冬の大地
ウィルノア王国の紋が装飾された立派な馬車が、整備された道を走り抜けていく。その前後では騎士が一糸乱れぬ隊列を組み、厳重に護衛を務めていた。
そんな見慣れぬ光景を目撃した民の間では、一体どんな人物が乗っているのか、憶測を呼んでいた。
その車中。
この行幸の主役たる人物は、隣に座る女によりかかっていた。不安定な体勢ながら、穏やかな顔で休息を得ているようだ。
侍女の服を纏った女は、流れゆく外の景色に目をやる。
灰色の厚い雲に覆われ、昼前だというのにどこか暗い。
赤や黄色に色づいた葉も枯れ、裸の木々は見ているだけで寒さを感じさせた。辛抱強く枝に留まっていた葉も、時折吹く強い風によって散り去っていく。人々は分厚い上衣や毛皮の帽子を被り、寒さを凌いでいるようだった。
厳しい冬の大地だ、と女は思う。
自分の生まれた国とは違う、一面茶色の大地が広がっている。
これが――ガイナ帝国だ。
しばらく外を眺めていると、一人の騎士が馬の手綱を操り窓辺に近づいて来た。女と目が合うと片手を手綱から放し、サインを送る。この先で停車する、という意味のそれに女が頷くと、騎士は仏頂面で隊列に戻って行った。
どうやら休憩を取るらしい。が、そうなるとすやすや眠るこの国王を起こさねばならない。
王宮を出る直前まで、寝る間も惜しんで働き詰めていたようだ。そのことを知っているだけに起こすのは忍びないが、皆に寝ぼけた顔を晒すわけにもいかない。
それが彼の立場だからだ。
「陛下」
「……」
「起きてください、陛下」
軽くゆすっても目を覚まさない国王に、女は耳元でそっと囁く。
「ユリス、起きて頂戴」
「……う、ん……」
寝ぼけ眼のユリスは、目の前の人物が本当にそこにいるのか、確かめるように手を伸ばした。
「……姉上」
女は愛しい者を見るように、優しく微笑んだ。
馬車が止まったのは、ウィルノアからほど近いガイナ帝国の関所だった。遠くからは灰色の巨大な壁に見えたそれは、近くで見ると同じ大きさの岩が隙間なく積まれて出来ていた。
ユリスが馬車を降りると、騎士を纏めるロエンが出迎える。その隣にはガイナ帝国軍の軍服を纏った男が立っていた。
「陛下、車内では満足に過ごされましたか」
「ああ、良く休めた。こちらは?」
「ガイナ帝国の近衛隊の方です」
「御目にかかれ光栄でございます。暖かい席を用意しておりますので、ご案内致します」
近衛兵が先頭に立ち、ロエンとユリスは建物の中へ入って行った。数人の騎士も護衛として続く。
「ティアちゃん」
車中から様子を窺っていたティアのもとへ現れたのは、燃えるような紅い髪が特徴の男、グレンだった。
「長旅で疲れたでしょ。あっちとは別に部屋用意してあるから、案内するよ」
「ありがとう、お願いするわ」
グレンが差し出した手を取って馬車から降りると、冷たい風が足下を通った。思わず震えるティアに、グレンは歯をのぞかせて笑う。
「はは、外は寒いよね」
「本当。ウィルノアの何倍も寒さを感じるわ」
「ガイナの冬は厳しいからなあ。そんな薄っぺらい侍女の服じゃ風邪を引くよ。着替えた方がいい。ウィルノアも越えたからもう大丈夫でしょ」
「ええ、そうしようかしら」
小さな部屋に案内されると、暖炉の炎がティアを出迎えた。暖かい室内にほっと息をつく。
グレンが出て行き、柔らかな椅子に腰を下ろすと、ここ数か月の出来事がティアの脳裏に甦ってきた。
アガレスの生誕祭、その舞踏会の裏でティアとユリスはようやく和解した。そしてその後、ユリスが恩情を与えるという形で、当面ティアの処分は見送られることになった。ティアの罪状が消え去ったわけではないので、当然これに対する反発は強かった。しかし被害者が加害者に恩赦を与え、刑罰が減免されるという制度自体は存在しており、何より国王の声ということもあって表向きには容認された。だが王家へ籍を戻すことは叶わなかった。
ティアの無実が証明できない現状においては、これが限界だった。それでもユリスが自分を信じ、守ろうとしてくれることがティアには嬉しかった。
しかしそのおかげで、ユリスの国王としての権威は以前にもまして薄れつつあった。
軽く扉が叩かれる音に、いつの間にか伏せていた瞼を上げる。扉を開けると、茶器を乗せた盆を持ったグレンが立っていた。カップから白い湯気が立っている。
「ここ男しかいないから、とりあえず入れただけなんだ。不味いかもしれないけど勘弁してもらえる?」
「気を遣ってくれたんでしょう。ありがとう、頂くわ」
椅子に戻り、グレンにも座るように促す。
茶は口に入れるとひどい渋みを感じたが、温かな液体はティアの身体をじんわりと温めてくれた。
「ガイナとの調整で駆け回ってもらって、本当に助かったわ。大変だったでしょう」
「え? あっちい!!」
「…………」
グレンは自分が淹れた茶を飲んで舌を火傷したらしい。涙目になって舌を突き出している。大方、息で冷ましもせずにそのまま飲もうとしたのだろう。
微笑ましいような、呆れるような。後者のような気もするが、この男の働きもあって、今回のガイナ訪問は成立したのだ。
舞踏会の後。
アナスタシアにはユリスと和解したこと、ガイナへ行く意志は無いことを伝えた。彼女はため息を吐きつつ、「近いうちに連絡する」と言って帝国へ還って行った。
そしてユリスからの恩赦が与えられた直後、一通の手紙が国王の元へ届けられた。ウィルノア国王宛てに送られたそれは、ガイナ帝国第二皇子からの正式な招待状だった。
カップを受け皿に戻し、ティアは膝の上で手を組んだ。
「ウィルノア国王の帝国への訪問なんて、数十年ぶりのことよ。しかも相手は次の皇帝候補。おかげで王宮は大混乱だったわ」
それまで怠惰を貪っていた高官達の焦り様を思い出し、ティアは笑いが漏れた。ユリスが第二皇子と友好関係を結べば、ウィルノア国王はガイナという大国の後ろ盾を得たことになる。そうすればさしもの貴族達も、これまでのようにユリスを軽んじることは出来ないだろう。
「だろうなー。ま、この訪問が無事成功すれば、の話だけど」
「……そうね」
難しい表情のグレン(火傷で顔を顰めているだけかもしれない)は、ウィルノアとガイナの調整役となり、この数か月毎日のように駆け回ってくれた。
「アナスタシア様が私も同行するようにおっしゃられたのには驚いたけれど」
「それこそ当然でしょ。ユリス陛下とあの皇女様の間には何もない、君がいるだけなんだから。君が陛下の侍女として付いて来たなんて知れたら、あの人絶対キレるよ」
「そうかしら」
ティアとアナスタシアの関係はごく僅かな者しか知らないので、ティアが訪問に付いて行くにはそのような形をとるしかなかった。だがそれはウィルノア国内だけでの話。ガイナに入国してしまった今は姉弟として振る舞っても良いだろう、というのがユリスの料簡だった。
「間違いないね。早くティアちゃんに会いたくて、こっそり馬に乗ろうとして叱られてる頃だと思うよ」
「なんだか貴方、随分とアナスタシア様のことを知っているのね」
「えっ!? あ、ああ。ガイナに行った時に何回か会う機会があったから、そうなのかなって思ってさ」
何かを誤魔化すように茶を口に含んだグレンは、またしても「熱っ!!」と叫んでいた。……学習しない男だ。
なんだか問い詰める気にもならず、ティアは着替えを取りに行くことにした。
各自食事や休息を取り、再度出発する時刻となった。
外に出ると馬車まで歩くのも億劫になるほどの寒さで、自然と身体が震えた。
「ティア様」
いつの間に近くにいたのだろう。隣に並んだロエンは、白い上衣を差し出してきた。
「風邪を召されます。上着を羽織られて下さい」
「ありがとう」
袖を通してもらうと、肌触りの良い生地が風を防いでくれる。
「ロエンも、騎士の皆も大丈夫? 馬に乗っていては寒いでしょう」
「私は大丈夫です。それにこれしきの寒さ、耐えられぬ者など私の隊にはおりません」
無愛想にそう言われると、なんだか叱られた気分になってしまう。
最近のロエンはなんだか変だ、とティアは思っていた。
仏頂面は昔からのことだけど、それに輪をかけて冷たい時がある。
かと思えばこうやって上着を着せてくれたり、屋敷にいるときは戸惑うほどに優しく接してくる。
「寒さに耐えられぬ者などいない」そうロエンが言った通り、周囲を見渡しても縮こまっている騎士はいなかった。今回の護衛は全員が精鋭と名高いロエン隊の隊員だ。よく鍛えられているのだろう。
「……無理をしないでね。皇都までもう少し、よろしくお願いします」
「はい。馬車までご案内します。お手をどうぞ」
ロエンのはめた黒い皮手袋ごしでは、互いの体温も分からない。
訪問への緊張か、見えない不安か、心がざわつくのを感じながら、ティア達は皇都へ向け出立した。