支え
フーリエとの面会はティアの予想よりも早く、公には秘密裏に遂行された。
ロエンの屋敷で短時間、見張りを付けるという条件で許可されたが、それでも随分寛大な処置だった。
母の到着を待つ間、ティアはそわそわと落ち着かなくて客間を歩き回った。何度もお茶を入れなおしたり、鏡を見て前髪を整えたり。黄色く染まった木々から何枚の葉が落ちるかを数えたりもした。
「ティア様、フーリエ様がご到着されました。」
外からロエンの声が聞こえ、ティアは歩みを止めた。
――どうやって出迎えよう。
実の母親なのに、ティアはひどく緊張していた。
ユリスとの対面の例もある。もし母まで自分を恨んでいたら、と不安が襲う。
しかしそんな杞憂は、あっという間に吹き飛ぶこととなった。
「あらティア、大人になったわねぇ。うん、私の若いころにそっくり!」
それが母の第一声だった。
拍子抜けして不安のタガが外れたのだろうか。ティアは母の腕に包まれ子どものように泣いた。嗚咽に交じって、「ごめんなさい」やら「会いたかった」やら、色んな感情をぶちまけている。
フーリエはそんな娘をよしよしとあやしていた。彼女の目尻にも、ちょっとだけ涙が乗っていた。
「辛かったわね、たくさん怖い目にもあったでしょう。よく頑張ったわ。」
「うん、でも私……私ね、ちゃんと生き延びたよ。約束、守ったの。」
「そうね、偉かったわね。……本当に、生きていてくれて良かった。」
フーリエは取り出した手巾でティアの涙をぬぐった。
「でもね、ここに呼んだのには理由があるのでしょう。貴女は貴女の目的を果たさなければなりませんよ。」
優しく微笑むフーリエに、ティアは頷いた。
「そう……あの日のことね。申し訳ないけれど、貴女達が知っている以上のことは何も……。」
ティア達3人は事件のことを振り返った。
フーリエ主催のお茶会に、ティアがユリスを誘った。
その席で、ティアが淹れたお茶を口にしたユリスが倒れた。直後の調査ではその茶に毒が混じっていたとされ、王女が拘束された。もちろんティアはそんなことはしていない。
「カップに元々毒が付着していたとか、」
「そのような記述は報告書にはありませんでした。」
ロエンが口を挟んだ。
けれど、その報告書にどこまで信憑性があるかはわからないのでは、とティアが言う。
「当時の騎士団長が先頭に立って捜査は行われました。彼の人柄はティア様もご存知でしょう。王女逃亡の責任を取る形で辞職されましたが、騎士道精神に則られた高潔な武人です。」
「私もそう思います。ユリス様は確かに、シオンの茶を飲んだ直後にお倒れになりました。私が目の前で見ていましたから。……ただ、貴女が意図していないなら、毒の入った茶を誰が飲むかは分からなかった、ということになります。」
「と言うと……」
「あの時ティアは3つのカップを盆に載せて持って来たでしょう。そのどれをユリス様に渡すかは、ティアにしか決められなかった。どれも同じ種類の物でしたから。」
確かにその通りだった。ティアは偶然、その毒入りの茶をユリスに渡してしまったことになる。
「しかしティア様を邪魔だと考える連中にとっては、誰に毒が渡っても好都合だったとも言えます。」
ティアが死ねば邪魔者は消え、フーリエなら後ろ盾を一つ失くすことになる。ユリスの場合は現状を考えれば明らかだった。
ティアは目を伏せ、過去の記憶を呼び起こす。
淹れた茶に目を配っていたわけではなく、毒味もしていない。ティアの知らぬ間に誰かが毒を混入させることは十分に可能だろう。しかし王女を貶めたい輩が、王子が死ぬかもしれない可能性を残すものだろうか。あまりに詰めが甘過ぎはしないか?
それに結局、騒動のせいでティアはシオンの茶を飲んではいない。フーリエは口をつけていたようなので、毒はやはりユリスのものにだけ含まれていたらしい。
フーリエの話では、茶葉の入手もおかしな点は無く、普段と同様に正規のルートで入手したという。
何の進展も見込めず、3人の間に重い空気が立ち込め始めた。
「ユリス様はどうしていらっしゃるの? 真実をお伝えすれば、きっと信じて下さるのでは?」
フーリエは場を明るくしようとにこやかな口調で言葉を発したが、余計にティアを暗くさせてしまった。
可愛い弟の見事な変貌ぶりをどう伝えるべきか。
結局言葉に出来ず、ティアは首を横に振った。
娘の言わんとすることを感じ取ったらしい母は、何かを思案した後、そっと語りかけた。
「貴女はユリス様のことをどう思っているの?」
「あの子は変わってしまったわ。もう、私を信じてはくれない。」
「……人は変わるし、成長もする。けれど一番奥の、大切なところはそう簡単には変わらないんじゃないかしら。」
母は真っ直ぐに、曇りのない眩しさを持ってティアを見つめた。
「あの御方の傍にいたのは、他の誰でもない……貴女よ。」
見張りの騎士が、面会の終了を知らせる。
幸せな時間はあっという間に過ぎ去り、ティアには酷く短く感じられた。それはフーリエも同じだったようで、別れの抱擁には力がこもっていた。
「頑張りなさい。私はずっと貴女の味方ですからね。」
「はい、母上。」
惜しみつつも身体が離れる。
フーリエはロエンに向き直った。
「ロエン、貴方にも礼を言います。娘を守ってくれてありがとう。」
「いえ、私は…………。」
「分かっています。それでも、貴方をティアの護衛に選んで良かったと思っているの。……これからも、この子のことを頼みます。」
「はい。」
騎士に連れられ、フーリエは扉へと向かう。
次はいつ会えるんだろう。
会えた喜びが大きい分、別れる寂しさも一入だった。泣きたくなるのをぐっと堪え、笑顔で見送る。
そんな時。
そういえば、と言わんばかりの表情でフーリエが振り返った。
「お母さんは反対しませんからね。でも、きちんと挨拶には来なさい。」
何のことかと困惑を浮かべるティアの隣で、ロエンはしっかりと頷いた。
自分だけ除け者にされているようで、ティアは面白くなかった。
「ティア、そんな顔しないの。……また、必ずまた、会いましょう。」
そう言うと、今度こそ本当にフーリエは去って行った。
部屋に残された二人。
主人は従者を問い詰めたが、男は目を泳がせるばかりで何も答えてはくれなかった。
生誕祭まであと数日となった日の昼過ぎ。
ティアは相変わらず使用人として、ロエンの屋敷で雑用をこなしていた。濡れた布巾で窓を拭く。ここで働く使用人は皆仕事熱心で、ティアが磨いている窓も掃除の必要が無い位にピカピカに輝いていた。それでも何枚もの大きなガラスを拭けば、白い布は灰色に汚れる。手桶に貯めた水も同様だ。そろそろ替えに行こうと腰を上げると、赤い頭が馬に乗って門をくぐるのが目に入った。
ロエンから聞いた話では、6年前のティアの逃亡にはグレンも関与していたという。
礼を言うため、桶を手にティアは外へ出た。
「グレン!」
ティアが声を掛けると、グレンは俯いていた頭を上げ、パッと明るい表情になった。緑の芝を踏んで駆け寄ってくる。微妙に足下が覚束無いように見えるのは気のせいだろうか。心なしか、身なりもいつもよりくたびれて見えた。
「やあ、ティアちゃん。今日もよく働いてるねー感心感心。」
「貴方の方こそ、まるで徹夜明けみたいに見えるわよ。疲れているんじゃない?」
そう言うと、グレンは目を潤ませながらティアの手を取った。感激したようにその腕をぶんぶん振っている。
慌てて桶を置いたので、跳ねた水滴が足にかかって冷たかった。
「でしょ! 俺すっごく疲れてるの! もう何日もまともに寝てないの! 気にかけてくれたのティアちゃんが初めてだよ!」
「それは大変ね……。体調を崩す前に休んだ方がいいわよ。」
目の前の男の顔をよく見ると、睡眠不足の為か目は充血気味で、その下には濃い隈ができていた。無精ひげまで伸びている。
「休みたいのは山々なんだけどね……厳しい上司を持つとその下は大変なんすよ。」
「ロエンはそんな無茶をさせているの? 私から言っておきましょうか?」
ロエンは真面目で勤勉、騎士の鏡とも言える実直な男なので、部下にも妥協を許さなさそうだ、とティアは思った。だからこそグレンも苦労しているのだろう、と。
しかし、すぐさまティアの提案に飛びつくと思われたグレンは、難しい顔をして頭を掻いた。
「いやぁ、こればっかりはお仕事なんで仕方無いかな。」
辛酸をなめたようなその表情は、まさに気苦労の絶えない中間管理職だった。
グレンの意外な一面を見たようで、ティアは目を瞬かせた。
「お仕事中の貴方に声を掛けて……私、邪魔をしてしまったわね。ごめんなさい。」
「いやいや、そんなことないって! ティアちゃんの優しさで疲れが吹っ飛んだよ。ありがとな!」
「ううん。こちらこそ……本当にありがとう。」
きちんとした礼は、また今度することにしよう。
ティアが深く頭を下げると、グレンは訳が分からなかったのか、頭に疑問符を浮かべていた。
「生誕祭、出るんだって? 俺、仕事があるから一緒に踊れないのが残念だけど……どっかでティアちゃん見てるからさ、楽しみにしてるよ!」
グレンはロエンに渡す書簡をティアに託した。
頑張れよ、と励ましの言葉をかけて、来た時と同じように馬に乗って駆けて行った。