舞踏会
アガレスの生誕祭――通称「秋祭り」は、例年以上の大きな賑わいをみせていた。
当日は天候にも恵まれ、天高く秋晴れの空が広がっていた。王宮から城下へ真っ直ぐに伸びる大通りの脇には、大小さまざまな露店が並んでいる。ウィルノアの国内にとどまらず、近隣諸国からも多くの行商人が王都に集っており、貴族街にそびえるロエンの邸宅までその喧騒が届くほどだった。
それとは対照的に、人の出払ったロエンの屋敷は静かなものだった。今日ばかりは使用人達も祭りに参加するため、外へ出ている。
ティアは一人、屋内に留まっていた。遠くからでも祭りの雰囲気を味わおうと、最上階の窓から外を眺めていた。
多くの人の頭が、大きな波となってうねって見える。つい先程の王族のパレードでは最高潮の盛り上がりに達し、その余韻は未だ濃く残っているようだった。
朝から人の足は途絶えることなく、夕焼けが顔を出しても人々は帰路に就こうとしなかった。
磨かれたガラスに反射した自分の顔が、強張っていることに気付く。口角を上げ、薄く微笑むと、ティアはそっと窓辺から離れた。
自室の寝台の上には、濃紺のイブニングドレスが広げられていた。前々からセバスチャンと相談し、今夜の舞踏会のために選んだ。絹で織られた生地は光の加減で淡く輝いている。ビーズであしらわれた複雑な模様は、職人が腕を揮ったものだ。
素敵な衣装に負けないよう、自身も美しく仕上げなければ、とティアは意気込んでいた。
途中、帰ってきた使用人たちの手を借り、全ての支度を終わらせた頃にはすっかり日が暮れていた。
夜会服らしく、袖が無ければ胸元や背中も大きく開いているので、肌寒さを感じる。背筋を伸ばし、頭を下げた。
「皆さんありがとう。行ってきます」
「いってらっしゃいませ!」
「変なやっかみなんか、気にしちゃダメですよー!」
「男は狼だから、気を付けてくださいね」
「ロエン様にもー!!」
最後の一言で、大きな笑いが起きる。
温かな使用人たちに見送られつつ、ティアは馬車に乗り込んだ。
王城の門をくぐり、馬車から降りる。
王宮前の広場には、到着したばかりの貴族達が、それぞれのパートナーと手を取り合って歩んでいた。穏やかな表情を浮かべていた彼らだったが、ティアの姿を認めると、その形相は驚嘆に変わっていった。
入場を待つ人々の列に加わる。女性は皆男性にエスコートされていたので、ティアだけが一人、隣に空白を作っていた。あちこちから嘲笑されているのが分かったが、気丈に前を向く。
だから背後から声を掛けられても、憎まれ口か何かだと思っていた。
それが違うと気付いたのは、3回目の名前が呼ばれた時だった。
「ティア様」
振り返ると、ロエンがいた。
いつもの鎧ではなく、白を基調とした騎士の正装を身に纏っている。肩から腰へ斜めにかけられた赤の懸賞は、隊長位にあることを示していた。胸にはいくつもの勲章が煌めいており、優れた功績を収めていることが一目で分かる。
ティアがロエンと会うのは数日ぶりだった。ここ最近は忙しく、屋敷にも戻っていなかったからだ。
「貴方、仕事は……?」
「隊長以上の者は、夜会に参加する権利が与えられますので。ご心配には及びません」
長い腕が差し伸べられる。まるで自分をエスコートせんと言わんばかりの格好だった。
6年前なら迷わず取れたその腕は、だが周囲の好奇と疑念の眼差しによって、掴むことが憚られた。
戸惑い、見上げると、仏頂面がそこにはあった。こんな表情を見るのも、案外久しぶりかもしれない。
「……いいのね」
「はい」
ティアがロエンの腕を取ると同じく、会場への扉が開けられた。動き始めた人の流れに乗って、ティアは微笑みを湛えて歩を進めた。
どれだけの国家予算を費やしたのだろうか。
大広間は眩しいくらいに豪華に飾り付けが施されていた。
更にそこに、国内外問わず多くの貴族や富豪が集まったのだから、大広間は外とはまるで別世界だった。
ティア達が入場した後に、各国の賓客達が紹介を受けながら上段の席に座った。
どこの国のどんな地位の人間が招待されているのか気になったが、人の壁に阻まれその姿を知ることは出来なかった。背の高いロエンは分かったかもしれないが、わざわざ訊ねることはしなかった。
ティアは結局、ロエンと二人、会場の隅で舞踏会の始まりを待つことにした。
しばらくすると、最上段に置かれた椅子の横に、一人の騎士が現れた。その姿を認めた人々は談笑を止め、広間を沈黙が支配していった。
騎士が国王の登場を告げると、玉座の奥から、ゆっくりとウィルノアの若き王が現れた。若い娘達からは、思わずため息が零れていた。
黄金の冠を頭に抱いたユリスは、堂々と佇んで眼下を見渡した。
その紫の双眸は、間違いなくティアを捕えた。大勢の中の一人に過ぎないが、ユリスは自分を見つけたのだと、ティアは思った。
目が合い、弟の笑みが深くなる。彼は何を思っているのだろう。
ユリスが簡単な挨拶と、国の祖たるアガレスへの感謝を述べると、宴が開始された。
すぐに音楽隊による演奏が始まり、広間の中心から人がはけていく。最初に踊る人は決められていたのだろう、美しい男女が中央に出て、踊り始めた。
「……素敵」
小さな独り言だったが、ロエンには聞こえたらしい。
「ティア様も踊りは得意だったのでは」
「そんなことないわ、もう忘れてしまったし……ロエンはどうなの?」
「あまりこういう場には顔を出しませんので」
そうだろうな、とティアは思った。
ロエンが踊る姿を想像すると、なかなかに滑稽だった。
つい笑いそうになると、ロエンが訝しげな眼差しを向けてきたので、慌てて近くに置かれた果物を手に取った。
「ほら見て、美味しそう!」
「…………」
誤魔化しきれていなかったが、口に含んだ葡萄は本当に甘くて美味しかった。ティアが実のみずみずしさを味わっていると、若い娘たちが近寄ってきた。
「こんばんは、ロエン様」
「このような場にいらっしゃるなんて珍しいですわね」
「もし良ければ、私と一緒に踊ってくださいませんか?」
彼女達の視界にティアは入っていないらしい。
成り行きを見守ろうとしたが、ロエンはあっさりと誘いを断っていた。
自分のことを気にかけてくれたのかどうかは分からないが、正直ホッとした。今は一人になりたくない。それに、女の子とロエンが踊るのはあまり見たくない光景だ。
ちらちら好奇の視線は感じつつも、ロエンが傍にいるお陰か、表立って罵ってくる輩はいなかった。壁の花と言うには目を惹きすぎる二人だったが、杯を片手にのんびりと談笑して過ごした。
夜会も中ごろになってくると、恥ずかしがったり気後れしていた人々も皆、自由に踊り始めていた。演奏は見事なもので、ティアも自然と身体が揺れていた。
それでもこれ以上悪目立ちしたくは無い。
とても素敵な舞踏会なのに踊れないことが、口惜しかった。
そんな姿を見かねたのか、ロエンがこっそり外へ連れ出してくれた。
休憩用の大きなものではなく、垂幕の裏に隠れた小さなバルコニーと言ったそこには誰もいなかった。漸く人目から解放され、張りつめていた緊張の糸が緩む。
「姫様、私と踊ってくださいませんか」
広間からは、明るい曲調の音楽が聞こえてくる。
「はい、よろこんで」
ティアは笑顔で、差し出された手を取った。
狭い空間なので、ティアは大きな動きは取らずに簡単なステップを踏んでいた。それでも十分に楽しい。
ロエンが踊り慣れないと言ったのは本当らしい。足を踏みこそしないものの、動きは固く、組み合わせた指には力が籠っていた。何でも卒なくこなすイメージがあったので、知らない一面を見れたようでティアは嬉しかった。
しばらくすると、緩やかなテンポの楽曲が流れ始めた。その頃にはロエンの身体からも余計な力が抜けていたので、ティアは彼に身を任せることにした。ゆっくりとロエンがリードし、ティアは心地よさを感じていた。
……まるで、世界に二人しかいないようだわ。
口には出さず、そんなことをティアは思った。
ロエンは何も言わなかったが、次の演奏が始まると脚の動きを止めた。密着した体勢は恋人同士のようだった。
「もう、良いのではないですか」
ティアの方は向かずに、ロエンが口を開いた。
「十分でしょう。陛下との約束は果たされた。……これ以上、ここにいる必要は無い。美しい貴女を、人目に触れさせたくもありません」
「あら、嬉しいことを言ってくれるのね」
「……私は本気です」
ムッとしたロエンと目が合い、ティアは声を上げて笑った。眉間に皺を寄せていたロエンもつられたのか、徐々に表情が崩れて行った。
「約束は、最後まで守ってこそのもの。母上と会えたのはユリスのお陰よ。私はまだ残るわ。中傷だって気にしない。私は何もしていないのだから」
「……そうですね、貴女がそう言うのなら。ならばせめて、もう一曲、」
「おっと、残念だけど、それは叶えられない願いだ」
突然の第三者の声に、ティアは酷く驚いた。ロエンはすぐさまティアを庇うように声の主と対峙した。
闇の中から現れた顔は、ティアも見覚えのあるものだった。
「貴方、あの時の……!」
「おや、王女様に覚えて頂いていたとは何たる光栄。いや、元王女でしたか」
ガイナ帝国の村に隠れ住んでいたティアを連れ出した、いつぞやの騎士隊長だった。ロエンとは違い、自前であろう燕尾服を着ている。襟を正しながら、一歩ずつ近づいてきた。
「随分と美しくなられて……見違えましたよ。やはり血は争えませんな」
男の目線からティアを隠すように、ロエンが間に立ちふさがった。
「何か御用ですか、ナイン卿」
「そう怖い顔はしないでくれ、ロエン殿。せっかくの同僚だろう。……それに、君ばかりが話題の令嬢を独り占めするなんて、少し狡いんじゃないかな。部下たちは頑張って働いているのに」
「隊長格には舞踏会へ出席する許可が陛下より賜れました。だから貴殿もここにおられる」
「その通り。しかしその陛下が君を呼んでいてね。ロエン隊長には直々に、国王護衛の任務が出されたそうだ」
背後からは、ロエンの顔は見えない。けれど、苦汁を飲んだような表情をしているだろうことを察する。
返事を返さないロエンに、ナイン卿と呼ばれた男は追い打ちをかけた。
「まさか聞けぬとは言えまい! 彼女のように、陛下に刃向かうと言うなら別だがね!」
ただでさえ、ティアと同伴したことで疑いの目を向けられているロエンだ。今ここでユリスの命に背けば、その疑念は決定的な物になる。
ティアは自分を庇う大きな背中を、優しく押した。
「いってらっしゃいませ、ご主人様」
「ティア様!」
「私のことはお気になさらず。……今夜は下女の願いを聞いてくださって、本当にありがとうございました」
そう言って頭を下げてもその場から動こうとしないロエンに、ティアは強気に微笑んで見せた。
――ロエンがいて、母がいて、屋敷の皆もいる。信じてくれる人がこんなにもいる。だから私は大丈夫。
そんな思いが伝わったのか、ロエンは小さく頷き、テラスから去って行った。
「……君達、本当はどっちが主従なんだい?」
ナイン卿は挑発するようににやりと笑う。
わざわざこの男と二人になる必要は無い。ティアは一礼すると、男の脇を通り過ぎ、大広間へ戻ることにした。