。わかってもらえた。マジかよスゲエ。嘘だろ。
和雄はなんかもう逆に狼狽えた。狼狽えすぎて、一週回って冷静になれた。
だからオーケーだった。
「ちんちんかもかも(実はそうなんだ)」
「なんてこと……お兄ちゃん、ちょっと入るよ」
「ちん……(ああ……)」
紗智子が部屋へと入ってくる。
和雄はベッドに腰を下ろしたまま彼女を迎え入れた。
「大丈夫、お兄ちゃん?」
紗智子は心配そうな表情を見せる。
なんてできた妹なのだろう。和雄は感動した。
「ちんちんかもかも(ああ、大丈夫。心配しなくてもいいさ)」
「ごめん何言ってるかわかんないけど」
そりゃそうだった。どうしようもない。
「でも、本当にちんちんかもかもしか言えないの……?」
「ちんちんかもかも(ああ)」
「お兄ちゃん、わたしの名前を言ってみて」
「ちんちん(紗智子)」
「ぶっ殺すぞ」
「かもかも!(言えって言うから!)」
ひどい。ひどすぎる。
「ちんちんかもかも(クソッ、どうしてこんなことになったんだ……いったい俺が何をしたっていうんだ?)」
「うん。そうだね。大変だよね」
「ちんちんかもかも(おい。わからないからって適当に話を合わせようとするなよ)」
「そうだよね。お腹が空いてるよね。朝だもんね」
「ちんちんかもかも(言ってない)」
「でも大丈夫! わたしがなんとかしてあげる!」
「ちんちん……!(紗智子……!)」
「お兄ちゃんっ!」
「ちんちんっ!(紗智子っ!)」
ふたりはひしと抱き合った。決して分かたれぬ、兄弟の絆がそこにはあった。
感動的な光景だった。
「ちんちん……ちんちん……!(紗智子……紗智子ぉ……!)」
「ご、ごめん。ごめんお兄ちゃん。一回離れて」
「ちんちん……?(紗智子……?)」
「なんだろ……うん。いや、わかってるんだよ、お兄ちゃんが悪くないってことは。でも、こう……ごめん。なんか嫌。キモい」
「かもかもぉ……(ヒドいよぉ……)」
和雄は項垂れた。酷かった。とても傷ついていた。何もそんなこと言わなくたって。
くずおれる和雄だった。さすがに紗智子も、言葉はわからずとも和雄の消沈はわかったのだろう。フォローするように告げる。
「ご、ごめん。大丈夫、わかってるよ! 卑猥な言葉じゃないもんね」
「ちんかもー(そうだよー)」
「ちんちんかもかものちんちんは《嫉妬》とかそういうのが語源だもんね! 決してなんかこう、あの、アレの、アレが……アレじゃないもんねっ!!」
「かもかもちんちん(詳しいなお前)」
「わたしに任せて! とりあえず、お母さんとお父さんには適当に誤魔化しておくから!」
紗智子は逃げるように部屋を出て行った。ていうか逃げたのかもしれない。
と思うと、扉の外で紗智子は急に立ち止まり、和雄を振り返ってこんな風に言う。
「そうだ、お兄ちゃん」
「かも?(何?)」
「――今日、大地さんと昌さんが来る日でしょ? 大丈夫なの?」
「かっ(あっ)」
「えと……うん、まあがんばって! それじゃっ!!」
紗智子は逃げた。
大地と昌は和雄の幼馴染みのふたりである。今日は三人で美術館に行く約束をしていたのだ。
寝覚めのショックですっかり忘れていた。これは不味い。どうしよう大変だ。
狼狽える和雄。このとき、彼は半ば恐慌に近い状態にあった。
だから――なのだろう。
「よっす、和雄。迎えに来たぜッ!!」
窓から突然、ふたりがサプライズ的に和雄の部屋へ乱入してきたので。
雅彦は――盛大に叫んだ。
「うわあああああ――っ!!」
その勢いと、急に何言ってんだコイツ的な漢字も相まって。
驚かそうと入ってきたふたりも、やはり大きな声で叫ぶのだった。
「うわあああああ――っ!?」
※
――その、同時刻。
一階に下りて行った紗智子が、何やら意味深な笑みを浮かべていたことを知る者はいなかった――。
「で、これ続くの?」
「さあ……?」