紅の一族
「いえ、僕がお願いしたいのは――「何もしないでほしい」ということです」
ジルヴァが食事の手を止めた。口の中のものを飲み込み、喉がごくりと動いた。
「どういうことだ」
「姉を陥れた黒幕を見つけ、不正を働く馬鹿な官吏や貴族を一掃したいのですが、そうすれば国は混乱する。その隙に他国に攻め入られたならあっという間に侵略されてしまうでしょう。ですからその間、貴方には何もしないでただ見ていてほしい」
ゆっくりと、皇子の瞳に興味深げな光が浮かんでいった。
「攻め込まず傍観に徹しろということか。しかし貴殿に愚官を打ち払うことができるのか? はっきり申し上げるが、これまで何も成し遂げられなかったのだろう――姉を連れ戻す、その一点以外は」
「確かにこれまではそうでした。けれど、これからは違う」
口だけならどうとでも言える。そう一蹴するのは簡単だ。
けれどジルヴァは言わなかった。若き王の紫の瞳に、確かな戦いの意思を感じ取ったからだ。自分より十も若い、少年の面影残る男が、これほどの大きな覚悟を背負っている。口だけの無策とは思えなかった。
ただの青臭い理想か――あるいは。
ひとつの未来を想像して、皇子の口角がおのずと上がった。
「……他の国はどうする。帝国が黙っていても、他が攻めれば何の意味も無い」
「戦は国を消耗させます。今そんな余裕があるのは帝国だけだ。それに――」
意味ありげに言葉を区切り、ユリスはいかにも優等生然とした笑みを浮かべた。
怪しんで構える帝国側に対し、ティアはとてつもなく嫌な予感がした。
「――どこのお姫様もみんな、僕に夢中みたいですから、僕を想ってきっとお父上を止めて下さるでしょう」
ティアは思わずナイフを落とし、派手な音が室内に響いた。それを引き金にジルヴァは食卓を叩いて笑い声を上げた。隣のアナスタシアは完全に引き、顔が硬直している。グレンは一周回って逆に感心し、拍手をしていた。
知らない人が見れば、そこはある種狂気の晩餐だった。
「…………」
ロエンだけは無表情を貫いていた。ティアが消えてからずっとユリスの傍にいたロエンは、別に何も驚かない。ユリスがあの手この手で各国の姫を攻略していたのは一部で有名なことだった。そのくせ自身の想いは姉にしか向いていないのだから、タチが悪いことこの上ない。
「ハッハッハッ!! 傑作だ!! そんなことを言う人間には初めて会ったぞ」
「それは光栄です」
「だが言ったように俺はただの皇子だ、皇帝じゃない」
「それもまた、これまでの話。ただの皇子が軍を動かせるとは思えません。先の国境沿いでの紛争、鎮圧を指揮したのは貴方だと聞いております」
「……確かに、帝国軍の指揮権は既に俺に移った。随分と耳が早いな」
ジルヴァがちらりとロエンを見たが、ロエンは何食わぬ顔で佇んだままだった。
「俺は他の兄弟とは違って戦争嫌いでね、なのに今じゃ司令官だ。早く返上して皇帝になりたいんだがなあ」
「皇帝陛下は貴方のそういうところを認められたのでは」
「そう思うか? ならば皇帝になりたい俺は、君の申し出を断れないことになる。父からすれば俺は平和主義者らしいからな。……わかった、約束しよう。俺は決してウィルノアを責めない」
「ありがとうございます。……貴方さえ約束してくれれば、僕はウィルノアを変えられる」
ユリスは毅然としていたが、誰にも見えない机の下で拳を握った。――姉と和解し、帝国と手を結んだ。ずっと停滞していた数年が嘘のようにどんどん道が開けていく。嬉しくて嬉しくて、誰もいなければ両手を上げて喜んでいただろう。
ティアは喜びをこらえきれず、すっかり顔を緩ませていた。その目は弟を誇らしげに思っているようで、視線が交わるとユリスの胸がじわりと熱くなった。
待っているのは大きな戦いでも、望む未来はすぐ近くにある気がした。ならばあとは手を伸ばし、掴むだけだった。
「そうだ、紹介がまだだったな」
食事も終盤に差し掛かり、デザートが運ばれてきた頃。
ジルヴァは思い出したように背後に立つグレンを指差した。
「俺とアナスタシアの家族のグレンだ。皇族ではないが母方の従兄弟にあたる。……人となりについては、まあ今更紹介する必要もないか」
えっ、と驚いたティアとは対照的に、ロエンは視線をグレンに向けただけだった。しかもものすごくどうでも良さそうな顔をしている。
「本当なの、グレン。貴方ずっと前からウィルノアの騎士団にいたじゃない」
「……密偵だったのか」
ユリスが睨むとグレンは目に見えて縮み上がった。
「いや、あの、その、なんていうか、騎士団でも俺マジメに働いてたし、そんなに悪いことしてないし、ちょっと情報を流してただけって言うか、それも命令で仕方なくやってただけで……」
「密偵だったんだろ」
「……はい、すみません」
しゅんと沈んだグレンからはいつもの陽気さが消えていて、つられるようにティアも沈んだ。何年も前から知っていた彼が実は裏切っていたなんて……怒りよりも寂しさがティアを襲った。いつでも気兼ねなく話せる愉快な彼は、ティアにとって稀有な存在だった。ロエンと険悪な仲だった時も、間を取り持つように支えてくれたのはグレンだった。
でも、誰よりも一番傷ついたのはロエンかもしれない。この中で最も付き合いが長いのはロエンだ。彼にとってグレンは同僚であり、部下であり、きっと大事な友人だったはずだ。……たとえ年中こきつかったり、演習で盾にしたり、稽古と称した憂さ晴らしでコテンパンにしていても……きっと、いやたぶん。
そんな悩ましいティアの思考を読み取ったのか、ジルヴァがロエンに鋭い視線を向けた。
「グレンに命じたのは俺だ。すぐに引き上げさせる予定だったが、どうもウィルノアが気に入ったらしく全然帰ってこなくてな。結果的に騙したことには変わりないが、こいつ自身そんな気はなかったんだ。一緒にいたなら分かるだろ?――それを利用して、散々こき使ったんだ。おあいこってことでどうだ、隊長さんよ」
皆の注目が一斉にロエンに集まった。それすら気にした様子は無く、ロエンはいつもの無愛想さのまま答えた。
「……グレンがどこの人間であるかなど存じ上げませんし、関係もありません。騎士団にいる限りグレンは私の部隊の一員です。私は上司として部下に接しただけに過ぎない」
「へーえ。ティアが逃亡した際、グレンにそれを手伝うように言ったのも、私達の存在を知ってのことだと思ってたけど」
「……まさか。帝国の皇女様ともあろう御方が自警団を率いていらっしゃるなど、私に想像できるはずもありません」
アナスタシアの眉がピクリと動き、ジルヴァの瞳がますます細くなった。
ロエンの言動は明らかに挑発が混ざっていて、ティアは冷や冷やしているのにユリスは全く止めようとしない。どこか面白がっているようにも見えた。
実際ユリスは面白がっていた。ロエンのことだ、グレンの正体なんかとうに気付いていただろう。なのに滅多に感情を動かさない男が、それを顕わにしている。それは晩餐でティアが非難を受けたことに起因していた。つまり、ロエンはグレンをダシに恨み晴らさんとしていただけだった。
誰もそれに気が付いていない。もしかすれば、ロエン自身さえ――それがユリスには愉快だった。
「聞いたところによると、隊長殿はグレンを何度も恐喝したとか」
「そのような恐ろしいことは致しておりません。「お願い」をしたことはありますが」
「お願い」と言う名の「脅し」の間違いだ。グレンは凄惨な過去を思い出して震えた。あの時逆らっていたなら、グレンは今ここにいないだろう。
「恐れながら申し上げます。そもそも間諜は判明次第即刻処分と定められております故、申し開きこそすれ、そのように私を責められるとはどういう料簡でいらっしゃるのか」
「まあ、確かにそれはその通りだな。こちらの非礼を詫びよう。俺に免じてグレンのことは許してやってほしい」
「それは――」
ロエンがユリスをうかがえば、国王は小さく頷いた。
「――仰せの通りに」
その後、長かった晩餐がようやくお開きとなった。色々ありすぎて疲労したティアはロエンを連れて部屋へ戻ろうと思っていたが、当のロエンはグレンに詰め寄られていた。グレンは瞳を潤ませ、ロエンの服を皺になるほど強く掴んでいた。親友か恋人の再会か永遠の別れか、なにかそういう感動的な光景に見えた。
「ロエンありがとう、ずっと裏切ってた俺を許してくれてさ!!」
「礼なら私ではなく陛下に言え」
「うん。でもお前にも言いたいんだ。色々あったけどさ、俺、お前と一緒に騎士やれて良かったよ」
「お前がいなくなるとせいせいすると思っていたが……少しばかり寂しいものだな」
聞いていたティアは思わずよろけた。あの無愛想な男が、いつも足蹴にしていたあのグレンにそんな優しい言葉をかけるなんて……!
グレンも面食らっていたが、次第にさめざめと泣き始めた。
「いつも仏頂面で何考えてるか分かんないし、厳しいし怖いし理不尽で、地獄のロエン隊なんか辞めたいって毎日思ってたし、悪夢ばっかりで全然寝れなかったけど、俺お前の隊にいて良かったよ!!」
「…………」
一瞬にして空気が凍りついたが、感激の涙に溺れるグレンは気が付いていなかった。色んな意味で二度と彼に会えないかもしれない。ティアは心の中でグレンに別れを告げた。
「……言うまでもないが今月の給料は無いぞ」
「えっ?」
「当然だろう、お前は団員ではない。今月はよく働いてくれたから割増しておいたんだが、残念だったな」
「え、でも」
「そういえば来年はお前を隊長に推薦しようと思っていたんだが、退団するのなら仕方ない」
「待って、それ俺初耳なんだけど」
「ああ、本当に残念だ」
縋るグレンの手を無情にも外し、ロエンは踵を返した。グレンはそれを追いかけながら、「待って、俺もう少し騎士団にいる――」とかなんとか叫んでいる。
ティアは近くにいたアナスタシアを呼び止め、あれでいいのかと聞いてみた。
「ウィルノアが気に入ったんだろう。兄さんの呼び出しにも応じず、ずっと向こうにいたみたいだし。戻ってきたのは最近だよ。グレンがそれでいいなら、別にいいんじゃないか。私は止めないよ」
しつこいグレンはとうとうロエンに蹴り飛ばされていた。……本当にあれでいいのだろうか。