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虚無

 悪魔か魔王でも背負ったような威圧感を発する主人に捕らえられ、侍女は顔からすーっと血の気が引いた。体格差もあり、このまま捻りつぶされてしまいそうだ。


「随分とお早いお帰りですね。夕方頃のご帰宅だと聞いておりました。」

「ええ、貴女に会いたくて一人早く馬を駆けさせたので。それなのに部屋を覗くともぬけの空で……ティア様は朝帰りですか?」

「まあ、侍女の部屋を覗くなんて変わっていらっしゃいますのね。いけませんわ。」

「話を逸らそうとしても無駄ですよ。」


 ほほほ、と乾いた笑いが漏れる。

 ロエンがどれ位事情を知っているか分からず、ユリスとのことを話しても良いのかティアには判断がつかなかった。それに話したところで状況が好転する気もしない。とにかく早く離れよう。仕事をしよう。


「私、仕事がありますので、」

「全員に休みを出しました。貴女もですよ。」


 全然嬉しくなかった。

 他に誰かいないのか、頭は動かさず目線だけを彷徨わせると、奥の柱の影にセバスチャンがいた。目が合うとグッと親指を立てられる。どういう意味なのか分からないが、主人至上主義の彼が助けてくれるとも思えない。

 逃げようとするティアの両肩にがっしりと腕を置いたロエンは、髪のあたりに鼻を近づけてきた。


「……誰の匂いですか。貴女とは違う人間の香りが、」


 ボッとティアの顔が燃え上がった。昨日は仕事を終えてそのままユリスと就寝したから、入浴していないのだ。季節は夏、午前中は汗水垂らして働き、夜は寝汗までかいた。屋敷に帰ってくるまでも全速力で走ってきた。今の自分は絶対臭い。羞恥心がティアを襲う。


「やめて下さい! 私まだ、お、お、おふ、お風呂に入っていなくて……!!」

「風呂? まさか、本当に誰かと一夜を共に……!?」

「もう!! 変な勘違いも程ほどにして!!」


 耳元で大声を上げると、一瞬ロエンが怯んだ。その隙に腕を抜け、逃亡し、一目散に浴室に駆け込んだ。




 ティアはいつもより入念に身体を洗い、浴室を出た。

 すると途端に同僚の侍女達に囲まれる。休暇を出されたためか皆私服を着ているが、様々な道具を手にしている。正面の侍女の鋏がキラリと光り、ティアは王宮での嫌がらせの数々を思い起こした。まさかここでも虐げられるのかと及び腰になるティアを、背後の侍女がタオルで覆い、そのままどこかへ連行して行った。


 そして身包みをはがされ、着せ替え人形と化し、大きな鏡の前に座らされたティアは現在、伸びきった髪を先ほどの鋏で整えられていた。じゃきじゃきとよく切れる音がする。多少強引だが賓客でも扱うような手つきだった。


「皆さん今日は休暇のはずでは……?」

「はい。ですがご主人様とお出かけになられると聞いて、いてもたってもいられず、ティア様のお手伝いをさせて頂こうと思いまして。」


 ね、と言わんばかりに互いに微笑みあう同僚たちを鏡越しに見て、ティアはますます混乱した。そもそもご主人様とお出かけとはなんだ。全然聞いていない。

 そうこうしているうちに整髪が終わり、薄く化粧も施され、ティアはすっかりいいところのお嬢さんへと変身していた。決して華美ではないが、薄い空色のワンピースが髪色とよく馴染んでいる。事情はよく読み込めていないが、鏡に映る姿を見るのはまんざらでもなかった。


 背中を押され部屋を出ると、ロエンが壁に背中を預けて待っていた。


「よくお似合いです。」

「……ありがとうございます。」


 改まってじろじろと見られるのは恥ずかしい。俯きがちにスカートの裾を握り締めてしまう。しかし皺になってはいけないと思い、すぐにその手を外した。ロエンの顔は見られなかった。


「これから出かけます。」

「いってらっしゃいませ。」

「貴女もです。」


 やっぱりそうですか、とは言えず。差し出された腕は取らず、玄関への道を歩いた。







 着いた先は、多くの人々で賑わう城下町だった。通りの両脇には店が立ち並び、店員が呼び込みをしている所もある。果実を売る店の隣に衣服の仕立て屋があったり、何か食べ物を焼いているすぐ横に雑貨屋があったりと、沢山のものが入り乱れている。

 所謂「庶民」の生活には慣れたつもりだが、ティアは落ち着かなかった。ウィルノアの城下を再び歩ける日が来るとは思っていなかった。というか、こんなに堂々としていていいのだろうか。


 路地から大通りに出る所で、ティアは立ち止った。一歩先にいたロエンが振り返る。


「あの、私の身分をお忘れではありませんか?色々と、正体がばれては不味いと思うんですが。」

「そうですね、失念していました。……少し、そこで待っていて下さいますか。すぐに戻ってまいりますので。」


 そう言い残すと、ロエンはどこかへ去って行ってしまった。この間にティアが逃げるとは考えないのだろうか。

 太陽の光を避けるように2、3歩下がり、影の中から大通りを眺める。暑くて汗をかいている人もいたが、行き交う人々は皆明るい表情をしていた。振り仰ぐとそこにあるのは真っ青な空、遠くには白い入道雲が浮かんでいる。今は良い天気だが、午後は雨が降るかもしれない。生ぬるい風を受けながら、ティアは所在なさ気に佇んでいた。


「お待たせしました。」


 帰ってきたロエンは手に白い帽子を手にしていた。見るからに女物だった。走ってきたようだが、息の一つも乱してはいない。流石騎士団隊長と言ったところか。


「そこの露店にあったものです。お気に召されないかもしれませんが……。」


 差し出されたそれを受け取る。つばの広い婦人用の帽子は、控えめな花飾りがついていた。貴族のお姫様が被るような物とは程遠いけれど、素朴なそれがティアには愛らしく感じられた。


「ううん、可愛い。……ありがとう。」


 白い帽子を被ると、なんだか嬉しくて自然と顔が綻んだ。だがロエンには顔を逸らされる。何か変だっただろうかと不安になる。さっきはお世辞でも褒めてくれたのに。

 帽子の向きを整えてじっとロエンを見上げていると、ようやく視線が交わった。するとおもむろに帽子のつばを下げられる。深く被りすぎて地面しか見えない。ティアは文句を言おうとしたが、顔を隠すためなのだろうと思い直すことにした。




 ロエンについて大通りを歩き、特に商品を買うことはせずにただ店先を見て回った。それでもティアは楽しかった。女性が好みそうな装飾が施された小物は見ているだけで幸せになれたし、知らない奇妙な食べ物には興味を引かれた。

 そして何よりウィルノアの国民が幸せそうな顔をしていることが、ティアを暖かい気持ちにさせた。政治の上で問題は山積みだが、今ここにいる人達は日々の生活を謳歌しているらしい。


 ロエンは何も言わなかったが、ある店の前で足を止めた。看板を見るに料理店のようだ。少し早いが昼食にしようと提案され、ティアは頷く。すっかり自分が楽しんでいたが、主人の外出に侍女がくっついているという呈だった。

 中に入ると元気の良い女性に出迎えられた。ロエンとは顔馴染みらしく、挨拶を交わしている。ぐるっと店内を見渡すと、時間帯のせいもあるのか客足は(まば)らだった。外の喧騒から離れた落ち着いた雰囲気の店、といった印象を持つ。

 ロエンの方を向くと店員の女性と目が合い、驚いた顔をされた。


「あらあら、旦那が女の子を連れてくるなんて珍しいじゃないか。しかもまあ、可愛らしいお嬢さんで……彼女かい?」

「違います!」


 ティアが慌てて否定の声を上げると、女性店員は大きく笑った。ひいひい言いながらロエンの肩を叩く。笑い過ぎて涙目になっていた。


「……っ、前途多難だねえ! 個室空けてやるから頑張りな。」


 よりによってロエンと恋人同士に間違えられるなんて……ティアは複雑な気持ちになった。先の言葉通り個室に案内され、席に座る。逡巡したが、ロエンと2人だけなので帽子も脱いだ。運ばれてきた飲み物は冷たく、火照った身体に心地良い。ストローを回すとグラスの中の氷がカラン、と高い音を立てた。


「こういう場所は珍しいのではないですか?」

「はい。でも皆が明るい顔をしていて、安心しました。昔と変わらないなって。」

「そうですね、……貴女も変わられない。」


 つい先日も聞いた言葉だった。しかし同じ言葉でもロエンに言われると不愉快に感じるのは何故だろうか。

 外見は少女から大人へと変化したし、中身だって生き抜くために打たれ強くなったのだ。図太くなったとも言えるが……。これでも多少は成長したつもりだった。

 ティアはむっとして言い返す。


「まあその年齢で隊長まで出世なされたご主人様には敵いませんわ。」


 自分で言っていて凄く嫌味っぽい、とティアは思った。ロエンの眉間に皺が寄り、癇に障ってしまっただろうかと反省する。しかし返ってきたのは思いもしない言葉だった。


「名を呼んで下さると、約束したではないですか。」


 何の話だ、とティアは思った。記憶をまさぐる。そこから引っかかったのは、いつぞやの酔っ払い事件だった。まさかあの夜のことを覚えていたのか。思い出さなくていいことまで思い出しそうになり、慌ててストローを口に含む。冷たい液体が身体を通ったことで平静を取り戻す。そうしていると料理が運ばれてきたので、そこで会話は打ち止めとなった。




 食事を終えて店を出ると、空には雲がかかり、天気が崩れ始めていた。それでもお昼の時間帯、人の数はぐんと増えている。人の波を避けながら、午前と同じように当ても無くふらふらと店を見て回った。ロエンにどこか行く所はないか訊ねてみても特に無いらしい。次にいつこうやって外出できるかも分からないので、ティアは自由に城下の街を散策した。


 ふと甘い匂いが漂ってきて、匂いの元を辿る。するとなんとも可愛らしい外観のお菓子屋さんが建っていた。クリーム色の壁に淡赤の屋根。店頭に掲げられた看板には、色鮮やかなフルーツタルトの絵が描かれている。他にもワッフルやクッキー、涼しげなゼリーなども売られているようだった。店内は多くの女の子で賑わっており、結構な人気店のようだった。

 足を止めたのは一瞬だったが、ロエンは目ざとくティアの視線の先に気が付いた。


「召し上がられますか?」


 ティアはタルトに心惹かれていた。素直に頷けばいいのに、さっき昼食を食べたばかりでデザートまで欲すると、食いしん坊だと思われそうなのでつい断ってしまった。店から顔を背け、後ろ髪引かれる思いでその場を後にしようとする。


「お待ち下さい。……甘いものが食べたくなったので、ここで待っていてもらえますか。」


 そう言うと、ロエンは単身お菓子屋さんに乗り込んでいった。凄く似合わない。しかもティアの記憶によれば、ロエンは別段甘い物が好きと言うわけではなく、むしろ苦手だった気がする。きっとティアのために買いに行ってくれたのだろう。

 今日の外出もきっと自分の為だ、とティアは思う。ユリスの命令はロエンの侍女になれという、ただそれだけだった。甲斐甲斐しく面倒を見ろなんて指示されていないはずだ。なのにどうしてこんなに親切にしてくれるんだろう。ロエンにどんな得があるというのか。

 甘い香りが、頭を鈍らせる。ぼんやりと突っ立ったティアに、近づいて来た女の子集団がぶつかった。我に返って謝るが、彼女達はぶつかったことにすら気づいていない様子だった。


「ねえねえ、あの人格好良くない?」

「あれって騎士団のロエン様じゃない!?」

「嘘―! こんな場所にいらっしゃるなんて!!」


 黄色い歓声を上げて彼女達は店内に突入していった。ティアは目をぱちくりさせながら後を追うと、他にもたくさんの女の子に囲まれたロエンが身動きが取れずに困っていた。身長が高いので、1人だけ頭が飛び出ている。女性が相手では乱暴な扱いもできず、なかなか出口まで辿り着けないようだ。今日は休日らしいラフな格好をしており、白いシャツがあちこちから引っ張られている。……ご愁傷様です、と声を掛けたくなるような惨状だった。

 助けはせずに観察していると、愛想の無さは相変わらずだが、凛々しい顔立ちは確かに格好が良い方に分類されるのかもしれない、と思う。周りの女の子はティアと同年代かそれより若く、長い髪を結ったりお洒落な衣服を身に纏っていたりしていて、とても可愛らしかった。王宮での噂によれば、社交界でのお嬢様方からの人気も高いらしい。きっと美しく着飾ったご婦人からも声を掛けられるのだろう。


 ティアは自分の身体を見た。身に着けたワンピースやこの白い帽子は、ロエンに貰ったものだ。それだけじゃない。屋敷での食事も寝室も、居場所だって、ぜんぶぜんぶロエンに貰ったものだ。今の自分を構成するのは、全てロエンに与えられたもので、ティアは何も持っていない。自分には何も無い。失ってしまった。それとも、最初から何も持っていなかったのだろうか。思考がぐるぐると渦を巻き、よく分からなくなってくる。

 自分のことも、女の子に囲まれたロエンを見るのも、何もかも嫌になって店の前から離れた。




「遅くなってしまい申し訳ありません。」


 ようやく店から出て来られたロエンは、めったに見せない疲労の表情を浮かべていた。全身よれよれだが、手に持った紙箱だけは綺麗なままだ。店のロゴと動物の絵が描かれている。


「よろしければ、どうぞ。」


 受け取って箱を開くと、ティアが欲したタルトが入っていた。様々な果実は宝石のようで、上から蜜がかけられているお陰で艶やかに光って見えた。甘い、魅惑的な香りが鼻をかすめる。

 一言もこれが食べたいとは言っていないのに、ロエンはこれを選んでくれた。彼には縁が無さそうな店にわざわざ入り、買ってきてくれたのだ。

 礼を言おうとロエンの顔を見る。背後には先ほどの女の子達がまだこちらを窺っていた。……ほら、早くお礼を言わなきゃ。色んな物をくれて、親切にしてくれてありがとうって。けれど口を開いても、喉は震えるのに声が出なかった。さっきまでは言えたのに、口にしようとすると苦しくなる。ロエンは不思議そうにこちらを見た。紙箱を抱え込むように、俯いてしまう。


「……ティア様?」


 音も無く、石畳が濡れた。


「降ってきましたね。」


 ひとつ、ふたつ。

 ぽつぽつ。ぱらぱら。

 午前中に見た入道雲が王都を覆っていた。辺りが暗くなる。


「どこかで雨宿りでもしましょうか?」

「……少し、疲れました。屋敷に戻ってもよろしいですか。」


 分かりました、とロエンが頷いた。

 人々は雨を避けようとそれぞれ近くの店に避難していた。店先の商品を片付けるのに慌ただしい人もいる。二人は早足で屋敷への道を辿った。




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