絡まり
「迎えに来たって、どういうことなの? それに皇女っていうのは……」
「……皇女なのは本当だ。ずっと隠していてすまないと思っている」
アナスタシア、もといアンナは、手にはめたシルクのグローブを煩わしそうに外した。そうしているとティアの記憶の中の彼女そのものだ。
だが、大広間での所作も演技なんてものではなく、ごく自然なそれに思えた。
事態がうまく飲み込めない。目の前の彼女が本当にアンナなのか、ティアは未だに疑わしかった。
そんな懐疑的な視線に気付いたのか、皇女は笑い声を上げた。
「見事な変身っぷりで驚いただろう。化粧なんてしたことは無かったしな」
「ええ。毎日駆け回ってどちらかといえば泥をつけていたもの」
「そうしたいのは山々だけどね。……国を追われた王女の君には言えなかったんだ。自分が皇女の地位から逃げていた、なんてことは」
「アンナ……」
「臆病だったんだ。かけがえのない友人を、私は失いたくなかった」
真実を打ち明けるのは怖い。相手が大切であればあるほど。
思えば、ロエンも同じようなことを言っていた。
「けれどそれが裏目に出てしまった。おかげで君を連れ戻すのにも時間がかかってしまい……。さっきは酷い目に合っていたようだけど、大丈夫なのか?」
「ありがとう、私は平気よ。……とてもお世話になったのに、何も言えずに去ってしまってごめんなさい」
外聞も問わず、自分のことを友人だと言ってくれる。
変わらないアンナの強さと優しさが、舞踏会で傷ついたティアを揺さぶった。
「いいんだ、君が無事だったなら。……時間が無い。私と一緒においで、ティア」
真っ直ぐに差し伸べられる手。
手袋を外した手には、皇女には似つかわしくない傷がたくさんついている。傭兵団の戦いの中で受けたものだろう。
守られる姫ではない。それは、誰かを守る人の手だ。
――誰にも虐げられず、自由に生きる。
彼女の手を取れば、それが得られるのだろうか。
「私は君の味方だ。ガイナに来い、ティア。」
「うわっ、ちょ、お前!」
不意に、部屋の外から慌てた声が届いた。直後、空間を裂くような高い剣戟が響き渡る。護衛の男と誰かが戦っているようだった。
「……時間切れだな」
小さな舌打ちと共に、アンナが漏らす。
同時に、ゆっくりと扉が開かれた。
「こんな所に隠れていたんですか」
闇の中、焔をうけた金糸が煌めく。
獲物を見つけたような喜びは隠さずに、一見すればとろけそうな程甘い笑顔でユリスは現れた。
「舞踏会はまだ続いていますよ」
コツリ、コツリと何かの宣告のように、ブーツの踵が床を打つ。二、三歩進めば柔らかな絨毯に足が乗り、音は止んだ。その分距離は短くなる。
アンナは差し出していた腕を元に戻し、外した手袋をはめた。
「国王陛下自らお越し下さるなんて光栄ですわ。けれど陛下がいなければ皆心配するのでは?」
「……美しい貴女が相手をして下さらないのでね」
穏やかなのは口調だけで、水面下では火花を散らす。
ティアが口を挟む隙は無い。
数秒、時が止まったように二人は微笑み合った。
窓も開いていないのに冷たい風が背筋を撫でたようで、ティアの肩が震えた。
「明朝には発たねばなりませんので、私はもう休ませて頂きます」
「それは残念です。もっとウィルノアの良いところをお見せしたかったのですが」
「そうですね……残り少ない時間を惜しみましょう、――」
アンナが声には出さず口を動かした。横にいたティアには何を言ったのか分からなかったが、正面のユリスは理解したのかもしれない。笑みを湛えつつも、はっきりと目つきが変わった。
「…………」
「それでは失礼致します。……ティア、返事は後で伺いに行くよ」
そう言うとアンナは本当に部屋を出て行った。剣戟はいつの間にか止んでおり、二人分の足音が遠ざかっていく。
残されたのは国王と、かつての王女のただ二人。
執務室以外で会うのは久しぶりで、ティアは鼓動が早まるのを感じた。
――もし、もしもアンナに着いていけば、ユリスに会うこともなくなるのだろうか。
そんなことが脳裏を掠める。
「満足か?」
「え?」
「満足か、と聞いている」
「おっしゃる意味がよく、」
わかりません、と続けようとした言葉は、ユリスの鋭い視線によって喉の奥に引っ込んでしまった。
憎い敵でも見るような双眸。
何が彼をここまで激怒させるのか。自分が舞踏会を抜け出したためか、はたまたガイナの皇女に誘いを断られたからだろうか。
大好きな家族だったのに。今は弟と向き合うのが酷く恐ろしい。自分を責める、その紫苑が。
敵の巣窟である大広間でさえ、この空間に比べれば生ぬるいものに思えた。
――どうして。
何度思ったか分からない。答えの出ない問いを、ティアはまた繰り返す。
6年前のあの日、二人の道が違えてしまってから。
――どうしてこうなってしまったの。私は、
「私はやってない、か?……皇女にもそう言って取り入ったんだろう」
「いいえ、そんなこと」
「また「していない」か。ふん……。しかしガイナのお姫様とあんなに親しかったとは、正直驚いたよ。いつから通じていたんだ?」
あの事件の逃亡の末に助けてもらったとは言えなかった。皇位簒奪を目論んだとされるティアをガイナの皇族が助けたともなれば、どんな事態に転ぶか分からない。事と次第によっては最悪の結果にだって成りかねないし、それは絶対に避けたかった。
しかしそう考えれば、アンナがティアの正体を知ってなお匿い続けたのは不思議なことだった。
何も言わないティアに痺れを切らしたのか、ユリスは怒りを露わに大股で近づいて来た。ティアが小さく後退するも、結局壁際に縫いとめられるような格好になった。
「いつだってそうだ。お前はいつもそうやって周りを味方に付けて、何もかも僕から奪っていく!!」
叫びと共に、ユリスの右腕が勢いよく壁に叩きつけられる。大きな音と振動がティアの身体に響いたが、今度は怯まなかった。紡がれたその言の葉に、姉もまた憤りに似た感情が突き上げてきたからだ。
「貴方が何を奪われたというの……? それこそ私の台詞だわ!! 家族も、従者も、王女の地位も、あの日に私は全て失くした! 王宮で豊かに暮らしてきた貴方には言われたくない!!」
「違う、僕から奪ったのはお前だ! あの日、城から去ったお前が……!」
「私はやってない! ええ、何度だって言うわ! 私はやってない! 大好きだった貴方を殺そうなんてするはずがないじゃない!!」
吐露した想いは本心だった。これほどの激情をユリスに向けたのは初めてで、叫んだ喉も、重い心も、じくりと痛む。
ユリスは俯いて喉の奥をクツリと鳴らした。零れる笑いは何か滑稽な様を見たかのようにも、自嘲しているようにも思えた。
「大好きな貴方、ね……笑わせないでよ。そんな言葉、僕が信じると思うの?」
ふっと、燭台の明かりが消えた。ほのかに照らされていた部屋は一気に闇に包まれる。と同時に、ティアの高ぶっていた気持ちも急速に冷えていった。罵るように声を荒げたせいか、心臓が大きく脈打っていることに気が付く。
「分からないだろう、僕の気持ちなんて。何も持たない、僕のことなんて……」
ぽつり、零れた言葉はぎりぎりティアの耳に届くくらいの音量で、ユリス自身声に出したつもりは無いようだった。
言葉を失うティアに目を向けず、ユリスの手が壁から離れる。そのまま上衣の裾を翻すようにティアに背を向けた。
「…………いいよ、解放してあげる。ガイナでもどこでも行きなよ。……じゃあね」
夜の闇を縫う様に、ユリスはティアの前から去って行った。手を伸ばす暇さえなかった。
どうして、突然そんなことを言うのか。
動揺し混乱するティアを余所に、ユリスの足音はどんどん遠ざかる。
――なぜだろう。今追いつかねば、永遠に袂を分かつ気がする。
そう思うのに、床に根が張りついたように足が動かない。手のひらで脚に触れれば、小さな振動が伝わった。
――行かないと、早く。どうして、動いて、動いて、動いて!
震える手を握ろうとするが、まるで力が入らなかった。
――何をやってるの、私。行かないと、今追いつかないと、早く、早く、
「……っ待って!!」
大きく一歩を踏み出せば、もう片方もそれに続いた。もつれそうになる足を叱責して部屋を横切る。辺りが見えないせいで何かの角が身体に当たったが、ティアは気にも留めなかった。
扉の取っ手を回すのも煩わしく、早く早くと気持ちが先を急く。
部屋を出て、ドレスを着ていることも忘れて駆け出した。言いたいこともまとまっていないし、ユリスの誤解を解く言葉もまだ見つかっていない。追いついて、また酷い言葉をぶつけられるかもしれない。もっと残酷な目に合うかもしれない。
アンナの手を取ってガイナに行く方がずっと賢い選択だと、ティアは自分でも分かっていた。それでも今は、ユリスの元へ行きたい。それだけが心を占める。
前だけを見据え走っていると、突如振っていた腕が掴まれた。驚くよりも先に身体のバランスを崩し、転びそうになる。が、倒れた身体は逞しい腕に抱き止められた。
「申し訳ありません、ティア様」
上から聞こえた声に安堵する。手を借り立ち上がると、無愛想な顔が自分を見つめていた。こんな表情を向けられるのは案外久しぶりかもしれない。
「ロエン」
ユリスのことで頭がいっぱいで、彼のことはすっかり忘れていた。今までどこにいたのだろうと疑問が浮かぶが、今はそんなことを話している段では無い。
「ごめんなさい、私急いで――」
「ユリス様の元へ行かれるのですか」
ロエンには珍しく、彼はティアの言葉を遮った。一瞬戸惑うも頷くと、何かを言おうと口が開かれる。しかし言葉にされることはなく、口を閉じるとそのまま引き結ばれた。
そうしているうちにも、ユリスはどんどん離れていく。そんな風に焦る気持ちを見破ったのか、ロエンはようやく口を開いた。
「それが貴女の選択なら、私は止めません。……お引き留めして申し訳ありませんでした。どうぞお急ぎください」
いつもと違うロエンの様子が気にはなったが、彼の言葉を受けたティアは再び走り出した。
一度も振り向かず長い廊下を駆け抜け、主人が角を曲がった時、男は誰に言うでもなく言葉を漏らした。
「昔も今も、貴女が追うのはただ一人だ。私ではない、あの方だけ……」




