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ユリス

 ティアがユリスを追って辿り着いたのは王族の居住区だった。長い廊下の突き当りには、国王の部屋がある。後ろ姿は既に見失っていた。自室にいるのだろうか。

 弾む息を抑えつつひっそり居住区を歩くと、いつかユリスに手を引かれてここへ来たことを思い出した。王宮勤めの最終日、あの時は熱帯夜だったが、もう季節が変わり秋になった。しばらくすれば色づいた葉も落ち、寒く凍える季節となる。


 王の部屋が近づいて来た頃、ティアはふと、ある部屋から廊下へ月の光が洩れているのに気が付いた。見れば、他の部屋と違って少しだけ扉が開いていた。


「……私の、部屋だわ」


 そこはかつてのティアの部屋だった。もう六年も経ったのだ。今は既に空き部屋か、別の人間が使っているかもしれない。

 それでもティアは、何かに導かれる様に扉の前に立った。

 見たいような見たくないような、複雑な気持ちが湧いてくる。


 大きく息を吸い、深く吐く。そしてティアは空いた扉の隙間から中を覗いた。




 目に飛び込んできたのは、闇に浮かぶ金糸だった。窓から差し込む月明かりが反射して、きらきら光っている。


 ティアの胸が大きく鳴る。遠くの喧騒も風の音も、自分の鼓動以外何も聞こえなくなった。ドクンドクン、全身に血が廻る。視線は部屋の中の人物に注いだまま、そっと扉に手をかけた。


 本を読み、侍女や護衛と団欒し、安らかに過ごした空間。幼い弟は毎日のようにティアのもとを訪れ、その日の出来事を聞かせてくれた。ある日は珍しく父が褒めてくれたのだと、興奮して報告に来た。またある日には、母に厳しく叱られたからと落ち込んでいた。嬉しいことも悲しいこともいつも二人で共有していた。眠れない夜にはこっそりと、手をつないで横になった。

 ティアはその小さな手が大好きだった。


『……人は変わるし、成長もする。けれど一番奥の、大切なところはそう簡単には変わらないんじゃないかしら』


 先日の母の言葉が蘇る。


『あの御方の傍にいたのは、他の誰でもない……貴女よ』


「ええ、そうね、母上」


 そう言ってティアは、ゆっくりと扉を開いた。






 部屋の中に入ったティアは、辺りを見渡して息をのんだ。

 寝台から長机、椅子に壁紙、調度品まで、あの頃と何一つ変わらず、王女の部屋が残されていた。この部屋だけ、六年前から時が止まったようだった。


「誰だ!!」


 虚ろをつかれた男の声が闇を裂いた。寝台の柱の影から、月明かりを受けた人影が浮かび上がる。


「あね……うえ……?」


 まるで幻でも見たような、そんな顔だった。


「ユリス」


 探していたその人の傍へ寄り、手を伸ばす。泣いている弟を慰める、いつかの姉の姿だった。

 だが、その細い腕は音を立てて払われる。

 行き場を失くした手は、祈るように胸の前で組まれた。


「何の真似だ。皇女の元へ行くんじゃなかったのか」

「行かないわ」

「僕の気が変わらないうちに、」

「行かない」


 ユリスの眉間に皺が寄った。苦虫を噛んだような、そんな顔をしている。そのまま目を瞑り、何かを堪えるように喉の奥から声を絞り出した。


「……頼む。行って。ここから出て行ってよ」


 命令じゃない、ユリスの嘆願だった。

 影の堕ちた表情は、ともすればそのまま闇に溶けてしまいそうだ、とティアは思った。


「ユリス」

「やめろ」

「ユリス」

「そうやって僕の名を呼ぶな!!」


 息は荒く、肩は上下し、固く拳が握られている。彼を苦しめているのが自分だと思うと酷く悲しかったが、それでも伝えたいことがあった。自分勝手だ。でもそうしないと一生後悔してしまうとティアは思った。


「お願い、聞いて欲しいの」


 ユリスは顔を背けたまま、何も応えなかった。何かに耐えるのに必死で「応えられなかった」が正しいかもしれない。

 俯いた弟をまっすぐに見つめ、ティアは想いを声に乗せた。


「さっき、どこへでも行けって貴方に言われて思ったの。ガイナに行って、全てから解放されて自由に生きられたとして、それは素敵なものかもしれないけど、でも私の望みは叶わない、って」


 ユリスの顔が少しだけ上がった。それでもこちらを見ようとはしない。


「だからウィルノアに残ろうと思ったわ」

「……今度こそ僕を仕留めて、王位を奪おうって算段なんだろう」


 いつもの皮肉も震えていては、全く嫌味には聞こえない。

 どうしたらこの人に自分の気持ちを伝えられるんだろう。届いて欲しい。信じて欲しい。


「ユリス。私の望みは……貴方を王にすること。そしてその傍にいることなの」


 六年前、いやそれよりも以前から、ずっと変わらないティアの願いだった。

 どんなに過酷な仕打ちを受けても、どんなに酷い言葉で罵られても、……どんなに離れていても、ユリスはティアにとってたった一人の、大切な弟だった。


 ティアはずっと、ユリスのことを愛していた。傍にいたかった。支えていたかった。

 信じて欲しかったし、願わくばユリスもそうであって欲しかった。


「今の僕は王じゃないって、ふさわしくないって、お前もそう思っているんだな」

「っ違う、そうじゃ、」

「違わないさ。僕が一番よく分かってる。僕が玉座にふさわしくないってことは。……僕は、お前の様にはなれないんだから」


 ――私?


 そこでどうして自分が出てくるのか、ティアにはわからなかった。

 そんなティアの考えを見透かしたユリスはようやく顔を上げた。その瞳が虚ろで、思わず息をのむ。何もかもを諦め、孤独に溺れたように思えた。


「当たり前すぎて分からないんだろう。ああ、心底お前が羨ましいよ」


 自らを嘲けるように、ユリスは小さく笑った。


「周りが見るのはいつも僕じゃなくてお前の方だ。皇女もロエンも、父上だって皆そうだ。……僕は違う。僕が王子で、国王だから、だから人が寄ってくるだけだ。誰も僕自身を見ようとはしない!!」


 ティアには言われたことが分からなかった。ティアが見ていたのはいつもユリスだったから。ユリス以外の人が自分を見ていたなんて、ティアには全く自覚が無かった。

 困惑する女を見下ろし、ユリスはその華奢な両肩を掴んだ。


「知らないだろう。病床の父上がうわ言で呼ぶのは、ティア、お前の名前だよ」

「え?」

「この部屋をこのままにしていたのも父上さ。毎晩一人で訪れては、自責の念に囚われていたんだ。はっ、泣ける話だろ?」


 ティアは暗い部屋を見渡した。本当に何もかも変わらない、あの時のままだ。いつか父から貰ったオルゴールが目に入る。いくつもの宝飾が闇の中で煌めいて見えた。

 しかし父が倒れたのは一年前だ。それからもこの部屋が埃も被らずに保たれていたのは、誰のおかげだろう。

 その答えは、目の前にある気がした。


「僕だって父上に認められたかった。何もしなかったわけじゃない。僕は僕なりに精一杯やった。……でも、駄目なんだ。誰も僕を見てはくれない。母上だって父上につきっきりで、もう何か月も顔を見ていない」


 肩を掴む腕に力が籠り、骨が軋む音がした。痛みに顔を顰めるも、目の前で消え入りそうな弟の名前を呼んだ。そうしなければ本当に消えてしまいそうだった。


「王になりたかったわけじゃない。僕はただ、僕を見てくれる人が欲しかっただけなんだ」


 ユリスの心の叫びがティアの胸をせつなく打った。

 甘えん坊で泣き虫の小さなユリスは、ただ愛されたかっただけだ。

 王子として、国王としてではなく、ただの「ユリス」として。

 だが唯一「ユリス」を見ていた姉は、あの日王宮から去ってしまった。 

 

「本当はわかってるんだ。貴女が僕を殺そうとするはずがないって、わかってるよ。でも、許せないんだ」


 ユリスは崩れ落ちるようにティアの胸へ顔をうずめた。その頭にそっと触れれば、指の間を金糸がさらさらと流れた。


「貴女の望みが僕の傍にいることなら、どうしていなくなってしまったんですか。僕には……僕には、姉上しかいなかったのに。僕を見てくれるのは姉上だけだったのに」


 冷たい何かがドレスの空いた肌の上を伝った。六年ぶりに見る、泣き虫な弟の涙だった。


「いやだ、置いて行かないで。もう一人にしないで。お願いだよ、あねうえ……っ!!」


 ――どうして分からなかったんだろう。弟の孤独に気付いてあげられなかったんだろう。自分の境遇を嘆くばかりで、大切なことに目を向けなかった。なんて私は愚かなの。


 ティアの視界が滲み、堪えるように瞼を閉じれば、瞼を焼くような熱い涙が零れた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ユリス」

「……っ、あねう、え……っ」


 ティアがユリスの背に手を回すと、ユリスも強く抱きついた。


「もう、どこにも行かない。ずっと貴方の傍にいるわ」


 弟は顔を上げた。縋るような視線が姉に向けられる。

 紫苑の瞳が確かに交わり、双方の瞳から零れ落ちた雫がじんわりと溶け合っていった。


 姉弟はそうして、今度こそ互いの存在を見失わないように、いつまでも抱き合い、離れなかった。




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