皇女
壁を覆う垂幕に隠れるように、ティアは会場の隅をこっそりと移動していた。そうして大広間を見渡せば色々なものが見えてくる。
ごますりに忙しい貴族、意中の娘を虎視眈々と狙う男、夫を放って若い男と踊り明かす人妻。机の下で何か危なげな取引をしている集団もいるし、縁談が成立したのか大喜びしている家族もいる。
「……家族」
ぽつりと言葉が洩れた。
無意識に、自分と同じ金の髪を捜す。
ユリスは自分の席から動いていなかった。隣には美しい娘が侍り、空いた杯に酒を注いでいる。話しかけられることに応えてはいるが、心ここにあらずといった様子だ。
本来ならば国王の元にはひっきりなしに臣下や貴族達がやってくるはずだ。それが見当たらないということは……いや、今はただ人の波が途切れているだけかもしれない。
「いたわ! こんな所でこそこそ隠れていたのね!」
嬉々とした女の声が突き刺さる。横を向くと桃色のドレスの女が立っていた。意気揚々とやって来て、ティアのことを罵倒し始めた。――兄弟を殺そうとした無情な仕打ち、母を見捨てた親不孝者、ロエンの優しさに漬け込む悪魔!
本来、貴族の娘は人前で誰かを愚弄するようなみっともない行為はしない。このような舞踏会の場であればなおさらだ。
けれどティアだけは別らしい。共通の敵だとでも言うのか、近くにいた男の集団も女に加勢した。
「高貴な場にお前のような罪人がいるなんて……」
「恥を知らぬ女だ」
「陛下もこんな奴、とっとと始末してしまえばいいものを!」
自分ではないと否定すれば彼らの熱は更に上昇した。
覚悟はしていても、実際に受ける言葉は凶器だ。
踊り終えて戻ってきた人の波に紛れ、その場を去る。背後から罵りを受けたが、群衆に交じってしまえば後を追うことも出来ないようだった。
「一曲いかがですか」
人目を避けるように壁沿いで佇んでいると、一風変わった服装の男が声を掛けてきた。またしても中傷かと身構えたが、どうやら外国からの賓客らしい。ティアのことを知らないのか、人のよさそうな顔で踊りを申し入れてきた。
パートナーもおらず、一人でいたティアを憐れんでくれたのかもしれない。その心遣いは有り難かったが、誘いに乗ればこの男の不名誉になるだろう。
ティアが慎んで断ろうとすると、男は穏やかな笑みを浮かべた。
「貴女が皆の噂に上っているのは存じています。きっとその美しさに嫉妬した人々のやっかみでしょう。無理もない。その濃紺のドレスも相まって、夜の女神に見えますよ」
「いえ、私は……」
「ご令嬢、どうか私と踊ってくださいませんか」
「おお、公爵様!」
慌てて男が駆け寄ってくる。彼はウィルノアでも有数の貴族の一人で、ティアも見覚えがあった。
「どうしたのですか」
「この女は大罪人です。本来このような場にいるのがおかしな人間なのです!」
「罪人?……ではこの女があの!……なんと恐ろしい!」
さっきまでの微笑はどこへやら、男はおぞましいものでも見たかのようにさっさとティアから離れて行った。
断り文句を探す手間が省けた、なんて自分を慰めていると、騒ぎを聞きつけたらしい人々がティアを囲むように立ちはだかり始めていた。
せっかくの舞踏会なのに、人を苛めるのがそんなに楽しいのだろうか。
ティアはまさしく見世物になっていた。
「近づいちゃダメよ、殺されてしまうわ!」
誰かが叫ぶと、周りがどっと沸いた。
遠くにいる人々も、ちらちらとこちらを窺っている。
気付けば会場中がティアに注目していた。
ティアは上座を見上げる。
長い脚を組んで豪華な椅子に座ったユリスが、杯を揺らしながら意地の悪そうな顔で笑っていた。美女が枝垂れかかった反対側には、険しい表情のロエンがつき従っている。
……この状況が、ユリスの思い描いていた図なんだわ。
「お飲み物はいかがですか」
城の侍女であろう女が、飲み物の入ったグラスを渡そうとしてきた。
嫌な予感がするも、一応受け取ろうとする。
しかしそれはティアの手には渡らず、見事に頭の上でひっくり返された。
「まあ、申し訳ありません!!」
申し訳なさなど微塵も感じていないだろうに、女は大げさなくらいに謝った。気にしないでと伝えても、わざとらしい泣き声を上げてその場から離れようとしない。
おかげで何故か、ティアの方が悪人の様な絵図が出来上がる。
それと合わせて、辺りの誹謗中傷もどんどん激しさを増していた。
くすくすと誰かが笑うと、全て自分への嘲笑のように聞こえた。
多くの人間と騎士がいるため、直接的な危害を加えようとする者がいないのがせめてもの救いだった。
時の流れは平等ではない。苦難の時間はこんなにも長く感じるのだから。
舞踏会が早く終わることを祈っていると、突如ティアを囲む人の一角が騒がしくなった。
ついに真打ちの登場かと思って最上段を見上げるが、ユリスもロエンも先ほどと位置は変わらない。人垣が割れるのを見て、ティアは思わず身構えた。
「これは何の騒ぎですか」
音楽隊の演奏や人々の喧騒の中、凛とした声が広間に響いた。決して大きくはないが、ティアの耳にもしっかり届いた。
そうして現れたのは、闇色のドレスに流れるような紅い髪が美しい、誰もが目を奪われるような女性であった。
ティアを罵倒していた者や遠巻きに見ていた者も、ティア自身でさえ、麗しい美姫を前にして言葉を失った。
しかし当の本人は周囲の反応を気にも留めず、真っ直ぐにティアの方へ歩みを進めてきた。伸びた背筋にシャープな顎、女性にしては高身長か。艶やかな赤い髪は、大輪の薔薇を連想させる。
そんな彼女が何故か、ティアの前で歩みを止めた。
「あの御方は……ガイナの皇女様だ!」
誰かが声を上げ、沈黙していた一帯が一気に活気づく。ティアも驚きを隠せず、目の前の女性を見つめた。皇女と呼ばれた女はティアから目線を外さなかった。
「アナスタシア様、そやつは大罪人です!近づいてはなりませぬ!」
先程と同様に、近くの貴族が叫んだ。どこからかヒステリックな女の悲鳴も聞こえる。
それでも皇女はティアをじっと見つめたままだった。
「早くお離れになってください!」
「……誰にモノを言っているの」
初めてティアから外された視線は、氷のように冷たく見えた。
慌てて頭を下げる貴族の男を見て、ティアもハッとしたように頭を下げる。
ガイナ帝国の皇族がウィルノアにやってくるなんて前代未聞だ。まさかティアに用があるわけでもあるまい。見世物の女に興味を持ったのだろうか。……だとすればユリスの思惑は想像以上の効果を発揮したことになる。この人は自分に、どんな芸を求めるんだろう。
深く頭を下げながら、纏まらぬ思考がぐるぐるとまわる。
先ほど被った酒が、髪から滴り落ちた。
「どうか、顔を上げて」
暖かい手が、頬に添えられる。
言葉に従い顔を上げると、優しい双眸がティアを迎えた。
「ずっと、ずっと貴女に会いたかった」
まるで懐かしむように言われ、ティアは大いに戸惑った。
これほどの美貌の持ち主だ、会ったことがあるなら忘れるはずはない。初対面の彼女にどうしてこんなことを言われるんだろう。
「皇女様、そんな女に触れられては……」
「そうですわ、穢れが移ってしまいます!」
「彼女が穢れているというなら、あなたたちは何になるのかしら。大勢で寄ってたかって……程度が知れるというものよ」
流石に身を弁えているのか、貴族達は皇女に反論しようとはしなかった。
「曇った眼では何も見えない。……彼女のように優しく、思いやりに溢れた人を私は他に知りません。どうですか、こんな国捨ててうちの兄に嫁ぎませんか? 貴女ならきっと兄も喜ぶでしょう」
周りのざわめきが、耳に入る。
――あの女が嫁ぐだって!? アナスタシア様の兄と言えば、あの第二皇子だぞ!
ティアは頭がくらくらするのを感じた。
ガイナ帝国の第二皇子は、次の皇帝候補との呼び声高い人物だ。
その妻になることを、自分は今持ちかけられているのだろうか。
助けを求めるように、ティアはロエンを探した。
しかしどこにも姿が見えない。玉座まで空になっていた
こんな時にどこへ行ってしまったんだろう。
迂闊な返事も出来ず、ティアはただ愛想笑いを返すのみにとどまる。
「ここではなんですし、静かな場所で話しましょう」
アナスタシアはティアの腕をしっかり握り、すたすたと歩き出した。彼女が進めば人々もさっと道を開ける。皇女は意外に力があって足も速い。ティアは転ばないように付いて行った。
会場を出ると、どこかに控えていたらしい皇女の護衛が一人、後ろに付いた。薄暗くてよく見えないが、ウィルノアの騎士ではないようだった。
どこへ向かっているのだろう。
声をかけるのを躊躇ううちに、アナスタシアは勝手知ったる様子でどんどん廊下を進んで行く。まだ舞踏会の真っ最中なので、すれ違う人もいない。
皇女は、会場から離れたある客室の前で足を止めた。扉を開け中に誰もいないことを確認すると、腕を引かれ連れ込まれる。彼女の豊満な胸に、濡れた頭が埋まった。
「ああ……! 会いたかった、会いたかったよティア!」
「こ、皇女……様……」
「もう、そんな呼び方やめてくれよ」
ぐりぐりと頭を押さえつけられ、非常に息苦しい。こんなに熱烈な抱擁は初めてだった。
「は、はな……し……」
「そうだな、たくさん話をしなければならない。そうだな、何から話そうか……」
「アナスタシア、彼女苦しんでるぞ。気持ちはわかるが放してやれって」
遠退きそうな意識の中、護衛の男の声がした。
助け舟を出してくれた彼に、ティアは心からの賛辞を送る。
「おっと、悪い悪い」
呼吸を正しながら皇女を見るが、反省しているようには見えなかった。
……それにしても、さっきまでとは随分と雰囲気が変わっている。まるで別人のようだ。
「皇女様のような御方が私に何のご用でしょうか」
「久しぶりに会ったのに、ティアはつれないんだな」
「……申し訳ありませんが、どこかでお会いしましたか?」
アナスタシアは大きな瞳を更に大きく広げた。
「まさか私のことを覚えていないのか……!?」
「あまりの変貌ぶりに気が付いてないだけじゃねーの」
話が見えず、ティアは首を捻った。
ガイナの皇女に、自分は会ったことがあるのだろうか。さっきも考えたが、全く覚えがない。
「ティア、心配したぞ」
強いまなざしに極上のワインのような紅い髪。自分を包み込む温かな腕。
記憶を探る。
古い記憶……幼少期、まだ王女だった頃。いや、ガイナの皇族には会っていない。
ならばいつだ? 6年前、国を逃れて、それから……
焔が揺らめく。
男が明かりをつけてくれたらしい。
暗い部屋が、おぼろげな紅に染まった。
――紅、赤?
知っている。覚えている。
強く、温かく、美しい。
最も苦しく、孤独な時期に、自分を支えてくれた大切な人。
「……まさか、アンナなの?」
ガイナ帝国の皇女は、大きく頷いた。
「そうだ。……遅くなってすまなかった。…………君を、迎えに来たんだ」




