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移ろい

少しだけ痛い表現があります。苦手な方はお気を付け下さい。

 忠誠の誓いを終えてから、どれくらいの時間が経過しただろうか。流石に日が暮れる程ではないが、熱いお茶が程よく冷めるくらいは経っただろう、とティアは思う。

 こちらに旋毛(つむじ)を向けたまま微動だにしない男に、どう声を掛けるべきなのか。手の甲にはロエンの唇が触れたままでくすぐったい。……もう離してくれていいのだけど、許すと言ったのが聞こえなかったのだろうか。それとも、こういうのは主人から終わらせるべきなのだろうか。

 ためしに少し引いてみようとすると、ロエンがぽつりと言葉を漏らした。


「ティア様。」

「何?」


 硬い声だった。頭は下がったままだ。


「騎士に忍耐は必要だと思われますか。」

「そうね、ある程度は必要なんじゃないかしら。」

「ある程度とは具体的にどれくらいですか。」

「それは人によると思うけれど……。ねえ、もう離していいのよ?」


 困ったように言うと、何拍か置いてやっとその顔が上げられた。何かを決心したような、すっきりと爽やかな表情をしている。

 しかしティアは不穏な空気を感じ取った。こういう勘は必ず当たる。自然と腰が引けた。


「主従の分別が必要なのは理解しています。だが、私はもう後悔したくない。」


 ロエンはティアの手首を掴んだまま、追い詰めるようにゆっくりと近づいて来た。


「6年前、貴女と逃げなかった自分を呪いはしても、悔いてはいません。けれどただ一つ、後悔していることがある。」


 正面から長い腕が伸びてきて、ティアの頬に指が這った。慌てて厚い胸板を押し返そうとするが、全く効果は無い。無力だ。そのまま椅子に押し倒され、のしかかられたような格好になった。


「ちょっとロエン、」

「それは貴女に想いを伝えなかったことだ。あの頃は主従の枠を超えてはならないと自身を戒めておりました。しかし、もう閉じ込めてはおけないほどに膨れ上がってしまったのです。」


 先ほどの誓いは何だったのか、大混乱の中ティアは考える。

 あれは主従の忠誠の誓いだった。そのつもりで結んだ契約だ。なのにこの男、さっそく破ろうとしている。……ロエン、大丈夫かしら?


 しかし人の心配をしている段ではなかった。

 そうこう考えているうちに、二人の距離は互いの吐息が触れる位に狭まってしまったのだから。

 

 自室で抵抗しなかった自分は本当にどうかしていたんだろう、とティアは思う。頭がおかしくなっていたとしか考えられない。今は元の関係に戻れただけで胸がいっぱいなのに、その先に進んだら色々な物が吹き飛んでしまいそうだ。

 ティアは外聞も気にせず足をばたつかせたが、その間にロエンの足が割り込んでくる始末となった。


「駄目よ、ロエン。」

「本当に嫌でしたら、抵抗して下さい。」


 ――既にやってるわよ……!!

 ティアの必死の足掻きは、ロエンには抵抗とは捉えられていないらしい。


 黒い睫毛で縁取られた瞳が、そろりと閉じられる。


「ティア様――」




「あ、痛い痛い痛―い!! すっごく痛い! 膝の傷が痛むわ!!」


「だ、大丈夫ですか!?」


 失笑モノの棒読みだったが、ティアが叫ぶとロエンはすぐに組み敷いた身体から離れた。ものすごく心配そうな顔で見つめられる。騙してしまって微妙に良心が痛むが、この場合は仕方が無い。全部ロエンが悪い。

 ロエンはすっかり騙されてくれたようなので、調子に乗ったティアは乗っかることにした。


「大丈夫じゃないわ。これは今すぐ安静にする必要があると思うの!」

「そうですか……。」


 では、と言ってロエンがまた横抱きにしようとするので、ティアは椅子にしがみ付いた。

 そうじゃない。全然分かってない。


「自分で歩けます!」

「ですが、」

「歩きたいの!」


 ティアは色々と方便を並べ状況を脱しようとしたが、ロエンもそれにいちいち反論した。長時間の口論の末、仕舞いにはティアは息切れを起こした。ロエンは涼しい顔をしていた。


「き、傷薬でも塗っておけば、治るから……!」

「綺麗な肌に痕が残ったらどうされるのです。傷の手当てには慣れております故、私にお任せください。」


 いつまでも平行線を辿りそうだったので、ティアはしぶしぶ頷いた。手当ぐらいならロエンもまともにやってくれるだろう、と思って。




 椅子に座って待っていると、ロエンが薬箱を取って来てくれた。箱から瓶や包帯を取り出している。


「膝を出して下さい。」


 おずおずとスカートの裾を上げる。自ら足を出すという行為は、想像以上の羞恥心を伴った。

 濡らした清潔な布で傷口を拭かれ、柔らかな脱脂綿を押し当てられる。


「……っ!!」


 薬が傷に沁みて、声にならない声が出た。心なしかロエンの口元が歪んでいる気がする。

 ……気がするだけであって、きっと違う。違うんだ。これは自分の視界が涙で歪んでいるせいだ。

 ティアは自分に言い聞かせた。


「沁みますよ。」


 更に脱脂綿をぽんぽんと当てられ、ティアは悶絶した。痛みに耐えようと手に力が入る。

 傷の手当ってこんなに痛むものだったかしら、と訝しみながらロエンを睨んだ。


「痛みますか?」

「とってもね!」

「雑菌が入っている証拠ですよ。……もしお望みなら、痛みの少ない方法もありますよ。」


 ろくな方法じゃない気がするが、聞くだけ聞いてみることにした。


「私が直接傷を癒すのです。」

「……どういうこと?」

「古来より人間の唾液には殺菌作用と言うものが含まれており、」

「是非このままでお願いします!!」


 残念ですね、とロエンが呟く。

 ティアは心の中で盛大に叫んだ。――何が残念なのよ!

 ロエンが何度も傷を叩くので、その台詞が咽喉から出てくることは無かった。ふわふわな脱脂綿は今や凶器と化していた。


「終わりましたよ。」


 地獄のような責め苦をなんとか堪えきったらしい。

 ティアは安堵の息をついた。一応手当ての礼を伝える。


 すると、ロエンが不思議なものでも見るような目でティアを見つめた。変なことを言ったつもりはないので、ティアの方が首を傾げる。


「何をおっしゃっているのですか。まだ反対側が残っているではありませんか。」

「え、」

「こちらの方が傷が深いですからね。しっかり消毒しなければ。」


 さあ我慢してくださいね。

 そう言ったロエンは、今度こそ本当に口元が弧を描いていた。


 ――この人には逆らえないかも。

 逆転した主従関係は元に戻ったのに、全然変わった気がしなかった。


 主人に十分な仕返しをしたらしい従者は、晴れ渡った表情を浮かべていた。







 それからは日々、ティアの無実を明かすための証拠探しが始まった。

 とは言うものの、ティアは表立った行動は出来ないので、これまで通りロエンが騎士団の任務と並行して捜査を行っていた。ティアは時折ユリスから呼び出しがあり、こっそり政務を手伝わされたりはしたが、それ以外は屋敷で侍女として働いていた。


 けれど変わったこともある。

 主従一緒の夕食は団欒の時間へと変化した。ティアはよく笑うようになり、ロエンは相変わらずの無愛想だったが、些細な表情の変化が読み取れるようになってきた、とティアは思っていた。

 妙に絡んでくる時もあったが段々あしらい方を覚え、適切な距離を保てるようになった。

 そんな二人を使用人達は影で「新婚」と呼んでいたが、ティアの耳には届かなかった。屋敷の主人は知ってか知らずか、その話題を放置していた。セバスチャンは毎日小躍りをしていた。




 暑い夏も終わりを迎え、夜には涼しさを感じられるようになった頃。

 ティアは飲み物片手にロエンの書斎を訪れていた。夕食後も雑務をこなす彼の為に、ささやかな労いのつもりだった。


「ご苦労様。」

「お手を煩わせてしまい申し訳ありません。」


 机案の向こうのロエンが立ち上がろうとしたので、作業を続けるように促す。ティアはすぐに退出するつもりだった。


「……申し訳ありません。」


 その謝罪は、さっきとは別のことを指しているのだろう。

 ロエンは机案に肘をつき、額に手をついていた。

 机案の上に広げられた書類を見れば、騎士団の報告書の間に事件の記録が書かれた文書が紛れ込んでいた。


「いいのよ。……貴方は6年間も、こんな思いを一人で抱えていたのね。私の方こそ心苦しく思うわ。」

「そのようなことは……。情けないばかりです。せめて当時の参考人に話を聞ければ、何か得られるかもしれませんが。」


 ティアが知っていること、覚えていることは全て話し終えていた。あの日現場にいた侍女の大半は行方不明で、所在が分かっている者もティア以上のことは何も知らなかった。ユリスは絶対に語りたがらないだろうし、他に残された人物と言えばフーリエしかいなかった。しかしそれを訊ねるのは、ティアにはひどく躊躇われた。

 ――もし、もしも……。


 けれど還ると約束した。だからティアは、覚悟を決めて聞くことにした。


「母上は……母上はどうなってしまったの?」

「……分かりません。表向きには処刑されたことになっています。ご実家のカークランド家も侯爵位をはく奪されました。……ただ、実際に処刑された記録はありません。」

「それって、」

「希望的観測ですが、ともすればどこかで生きていらっしゃることもあり得ましょう。」


 真相を知っているとすれば前国王の父か、現国王のユリスしかいない。

 ティアとロエンはそう結論付けた。




 数日後。

 ティアはまたしてもユリスに呼び出しを受け、国王の雑務を手伝っていた。

 ロエンに指摘されてから、ティアは以前よりもずっと仕事に精を出していた。どんな些細な案件でも熱心に取り組む。そのおかげかは分からないが、いつも山のように積まれていた書簡は、丘ぐらいの低さまで下がっていた。

 ユリスも最近は少し機嫌が良いらしく、罵詈雑言が飛んでくる回数が減っていた。


 だからティアは、思い切って母親のことを聞いてみようと思った。また痛い目に合うかもしれないが、前に進むと決めたから。


「陛下、お願いがあるのですが……。」

「なんだ……聞くだけ聞いてやる。」


 ごくり。唾を飲み込む。


「母上の、私の母のことを教えていただけませんか。」

「…………。」


 ユリスはペンを走らせる手を止め、沈黙した。

 怒ってしまったのだろうか。

 緊張して嫌な汗が背中を流れた。


 しかし返ってきたのは罵倒ではなかった。


「会いたいのか。」

「……生きて、いらっしゃるのですか?」

「会いたいのか、と聞いている。」

「は、はい!」

「……確かにお前の母親は生きている。会いたいと言うなら考えてやってもいい。」


 ティアの心臓が波打つ。

 母は生きている。しかも会わせてくれるらしい!

 これが本当にあのユリスか、と穴が空きそうな程しげしげと見つめる。


「だが条件がある。まだ先だが、アガレスの生誕祭があるだろう。」


 アガレスの生誕祭――ウィルノア建国の父、アガレスの誕生を祝して毎年秋に開催される大きな祭事だ。近年では、秋の実りに感謝する収穫祭的な意味合いの方が強くなり、多くの人が単に「秋祭り」と呼んでいる。

 午前のパレードでは王族が民の前に顔を出す。諸外国からの賓客も招く、ウィルノア最大の祭りと言っても過言ではない。


「夜の舞踏会にお前も参加しろ。」

「しかし私は、」

「もちろん王族としてじゃない。……お前の役割は見世物さ。退屈な夜会だ。どうせなら余興があった方が良いだろう。」


 やはりユリスはユリスだった。

 王宮で侍女として働いた一週間を思い出せば、貴族達がティアにどんな態度を取るかは目に見えている。


「お言葉ですが、私がそのような高貴な場にいれば、他国の使者が陛下のことをどう思われるか……」

「別に囚人服を着せて本当に見世物にするわけじゃない。好きなだけ着飾ってこい。もしかしたら、お前のことを気にいる物好きもいるかもしれないぞ。そしたら友好な国交関係のために役に立ってもらうさ。」


 そうなれば、ウィルノアの姓をつけることだけは許してやるよ。

 ユリスはそう言って、挑発するようにニヤリと笑った。


「どうする? 僕が強制するのは簡単だが、命令はしない。お前に自ら晒し者になる勇気はあるか?」

「出席します……母に会わせて頂けるのなら。」


 深く頭を下げて感謝の意を伝える。


 見世物になるのも酷い仕打ちを受けるのも、今のティアには然程恐ろしくなかった。

 ――自分には目的があり、支えてくれる人もいる。

 それはティアを、ずっとずっと強くした。


 ユリスは舌打ちをする代わりに、羽ペンを持つ手に力を込めた。ティアが退室すると、嫌な音を立てて羽根が折れた。




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