竜穴に入る
「あの、これは、その……」
虎口を逃れて竜穴に入る、とはまさにこのことだった。いや、竜の根城に入れてもらえるかすら竜神様のお伺いを立てねばならず、このまま食べられて死んでしまうかもしれない。
何と説明すべきかとティアが口をパクパクさせていると、国王陛下は窓枠に肘をついて愉悦の笑みを浮かべた。人の命の瀬戸際を見て楽しんでいるのだろう。説得は無理かもしれない。ティアが天を仰ぐと、憎らしい程青く澄んだ空が目に入った。
「なんだ、今度は直接僕を手にかけに来たのか?」
「違います!どこをどう見ればそう見えるんですか!」
「いや……どう見ても壁をつたって侵入しようとしている暗殺者なんだが。」
言われて見ればその通りだとティアは思った。しかし勘違いで衛兵を呼ばれたり、見殺しにされては堪らない。
薔薇男は隣の部屋でまだティアを探して名を呼んでいた。退路も断たれている。
「そんな恐ろしいこと考えていません!変な男に追われているんです、助けて下さい!」
「僕を殺そうとしたのに、よくもそんなことが言えるな。」
「ですから、私はやっていないと何度も、」
小声で叫ぶティアの前で無情にも窓が閉められた。
酷い、鬼畜すぎるぞウィルノア王!
枠を掴もうと伸ばしかけていた手で窓を叩いた。
「開けて!開けて下さい!…………開けてよ、ユリス!!」
どんなに懇願しても、名を呼んでも窓は開けられない。下を向くと地面が迫って見え、身体が揺れた。このまま落ちて死んだら絶対祟ってやる、とティアは強く思う。それどころか、落ちる前に言える不満は全部ぶちまけて未練を残さないようにしようとまで考え出した。
「ユリスの……ユリスの馬鹿!私はやってないって何度も言ってるのに、どうして信じてくれないの!大体誰のせいでこんな目に合ってると思ってるのよ!!しかもそんなに捻くれて育っちゃって、あんなに可愛かったのに!このまま見殺しにするの!?血の繋がった姉弟でしょう!」
それでもユリスは窓を開けなかった。ティアは悲しいやら悔しいやらで、なりふり構わず思いっきり叫んだ。
「落ちて死んだら祟ってやるから!毎晩枕元に立って寝れないように恨み言を言い続けて、末代まで冷酷非道な鬼畜王だって伝えて、それから、えっと……そうだ、本当は甘えん坊で、10歳になってもまだおねしょしてましたって城中の人に言いふらすから!!」
「それはやめろ!!」
…………開かずの窓が遂に開いた。効果テキメンだったようだ
物凄く嫌々ながら引き上げてもらい、ティアは国王の執務室に入った。廊下側でなく壁側に扉が付いており、この執務室は二連続きの奥の部屋だと分かる。それほど広く感じないのは壁一面が巨大な書架となっているからだろうか。立派な机案の周りには書類が大量に散乱していた。あまり片付いてはおらず、ティアはちょっと意外に感じた。ユリスを見ると既に席に戻って政務を再開しており、仕事の邪魔をしてしまったようだ。
助けを求めたのは自分だったが、本当にユリスが助けてくれるなんて……ティアは夢を見ているような気分だった。この間、謁見の間では強い憎しみを向けられたから、見殺しにされるどころかてっきり突き落とされるのでは、と思っていた。
ティアは扉の前で深々と頭を下げた。
「陛下のお邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした。……それと、助けて頂き本当にありがとうございました。」
「…………。」
ユリスの気が変わらないうちに早く去った方がいいだろう。
失礼致しました、と言って後ろ手に扉を開ける。
「おい、まさかそのまま出ていく気か?」
「え……はい、もちろんおねしょのことは、」
「そうじゃない!そのことは二度と口にするな!……僕がお前をタダで助けてやると思ってるのか?どれだけオメデタイ頭をしてるんだ。」
そんなにおねしょのことが恥ずかしかったんだ、とティアが感慨深く思っていると、ユリスは心底人を馬鹿にしたような顔のまま顎で部屋の隅を指した。
窓から侵入した人間が言えることではないが、なんて行儀が悪いんだろう……弟はすっかり別人へと成長してしまったらしい。
指された方向には本が山積みになっていて、ティアの腰くらいの高さの山がたくさん連なっていた。
これを片付けろと言いたいのだろうか?だが部屋の書架は隙間なく詰まっている。
「これをどうすれば、」
「廊下の突き当たりに書庫がある。あとこれを借りて来い。」
ユリスはティアの疑問を一言で片づけると、机案の向こうから1枚の紙を投げ捨てた。ひらひらと床に落ちたそれを拾うと、様々な書物や資料の目録が裏にまでびっしりと書き記されている。殴り書きのようだが綺麗で読みやすい字だった。
こういうのは補佐官の仕事だろうと思うも口答えできるはずもなく、ティアは両手いっぱいに本を抱えて部屋を出た。薔薇男は流石にもう消えていた。
なかなかの重労働だった。本は厚さも大きさもバラバラだったので持ちやすいように整えていると、背後から「早くしろ」だの「鈍間」だの文句を投げつけられた。結局本の角を腕に食い込ませつつ、書庫と執務室を何度も往復した。書庫が部屋からそれほど離れていなかったのがせめてもの救いだった。
ユリスが借りている本は、形状だけでなくその種類も多岐に及んでいた。法律書、役人名簿や調書、過去数年の財政予算案とその決算報告書、騎士団関係の資料もあったし各地方の特産品一覧みたいなものまであった。何かの判事録と判決書の間に挟まった「この薬草が危ない!~あなたの身近に存在する毒とその対処法~」という題名の本を見つけた時は思わず顔が引きつった。
ティアが部屋の一角を整理し終えたのはだいぶ時間が経ってからで、案の定ユリスには遅すぎると罵られた。以前より体力はついたがそれでも限界はある。しかも書庫から戻ってくるたびに明らかに残りの書物が増えていたので、書庫を行き来する回数もぐっと増えた。
明日には腰痛になっているだろう、と疲労困憊で退室しようとすると、またしても呼び止められた。
「お前計算は得意だったな。」
別に得意でもなんでもなかった。小さい頃ユリスの課題を手伝ってあげたのでそう思われているのだろうか。
しかし国王陛下様はしがない侍女の返事など待たず、分厚い紙の束を差し出してきた。目線は机案の上の書類に向いたままで、ティアの方は見向きもしない。今度は投げ捨てられなかったので取りに行った。
「やれ。」
「これは……?」
「つべこべ言わずにさっさとやれ。」
無茶苦茶だ、と思いながら紙束と羽ペンを受け取った。来客用か休憩用らしい長椅子に座り、前のテーブルの上にそれらを置く。何かの資料のようで様々な数字が羅列してあった。よく見てみると、各地方や都市における農作物の生産量、流通経路とその価格等が表記してある。所々穴が空いているのは情報が足らなかったのだろうか。
ティアに求められているのは原価計算のようだった。
……なぜユリスがこんな雑務をやっているのか。財政分野はそれ専門で担当をする財務官がいるはずだし、そうでなくとも国王には大勢の補佐官がついているはずだ。こんな下っ端役人がやるようなことはまずやるはずがない。父を思い出しても、皆の意見を取りまとめて方針を固め、あとは指示して日がな一日中国王の承認がいるものに判を押しまくっていた気がする。
不思議に思って考え込んでいるティアを、ユリスは鋭く睨んだ。
「余計な詮索はするな。……少しでも計算を間違えてみろ、どうなるか分かっているだろうな。」
ティアは言われた通り目の前の数字に全力で集中することにした。そんなに難しい計算ではなかったが、何せ数が多い。品目だけでも軽く百を超えるのに、それぞれの産地によって原価は異なる。途方に暮れそうだったが、数年間教師をやっていたんだという意地でなんとか終わらせた頃には、すっかり日が落ちていた。侍女の就業時間はとっくに過ぎている。ユリスの方を見ると、ティアに負けず劣らずの忙しなさで手を動かしていた。
「陛下、終わりました。」
「……なんだ、まだいたのか。」
酷い言い草だった。聞いてはいないが、終わらせるまで決してティアを帰す気は無かっただろう。部屋を出て行こうとすると今度は止められなかったが、明日の午後も執務室に来るように命令が下された。
「ここで見聞きしたことは他言無用だ。お前の命は僕の手のうちにある。分かっているな?」
絶対零度の眼差しに色々な意味で逆らえるわけも無く、ティアは必死に頷いた。
薔薇男と侍女達はティアに逃げられたことを酷く根に持っていた。翌日いつも通りに出勤すると、鬼の形相で追いかけてきたのだ。ティアは侍女の仕事もそこそこに、午後になると隠れるように執務室へやって来た。ユリスはそんなティアの姿を見て鼻で笑った。
「人気者は辛いな。」
誰のせいよ、と食ってかかりたいのを抑え、差し出された文書の束を受け取る。またしても数字だらけのそれにティアはうんざりしたが、悟られれば叱責を飛ばされるので大人しく席に着いた。ユリスは重要そうな書状に君主の刻印を押していた。国王らしい仕事もきちんとこなしているようで、ティアはなんとなく安心した。
単純な計算だけでなく、表を作ったり、文章に起こしたり、地図に印をつけたりもさせられていると、ユリスが席を離れて外に出て行った。長い時間同じ姿勢でいた為か、手足を伸ばすと節々が変な音をたてた。
最近は侍女として身体を動かすことはあっても、頭を使うことはあまりなかった。特にこんな、ほんの末端でも政務に関わるようなことは6年ぶりだ。
ティアは久しぶりの充足感を感じていた。何もなければきっとこんな風に、いやもっと国の中枢で働けていたのだ。……父や、弟と共に。
「いけない、疲れてるんだわ。」
戒めるように頬を叩き、立ち上がる。部屋の入口近くに、冷たいお茶の入ったポットとカップが置かれていた。もうそんなに冷えていないかもしれないが、気分転換に頂こう。ユリスには何も言っていないが、まあお茶を飲んだくらいで処刑されたりはしないだろう……多分。自信を持てないのが辛いところだった。
自分だけご馳走になるのが申し訳なく、何の気なしにティアはユリスの机案にも同じようにカップを置いた。
「これは何のつもりだ。」
それが大きな間違いだと気付いたのは、ユリスが部屋に戻ってきてからだった。嘲笑うような笑みや単なる怒りでもない、自分への強い憎しみを浮かべた弟を見て、ティアは自分の愚かさを呪った。
「……申し訳ありません。」
「僕がお前の入れた茶を口にするはずがないだろう。……どうも自分の立場を忘れているようだな。少し話をしただけで許してもらえたと勘違いしたのか?そんなはずがないだろう!お前は僕に言われたことだけやっておけばいいんだ!!」
ユリスは手の中のカップの中身をティアに投げかけると、その腕を掴んで扉の外に追いやった。
髪から滴る茶が、ティアの白い侍女服をゆっくり染めていった。