熱帯夜
「お、終わった……。」
ティアが容疑者を特定し終えた頃にはとうに日付が変わっていた。精根尽き果て机に突っ伏しそうになる。が、未だバリバリ仕事をこなすユリスの手前そうもできず、重たい足を動かして紙片を差し出した。
「やっと終わったのか。」
「はい。読み上げましょうか?ジェラルミン伯爵とサラーグ伯爵、それにテンソー子爵に、」
「もういい。」
ユリスは片手を上げ、ティアの話を止めた。報告書と呼ぶにはお粗末なそれには役人の名前が書き連ねてある。もしかすると国王の側近も含まれているかもしれない。
「まあこれだけでも牢に入れられるだろうが……あとの調査は騎士団に任せるさ。」
顎に手を当て、ユリスの目線が文字をなぞっていく。表情に変化はないが、光の加減でできた影も相まって、濃い疲労が浮かんでいるように見えた。実際ろくに眠れていなさそうだ。こんな時間まで仕事をしていたのも、ティアを待っていたわけでなく日常的なことなのだろう。
お互い早く休んだ方が良い、そう思ったティアは帰り支度を始めた。自分の私物は無いので、使わせてもらった資料や紙片を元の場所に戻すだけだった。ユリスにも帰宅する旨を伝える。これで1週間の王宮勤めも終了だ。
「お前、どうやって帰るつもりだ。」
「馬車を出して頂いて……。」
「こんな深夜にか?うちの真面目で実直な騎士達をお前の我儘に付き合わせられるか。」
「では歩いて……。」
「襲われても知らないぞ。」
「ええと、この部屋で休ませてもらうっていうのは……。」
「重要な書類でも盗み出されたら困る。言っておくが客室も駄目だ。暗殺者を野放しには出来ないからな。」
一体どうすればいいのか、ティアは途方に暮れた。まさか朝まで働かせるつもりではないだろう。
するとユリスはさも仕方ない、と言いたげな顔でティアの腕を掴み、執務室を出た。牢屋にでも放り込まれるのかと怯えるティアを余所に、暗い廊下をどんどん突き進んで行く。時間も時間なので、見張りの騎士以外は誰ともすれ違わなかった。
階段を降り、いくつもの角を曲がって行くと辺りの雰囲気が変わった。扉と扉の間隔が広く、絵画や陶器などの装飾品が多く飾られている。ティアもよく知っている場所、王族の居住区だった。かつて温かな家族と共に安らかに暮らした空間。ここ数日の侍女の仕事でも踏み入ることを許されなかったので、6年ぶりの帰還だった。
ユリスの唐突な行動にその思惑が読めず、ティアは戸惑いを隠せなかった。
「おい、顔を隠せ。」
横から声を掛けられ、しかし上着も何もないので俯くくらいしか出来ない。どうしようかと迷っていると、ユリスは懐を探って何かの刺繍が入った真っ白な手巾をティアの顔に被せた。薄い生地越しにうっすら先は見えるが、周りから見れば怪しいことこの上無いだろう。
更に進み、ティアの自室があった場所も通り過ぎ、ユリスは豪華な装飾が施された突き当りの大きな扉の前で足を止めた。その前に佇んでいた女性が腰を折り、やわらかな声で出迎える。
「遅くまでお疲れ様でございます、陛下。」
「ああ、今夜は誰も入れるな。」
「かしこまりました。」
侍女と思しき女性はその場を去り、ティアは腕を引かれてよろける様に部屋の中に入った。顔を覆った布も一緒に床に落ちて視界が開ける。そこは国王の寝室だった。ティアの記憶とは壁紙やカーテンが変わっているが、大きな家具やその配置はそっくり同じだ。
物懐かしさを感じてその場に突っ立ったままのティアに、ユリスは「ここで寝ろ。」という言葉と共に何かを投げて寄越した。
……そんな予感はしていたが、まさかその通りだとは。どういう風の吹き回しなんだろう。
手元にあるすべすべとしたものに目を落とすと、女性物の寝巻だった。なぜこんなものが国王の寝室に用意されているのか、ティアは王宮内で聞いた、「陛下は誰にでも優しい一方、数多の娘を弄んで泣かせているらしい。」という噂を思い出す。先程の侍女もユリスが女性を連れ込むことには慣れた様子だったし、噂は真実の可能性が高そうだ。この淡い桃色と細かいレースがユリスの趣味であれば、女たらしの割に随分と少女趣味らしい。
弟がすっかりダメな男になったことにティアが気落ちしていると、脚のあたりに何かが触れた。それはどんどん、太もも、腰、お腹まわりと上に上がって行く。下を向くと、骨ばった手がゆっくりと動いていた。――なんと、ティアの、あろうことか、胸を、撫でているではないか!
「嫌ー!!何するの!!女なら何でもいいの!?節操というものを知らないの!?」
「…………僕に姉を襲う趣味は無い。凶器を持っていないか確かめていただけだ。」
それでも悲鳴を上げる姉の口を、弟は手で乱暴に塞いだ。奇怪な物を見るような目付きに、ティアも徐々に冷静を取り戻して行く。
言い分は分かったが、何も女性の胸まで触らなくても……妙な手つきに見えたのは、弟がスケコマシだという噂による先入観のせいだろうか。
ティアは気恥ずかしくなって、ユリスから離れて隅でこっそり着替えた。その時ばかりは彼も一応目を背けていた。
「申し訳ありません……。」
「全くだ。」
そう言うと足早にユリスが近づいて来た。思わずティアの肩が震える。姉は弟が理解できなさすぎて、ただひたすら怯えていた。口は悪いしすぐに怒るし、傲慢で暴力的で、なのに自室に泊めてくれると言う。
……以前のように騙されてるのかしら。
胸の前で祈るように指を組むと、またその手を取られる。ロエンの様な逞しさは無いのに、全く振りほどけなかった。
そのまま巨大な寝台の前に連れて来られる。ここで解放されると思っていたが、手はしっかりと握られたままだ。ユリスは天蓋から垂れた緋色の布をめくり、姉を連れて上がりこもうとしている。
姉弟と言えど大の大人が同じ寝床に入るのは如何なものかと、ティアは首を横に振って抵抗を示した。
「私は長椅子で、いえ床ででも休ませて頂きますから!!」
「お前を野放しにして、寝ている間に首でも締められたら困る。」
ユリスが寝台の奥へ進むので、身体を引かれるティアも必然的に柔らかな寝具に乗っかってしまう。いつまで経っても離してくれない。ぶんぶん腕を振るとじろりと睨まれた。
「あの、まさかとは思いますが、手を握ったままということはないですよね?」
「野放しには出来ないと言っただろう。少しでもおかしな動きをしたら、朝にはお前の首が飛んでいるぞ。」
「これじゃ寝返りも打てないんじゃ……。」
「縛り付けられる方が好きなのか?……僕はもう疲れたんだ、さっさと寝ろ。」
ユリスは横になって瞼を閉じた。それ以降、ティアが何を言っても答えなかった。
何も無いのは分かっているし、何かあってはそれはそれで大問題だ。誰か大人の男の人と一緒に寝るなんて、ティアには初めての経験だった。それが弟だというのが、悲しいような虚しいような、何とも言えない。そんな気分で寝台に身を沈める。
繋いだ手は熱く、じんわりと湿っていた。けれどなんだか心地よくて、ティアはすぐに夢の世界に旅立っていった。
――翌朝
妙に寝苦しさを感じて、ティアは目を覚ました。寝汗をかいているようで気持ちが悪い。
夏も折り返しとはいえ、まだまだ気温は高い。今日も暑くなるのかしら、と思い起き上がろうとしてぎょっとした。自分の胸元に金色の頭がうずめられていたからだ。
「…………ユリス?」
名を呼ぶと反応するように顔がこちらを向いた。瞼は閉じたままで、まだ起きていないようだった。
いつもと違う無防備な寝顔は、ティアが6年間想像していたユリスそのものだった。自分と似ていると思っていたが、ユリスの方が鼻が高く、唇は薄い。眉の形も違うし、髭はまだあまり生えていないようだった。
……あ、髪の生え際に黒子がある。前もあったかしら?
「人の寝顔を見るなんて悪趣味な女だな。」
ばちっと効果音がしそうな位勢いよく瞼が開き、紫の瞳と視線が交わってティアは小さな叫び声を上げた。
そんなティアを尻目に、ユリスは欠伸をしながら寝台を降りる。扉の先にいた侍女に何か言付けると、水差しが運ばれてきた。ユリスはその間に着替えながら、机の引き出しから何か小さなものを取り出した。よく見えないが、薬包、だろうか?
視線を察知したユリスがぐるっと振り向いた。怪訝な顔をしている。
「お前、人の裸までじろじろ見るのか……?」
「違います!」
「……。何時までここにいるつもりなんだ。」
窓の外を見ると、太陽がそれなりの高さまで昇っていた。屋敷の使用人達はもう働き始めているだろう。屋敷にいないことが知られれば主人や家令に何を言われるか堪ったものではない。
ティアは一宿一飯の礼を伝え、慌てて着替えると国王の寝室を飛び出した。
ティアは急いでロエンの屋敷に帰ったが、流石に正面玄関を通る勇気は無かったので裏口からこっそり侵入した。人が多そうな場所を避け、柱や角に身を隠しつつ自室を目指す。よく磨かれた柱に触れると指の跡がくっきりと付き、この家の使用人の仕事熱心さが窺えた。なんとなく自分の痕跡を残すのが躊躇われ、ティアはそれを布で拭いて消した。さながら密偵の気分だった。実際、今の姿は不審者にしか見えないだろう。自分の服を取りに行く暇は無かったので、着ている物も王宮の侍女服のままだ。
運良く誰にも遭遇せず、自室のある階まで辿り着くことができた。……果たして本当に運が良いのだろうか。いくら人目を避けるように忍び足で慎重に進んだとしても、朝の忙しい時間、誰にも会わずにここまで到着できるなんて、何か奇妙ではないか?
しかし考えても仕方が無い。それよりも早く自室に帰って着替え、何食わぬ顔で仕事をすればいいんだ。
ティアは角から顔をだし、左右に人影が無いのを確認して一歩踏み出した。
「……?」
もう一歩。
「…………。」
何故か身体が動かない。いや、脚は動いている。けれど前へ進めないのだ。
ティアは背後に凄まじい覇気を感じて、ギギギと音がしそうな位ぎこちなく振り向いた。
「おはようございます、ティア様。」
それはもう、何年も見ていない笑顔がそこにはあった。
いつもの仏頂面はどこへ行ってしまったんですか、ご主人様。