心の傷
ガイナ帝国の皇都は、六角形の巨大な壁に囲まれた城郭都市だ。その堅城さ故、幾度の戦でも皇都だけは堕ちることはなかった。長い年月を経て近隣の国々から領土を獲得していった結果、今では大陸一の巨大帝国として君臨するようになった。
そしてその中心。
馬車の窓から見える城は、ウィルノアの王宮の何倍も大きい。背も高く、いくつもの長い円筒の先には鋭い角度の屋根がついている。まるで天を貫いているようだ。
だが、ティア達が驚いたのは、何よりもその美しさだった。
上から下まで城のすべてを覆う様に、真っ白な雪が積もっていた。積もり固まった雪は城と一体となり、なぜか薄く青みがかって見える。
穢れなき美しさを放つその城は、見る者を幻想的な世界へ誘っていた。
ティア達を乗せた馬車は巨大な城門をくぐった。真っ直ぐ進んだ先には何台もの馬車が停車していたが、そこでは停まらず、正面の建物を迂回して更に東へ進む。向かうのは本宮ではなく、第二皇子の住まう離宮だからだ。
ようやく到着し、馬車から降りれば足の裏に柔らかな雪の感触がした。軽快に進むティアに対し、ユリスは慣れない足場に苦戦しているようだった。
「姉上、待ってください」
弟の声に振り返れば、少し距離が開いていた。足を止め、彼が追いつくのを待つ。
「雪には慣れておられるようですね」
隣に立つロエンがそう言ったが、彼もまた苦も無く雪道を進んでいた。
「この国にも長く住んでいたから。でも、こんなに雪が積もっているのは初めて見たわ」
地面も建物も、吐く息まで真っ白だ。空は厚い雲で覆われており、昼間なのに太陽の光が届かない。今は止んでいる雪も、またすぐに降り始めるだろう。
ユリスに合わせてゆっくりと歩き、ティア達は近衛兵の案内で離宮の入り口へ辿り着いた。目の前にそびえる頑丈そうな扉は、冷気を室内に入れないためのものだろうが、部外者の侵入を拒んでいるように感じられた。
振動と共に扉が開くと、深紅の絨毯が真っ直ぐに伸びていた。その先は天井の高いホールとなっており、螺旋階段が時計回りに設置されている。柱や手すりには繊細な装飾が施され、たくさんの照明のおかげで室内はとても明るい。階段の始まりには美しい女性の彫刻が対になるよう置かれており、向かい合う様に燭台を掲げていた。
そして、その螺旋階段をゆっくりと降りてくる人影があった。
「やあ、待っていたよ」
ガイナ帝国の皇女、アナスタシアだった。階段を降りるという何気ない動作すら優雅で、まるで舞台から登場したようだ。今日の服装は白いシャツに黒いパンツと、以前舞踏会で会った時の様な姫っぽさは全くなかったが、彼女らしいとティアは思った。
甘い笑みを浮かべる皇女は、挨拶もさながらにティアを抱きしめた。ティアは軽い抱擁だと思ってそれに応じたが、アナスタシアはなかなか放そうとしなかった。周りを見ると、ガイナもウィルノアの兵も羨ましそうな顔をしていた。どちらが羨ましいのかは不明だ。ロエンは相変わらずの仏頂面で、ユリスは舌打ちをしていた。
「まあまあご両人、ひとまずそれくらいで」
見かねて声をかけたのはグレンだった。いつもなら口笛の一つや二つ吹いているところである。珍しいこともあるものだ、とティアは感心した。
アナスタシアは名残惜しげに離れると、控えていた侍女達を呼んだ。荷物や着替えもあるだろうから部屋へ案内するとのことだった。食事までは自由にくつろいでいて構わないという提案に、長旅で疲れていたティア達は素直に頷いた。
ティアの部屋は何故か皆と離れていた。おかげで長い廊下をアナスタシアと二人で歩いている。ロエン達騎士と離れているのは分かるが、なぜユリスとまで離れているのだろうか。ティアには疑問だったが、招かれた立場としては何も言えなかった。
が、その問いはすぐに解決した。
「ティアの部屋は私の部屋の近くにしたから、いつでも遊びにおいで」
「あ、はい」
「なんだか素っ気ないな。もっと喜んでくれると思ったのに」
大げさにがっかりした仕草を取るアナスタシアが可笑しくて、くすくすと笑いがこぼれた。女たらしならぬ人間たらしは相変わらず顕在のようで、時々すれ違う兵士や侍女はアナスタシアを見ては頬を染めていた。
「今に見てごらん。部屋に着いたら絶対に喜ぶから」
「はいはい」
ティアは人間たらしの言葉を軽く受け流したが、すぐに歓喜することとなる。
「リディア!!」
扉を開けた先、ティアを待っていたのは、
「……マリー?」
かつてガイナで共に暮らした少女、マリーだった。
「本当にマリーなのね!!」
「ええ、ええ。そうよ、リディア」
久しぶりに会った少女は、自慢にしていた栗色の髪をばっさり肩の位置で切りそろえていた。明るく朗らかな彼女によく似合っている、とティアは思った。近づいて再会を祝おうとすると、マリーの肩が震え、ポロポロと涙を零し始めた。
「わ、わたしっ……あなたに謝りたくて、ごめんなさい、本当にごめんなさい……!!」
「そんな、どうしたの。泣かないでマリー」
「聞いたの、アナスタシアから。あなたがどんなにつらい目に合っていたか。……っ、それなのに、わたしっ……あの日連れて行かれるリディアを、助けようともしないで。あなたはわたしを助けてくれたのに……!! 本当に、ごめんなさい……っ」
マリーは床に崩れ落ちると、ついには嗚咽を漏らして本格的に泣き始めた。ティアは手巾を取り出してその涙をひとつひとつ拭っていく。するとマリーがまた謝るので、ティアはどうしたものかと困り果ててしまった。
手巾が水分を含んで役に立たなくなると、マリーもようやく落ち着いたようだった。
「ねえ、マリー。貴女が謝ることなんてないのよ。私こそ貴女に隠し事をしていたり、それに……貴女を巻き込んでとても酷い目に合わせてしまった。謝っても謝り切れないわ」
ティアは村での悪夢を思い出していた。ティアを探しに来たウィルノアの騎士により、あの日、あの暗闇の中でマリーは酷い暴力を受けた。最悪の目には合わなかったとはいえ、彼女が受けた傷は大きいはずだ。
ティアが謝るとマリーは俯いていた顔を上げ、首を横に振った。
「そんな、リディアは謝らないで、わたしが、」
「はい、そこまで」
アナスタシアが手を叩き、謝罪の応酬を止めた。
「せっかくの再会が涙で濡れちゃもったいない。互いに悪いと思ってるならそれでいいだろ? それより祝おう、華の美女が三人も揃ったんだから」
「アナスタシア、それ自分で言う?」
ふふ、はは、と笑いがこぼれる。いつの間にか泣き止んでいたマリーもそれに加わり、楽しい笑い声が部屋に響いた。
マリーが淹れてくれた飲み物を片手に、ティア達は改めて再会を祝った。
「マリーは皇女付きの侍女としてこの宮で働いてくれてるんだ」
「なんだかあの事件があってから、村に居づらくなってしまって。あ、リディア謝らないでね。そんな時、アンナがやってきたの」
小さな村に予告も無く皇女がやってきた衝撃は凄まじかった、とマリーは語る。しかも良く知ったアンナが皇女だったのだ。その衝撃は計り知れない。
「私がいた傭兵団、あれは実は兄の私兵なんだ。傭兵団という皮を被って、私が指揮をとりながら各地の実態を探っていた。マリーの故郷は拠点のひとつさ。私はこの性格だろう? 所謂「皇女」としての政務は好まなかったから、あの暮らしをひどく気に入っていたんだ」
「アンナってば、この宮には話し相手がいないからってわたしを誘ったの。私も村を出たかったし、それに皇宮の侍女なんて、帝国中の女の子の憧れよ。お給料もいいし、一つ返事で頷いちゃったわ。……ま、余計なのがくっついてきたんだけど」
「ははっ、ダニーのことだよ。覚えてるだろう?」
ダニーといえば、マリーの弟で、ティアが教師をしていた頃の大事な生徒でもある。もちろん、とティアが頷くと、マリーはむすっとしながら置いてあったクッキーを齧った。
「あの子、ずるいずるいって言って付いて来たの。アンナが援助をしてくれて、来年から軍学校に通うのよ」
「帝国軍に入るのがダニーの夢だったじゃない。良かったわね」
「良くないわよ!!」
マリーが大きな音を立てて机を叩いたのでティアはびっくりした。アナスタシアは愉快そうだった。カップが空になっていて良かった、とティアは思った。
「皇都の軍学校なんて、貴族みたいな偉い人の子息が通うところなのよ。身分の差が大きすぎて絶対苛められるわ!!」
「ダニーは貴女に似て明るくて、村でも子どもたちの人気者だったでしょう。きっと大丈夫よ」
「だめよ、あの子馬鹿だもん」
はあ、とため息をつくマリー。それはまさしく、弟を心配する姉の姿だった。
「あら、カップが空になっていたのね。飲み物を取ってくるわ」
マリーが部屋を出て行くと、アナスタシアが囁いた。
「あの娘、身分の差がどうとか言ってるけど、すぐ私に説教するし、朝とかバンバン叩いて起こすんだ」
「……貴女のこと、皇女だと思ってないんじゃない」
「やっぱりそうかな」
「嫌ああああ!!」
穏やかな時間は突如破られた。
少女の叫び声が聞こえたのだ。
慌てて部屋を出ると、そう離れていないところに二つの人影があった。
一つはマリーで、廊下に座り込んでいた。何かに怯えたように後ずさりをしている。持ってきたのであろうポットは落ち、絨毯に染みを作っていた。
もう一つの影は、ロエンだった。尋常ではない様子のマリーを心配して、手を差し出している。
しかし、マリーはなぜかロエンに怯えているようだった。
「その娘から離れろ!!」
ティアより先を走るアナスタシアが吠えた。ロエンは伸ばしていた手を止め、ティア達を見た。
アナスタシアはマリーを庇うように前に立つと、ロエンをきつく睨んだ。
「嫌、嫌ぁ……」
マリーは何かに抵抗しているようだった。見たところ外傷は無い。一体どうしたのかと、ティアがロエンに問うた。
「この侍女にティア様の居場所を訊ねようとしたところ、突然叫び声をあげ、このような状態に」
「……もしかして、」
「ああ、おそらく」
アナスタシアも、ティアと同じことを考えているようだ。
ティアはロエンに少し離れているように指示し、出来るだけ優しい口調でマリーに語りかけた。
「マリー、もう大丈夫よ。私が分かる? ほら、アンナもいるわ」
「……っ、リディア?」
「ええ、大丈夫、何も心配しなくていいわ」
マリーはゆっくりと俯いていた顔を上げた。大きな瞳には涙がいっぱい溜まっている。
「騎士が、あの騎士が……!!」
「うん、怖かったよね。でも安心して、あの騎士は何もしない。マリーに酷いことをしたりしないから」
「本当……?」
「本当よ」
マリーはまだ怯えていたが、大きく息を吸い、少しずつ落ち着きを取り戻して行った。
おそらく、マリーはロエンを見て、騎士に暴力を受けた記憶を呼び起こしてしまったのだろう。ロエンもあの時の騎士と同じような鎧を身に纏っている。余計に錯乱したのかもしれない。
彼女が受けた心の傷は、まだ癒えていないのだ。
マリーは壁に手をつきながら立ち上がった。その足下は覚束なく、慌ててアナスタシアが腕を貸す。
「無理はするな」
「へへ、ごめんね。……リディア、あの騎士の人を呼んできてくれる?」
「構わないけれど、でも貴女、」
「平気だよ。わたしが勝手に混乱しちゃったんだし、謝らなくっちゃ」
しかし、どこをどう見てもマリーは無理をしていた。無理やり浮かべた笑みは痛々しささえ感じる。
「マリー、今日はもう休め」
「でも……!!」
「どうしてもと言うなら、明日にしておきな」
有無を言わさぬ皇女の言葉に、マリーは静かに頷いた。
「リディア、あの人にごめんなさいって伝えておいて」
「分かったわ。さあ、行きましょう」
アナスタシアに連れられ、マリーは立ち去った。
ティアは、離れて様子を窺っていたロエンの元へ駆け寄った。
「ごめんなさいね、ロエン」
「いえ。なんとなく事情は察しました」
「ロエンも、あの子も悪くないの。私がこの国にいた時、捜索に来た騎士に酷い目にあった話、覚えている?」
「はい。奴らには粛清を下しておきました」
真面目な顔でそんな単語を使われると、ちょっと怖い。……彼らは生きているのだろうか。
そんなことを思ったが、ティアは思考を切り替えた。
「その時に色々あって。彼女、騎士が怖いと思うの。少し気を配ってもらえると助かるわ」
「わかりました。皆にも伝えておきます」
お願いね、と言ってティアもマリーの後を追いかけようとした。が、ロエンが呼び止めたので足を止める。
「何?」
「ティア様は騎士が怖くはないのですか。貴女もあの娘のように……、いや、もっと酷い目にあったはずでしょう」
暗い顔でロエンが問う。
少し落ち込んでいるようにも見えたので、ティアはロエンに近づき、励ます様に彼の両肩をぽんぽん、と叩いた。
「私にとっての騎士は貴方だから。だから怖くないよ」
「……ティア様」
「まあ、その仏頂面はちょっと怖いけど?……って、ちょっと、怖い!!無理やり笑わなくていいわよ!!やめて!!」
やっぱり騎士は怖いかも。
冗談交じりでそう言うと、今度はロエンも本当に笑った。
いつか、マリーも一緒になって笑えるといいな。
ティアは心からそう思う。




