出発
リコの村への出発を明日に控え、ティアは自室の窓から夜空に浮かぶ月を眺めていた。
騎士団長やロエンと旅の行程はきちんと詰め、旅支度も既に終えた。まあ、旅支度に関しては侍女達がほとんどやってくれたのだが。それでもティアは表情の強張りが取れなかった。いつもなら楽しみで弾む心が、今は不安でいっぱいだった。
――コン、コン
こんなに遅く、誰だろう。
入室を許可すると、入ってきたのは可愛い弟だった。
「姉上……。遅くにすみません。」
普段ならもう寝ている時間だろうに。ユリスは眠そうに眼をこすりながらティアにもたれかかるように抱きついてきた。
「眠れないの?」
「はい、眠たいのに、明日のことを考えるとなんだか、ちょっと怖くなってしまって……。」
この国の未来の王を、必ず無事に王宮に戻さねばならない。そう思っていたティアだったが、初めて王都の外に出るユリスのほうがもっと不安だったのだ。もしかしたら何日も眠れなかったのかもしれない。最近は忙しく、あまり構ってもやれなかった。ティアは自分が情けなくなった。
「ユリス、今日は私と一緒に寝ましょうか。」
「えっ、でも……」
「ふふ、お願い、今日だけ。ね?」
「ありがとう、姉上……。」
ベッドに入ると、ユリスがぴったりとくっついてきた。12歳にしては本当に甘えん坊というか、やっぱりちょっと幼い。少女のような顔をしたユリスがあまりに愛らしく、皆が甘やかしてきたせいだろう。そう思いつつ、ユリスが眠りにつくまでリコの村の子どもたちの話を聞かせた。話の続きをねだる弟はいつの間にか目を閉じ、姉も夢の世界へ旅立った。
翌朝起こしに来た使用人たちは、手をつないで眠る2人を、本当に仲のいい姉弟だと微笑ましく思った。
「わあ、姉上!あれが湖ですか!」
ユリスは馬車の窓に顔をぴったりくっつけ、外の景観に歓声を上げた。昨夜はあんなに不安そうだったのに、出発してしまえば誰よりも楽しそうにはしゃいでいる。湖が見えたということは、そろそろ今日の滞在場所となる街に到着するはずだ。しばらくすると馬車の速度が落ち、停止した。降りる時にはロエンが手をとってくれた。空を見上げるとまだ日は高く昇っている。ユリスのことを考え、以前ティアがリコの村へ行った時よりも長い行程をとっていた。警護の騎士や使用人の人数も増えており、集団では動きがとりにくいということも影響している。
「……やはり警護の数に不安が残ります。」
そう呟いたのはロエンだ。いつもの様に仏頂面で、発言とは裏腹にその表情からは不安など微塵も感じられない。
「そうかしら?十分すぎると思うけれど。」
「王子殿下は確かにそうでしょう。ですがティア様の警護は……。」
「あら、私を守ってくれると言ったのは貴方でしょう、ロエン。」
はあ、とため息をつくロエンの肩に手を掛けた男が言った。
「いやーロエンってば信頼されてる~羨ましいなあ、おい!」
真っ赤な髪のお調子者っぽいこの騎士は、名をグレンという。ロエンと同じく今年入団した新人騎士で、以前ティアが訓練場に行ったときに一番うるさく騒いでいた男だった。
「……馬鹿が。」
「なんだとー!?」
大丈夫と言ったけど、やっぱり少し不安かも……グレンを見ているとそう思わずにはいられないティアだった。
王女の護衛はロエンとグレンの二人だけだ。対して王子には騎士団の一隊が付いている。流石に団長が王都を離れるわけにはいかなったが、副団長が警護の指揮を執ってくれた。ティアは旅慣れていたし、あまりに大所帯だと今以上に日程が延び、逆にユリスの負担になってしまうだろうという配慮から自身の警備は最低限でいいとティアが判断した結果だった。
先に馬車から降りたユリスを探すと、副団長と何やら話をしている。と思うと、彼を連れて近くの店先の品物を手に取り、はしゃぎ始めた。中から慌てて店主が出てきて頭を下げている。
やはり、心配など無用だったのかもしれない。
初めて訪れる街に満面の笑みを見せる弟を、ティアは暖かな眼差しで見守った。