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甘い毒

 雨足はどんどん強まり、身体を打つ水滴が痛い程だった。ずぶ濡れになりながら、主従の2人は屋敷への道を急ぐ。

 途中でロエンから馬車を拾うことを提案されたが、ティアはそれを断った。雨具を買おうと言われた時も、自分の分は必要無いと拒んだ。自分は放って先に帰るよう伝えるも、ティアを一人にはできないと言う。ティアが大罪人であることを考えればその主張は尤もだった。

 ロエンに迷惑をかけている、とティアは心苦しく思う。自ら主人を煩わせるなんて侍女の風上にも置けない。けれどどこかで、もっと困らせてしまえば良いと思う自分もいる。ティアはそんな自分の醜さに辟易とした。


「ティア様、やはり傘を、」

「いりません。」

「ですが風邪を引かれてしまいます。」

「私は大丈夫です。」


 きっと親切で言ってくれている。これらの言葉に裏は無いんだろう。分かっている。それでもティアは、ロエンの差し出すものを受け取りたくなかった。彼に何かを与えられるのはもう嫌だった。


「でしたら、その荷物は私が持ちましょう。」


 腕が伸ばされる。


「これは、」


 色鮮やかなタルトが入った紙箱は、雨に濡れてすっかり色が変わってしまった。走って揺れて、美味しそうだったそれはもう形が崩れているだろう。果実は落ち、クリームは飛び出て、見る影もない程グチャグチャに。


「これは、……私が持ちます。」


 大切に抱える。顔を近づければ、甘い香りだけはまだ残っていた。


 ――これで最後だ、とティアは思う。ロエンに何かを貰うのは、これで最後にする。

 ロエンのことは嫌いだ。憎いとさえ思ったこともある。世間一般ではティアの方が悪で、ロエンは何も悪いことはしていない。彼は騎士の本分に則り、国王の命に従ったまでだ。

 けれどぼろぼろのティアに、ロエンは沢山のものを与えようとする。いらないと突っ撥ねても突き出してくる。優しい振りをする。優しくされると、恨みたいのに恨めなくなる。だから逃げて、否定した。その優しさが本物のようで、幻想を抱きそうになるから。何もかも失って、やっと1人で生きていけるようになった。……なのに貴方は手を差し伸べてくる。優しくて甘いその手を。1番望んだ時に差し出してくれなかった、その手を。

 優しくされるのは嬉しいけど、やるせなくなる。甘くて苦みを伴う。だからいらない、1人でいい。その手はいらない。何も貰わない。あの頃の思い出と、このお菓子だけ。これだけあれば前へ進める。

 ――これで最後にする。だから、これだけは持たせて欲しい。




 2人は並んで駆けた。城下町からは離れ、貴族街。ここまで来れば屋敷もすぐそこだった。ティアはじれったさから、一気に速度を上げて角を曲がる。足の速さでロエンを突き放せるわけはないのに、早く離れたかった。


「っティア様!」


 馬の嘶きとロエンの叫びが重なる。濡れた地面に足を取られ、ロエンの伸ばした腕はあと少し、ティアに届かなかった。


「危ないぞ! 何を考えているんだ!」


 馬車を引いた御者に怒鳴りつけられる。ティアは馬車に轢かれこそしなかったが、派手に転倒していた。両腕で箱を抱えていたので手もつけず、綺麗に着飾らせてもらった服は泥水で汚れてしまった。

 飛び出したのはティアだった。立ち上がって深く頭を下げる。情けなかった。どんなに走っても追いつかれ、障害にぶつかり、大切なものを壊してしまう。

 御者は舌打ちをしたが、急いでいたのかすぐに去って行った。


「ティア様、申し訳ありません。」

「こちらこそご迷惑をおかけして申し訳ありません。屋敷もすぐそこですから、急ぎましょう。」


 非があるのはティアの方なのに、ロエンに謝られると惨めな気持ちになった。

 歩こうとすると膝が痛んだ。見ると赤い血が滲んで流れている。しかしティアは痛みを堪え、前へと足を進めた。


「御怪我を、」

「これ位平気です。」

「そうはいきません。」


 ロエンはティアの背中に腕を添えて横抱きにした。身体の浮遊を感じたティアは、慌てて離れようとする。不安定な姿勢よりも、ぐらぐら揺れる自分の心が恐ろしかった。


「お、降ろして!」


 暴れるティアを物ともせず、ロエンは歩き出した。逃れようとすればする程腕に込められた力が強まり、引き寄せられる。すぐ横にあるロエンの顔は、相変わらず何を考えているのか分からなかった。


「……やめてよ、離して。」


 紙箱はつぶれていた。まだ甘い匂いがする。

 逞しい胸に、縋りたくなる。――素直になれば? 誰かが囁く。――またあの絶望を味わいたいの? 理性が止める。いや、そんなのは嫌。もうあんな、胸が引き裂かれるような想いはしたくない。


 じんわりとロエンの体温が伝わる。いつか振り払われるその腕を、握りたくなる。甘い誘惑に、浸ってしまいたくなる。

 ティアは男の名を、声を出さずに呼んだ。それに彼が気付いていたかどうかは、分からなかった。







 無人の屋敷は静かだった。全身びっしょり濡れていて、滴り落ちた水滴が毛足の長い絨毯を染める。

 ティアは玄関で降ろすように願い出たが、受け入れられなかった。無人の廊下を突き進み、ティアの部屋まで辿り着くとそのまま寝台に横たえられる。ロエンはティアの頭の両側に手をついた。額に張り付いた髪が煩わしいのか、前髪を掻き上げる仕草を取った。


「寝台が濡れてしまいます。」


 ぽつりと言葉を漏らしても、ロエンは何も言わない。黒い瞳が真っ直ぐにティアを見下ろしていた。濡れた髪から滴り落ちた雫が、ティアの頬に落ちた。目の近くだったので、反射的に瞳を閉じる。

 次の瞬間にはもう、大きな身体に覆われていた。近づく顔と唇。顔を背けたのはどちらか、唇ではなく、頬と頬が重なった。長時間雨に打たれ、冷え切っている。身に纏った衣服は濡れ、その意味を成さない程身体の線に沿っていて、まるで肌と肌が密着しているような感じがした。どちらも身動きを取らず、そのままひとつに溶け合ってしまいそうだと、ティアは思った。触れあっている部分が熱い。お互いの心音が伝わる。


 どれくらいの時間が経ったのか、そうしてしばらく重なっていた後、ゆっくりとロエンが起き上がった。背中に敷かれたシーツを持ち、それでティアの身体を包む。


「ロエン、」

「ティア様、」


 互いの名を口にしたのは同時だった。1拍置いて、ロエンは非礼を詫びた。


 ――疲れてしまった。もう、このまま堕ちてしまおうか。

 男の黒い瞳に映った自分の顔が抜け殻みたいで、ティアは自嘲した。笑いが零れてくる。そんなティアに手を伸ばしかけて、ロエンは動きを止めた。その頬を流れるのが、今度こそ本当に涙だったから。だんだんと笑い声が嗚咽に変わる。


「…………っなんで、どうして!」


 握り締めた拳で、ティアはロエンの胸板を叩いた。辛くて苦しい想いを込めて、何度も何度も。ロエンはビクともしなかったが、ティアを止めようとはしなかった。全てを受け入れるように、ただ沈黙していた。


「どうして優しくするの! 放っておいてよ! どうせまた、私から離れて行くんでしょう!」


 白いシャツは透け、ティアが叩いた箇所は赤みを帯びていた。人を殴るなんて初めてで、自分の拳も赤くなっている。もう手に力が入らなくて、殴った手がそのままずるずると滑り落ちた。ティアは倒れるように、ロエンの胸に頭をぶつける。縋っているようにも見えた。


「どうして、私を裏切ったの……ロエン…………。」


 震える肩を抱きしめることも出来ず、ロエンは絞り出すように声を出した。


「……申し訳ありません。」

「私を守るって言った、あれも嘘だったんでしょう。」

「いいえ、そうではありません。」

「あの忠誠を、信じていたのに……!」

「いいえ、違うのです。……私の主君は永遠に貴女だけだ。」


 剣を向けておいて、よくもそんなことが言える! ティアは怒りで顔を染める。


 目の前の男の頬を打とうと手を振り上げた。……けれど、下ろせなかった。

 ロエンの瞳があまりに真っ直ぐに自分を見ていたから。

 大切な人を見るように、主君を見るように、――愛しい人を見るように。


「私は確かに貴女を裏切り、そして傷つけた。許してくれとは言いません。この場で命を断てと言うなら従いましょう。ですが私は、貴女の騎士で在りたかった。それだけは嘘偽りの無い真実なのです。」

「何を馬鹿なことを、」

「……私は臆病だった。だからあの時のことを語るのを避けてきました。しかしそれが、余計に貴女を苦しめてしまった。」


 もしも望まれるなら全てをお話します。そう言ったロエンに、ティアは戸惑いつつも頷いた。どんなに酷い事実が隠されていたとしても、裏切りの理由を、この男の心を知りたいと思った。信じた男が、なぜ、自分を見捨てたのか。本当は怖い。耳を塞ぎたい。けれどいつか誰かから知らされるのではなく、本人の口から聞きたいと思った。





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