殻
ティアはとことんロエンを避けていた。
進行方向に姿を見つければ道を変え、ばったり遭遇しそうになれば「あっ仕事が……」とわざとらしく言葉を発し、全力で走って逃げた。それでも夕食では顔を合わせてしまうので、一度具合が悪いと言って部屋に引き籠ったらわざわざ様子を見に来てしまった。おかげでティアはいかに元気になったかを延々と語らなければならなくなった。仮病は使えないことが判明すると、夕食で接する時間を短くするために早食いを習得することにした。みっともない行為で身体にも良くないことは分かっていたが、ロエンを前にする方がよっぽど不健康だった。行き先は無いのに初めて屋敷から逃げ出したいと思った。
しかしこれらの甲斐があり、ティアは1か月近くロエンとほとんど話をせずに済んだ。
主人に対してあるまじき行為なのはティア自身十分承知していた。けれどあの夜、自分とロエンの主従関係がまるで元に戻ったように感じられ、そのせいで6年前の幸せな記憶が蘇ってきて胸が苦しかった。酔いが起こした気まぐれなのだと思いたいのに、ロエンはあの頃と変わらない態度で接してくる。やめて欲しい。今の自分は違うんだ。名を呼ばないで。どうして下女に敬語を使うの。やめて、やめて。錯覚を起こしそうになる。「ティア様」もう王女ではないの。「ティア様」主人を見るような目を向けるのはやめて。「ティア様、」どうせまた裏切るんでしょう!!
「ティア様、どうされましたか。」
スプーンを持った手が震え、皿とぶつかって高い音がした。深く潜っていた意識が浮上する。ここは……そうだ、今は夕食の時間だ。こんな時に思考の底に沈むなんてどうかしている。早く食事を終えて部屋に戻ろう。
透き通ったスープの表面に映る自分の顔が、酷く滑稽に思えて自嘲の笑みが零れた。
「お待ち下さい。」
食欲も湧かず、結局多くを残して立ち上がった時だった。僅かに立ちくらみを起こして椅子の縁に掴まる。本当に疲れているのかもしれない。
「顔色が悪いようです。お部屋までお送りしましょう。」
「いいえ、結構です。」
「……この所、私を避けていらっしゃいますね。」
「……気のせいではありませんか。」
あからさますぎて流石に気付いていたようだ。気付かない方がどうかしているとも言えよう。怒られるか、嫌味を言われるか……いや、ため息を吐かれるというのがこれまでの経験から可能性としては最も高そうだ。何にせよ早く戻りたかった。
しかし返ってきたのは思いもしない言葉だった。
「私は明日から任務で1週間程王都を離れます。」
「そう、ですか。」
「…………帰ってきたら、貴女にお話したいことがあります。お時間を頂いてもよろしいですか。」
ロエンが何を考えているのか、ティアには分からなかった。表情からも声色からも心が読めないし、今は殊更それが顕著だった。ティアの顔が小さく歪んだ。
主人の命なら従わないわけにはいかないだろう。そう考えたら思わず口に出していた。
「それはご命令ですか。」
「いいえ、主人としてではなく……私個人の願いです。」
「……ならば聞く気はありません。失礼致します。」
ティアは扉を閉めた。自室までの道を歩く。夏の長い日も落ちて等間隔に配置された灯りが廊下を照らしていた。歩みに合わせてゆらゆらと焔が揺れ、足下から伸びた影も形を変えていった。その様が何か恐ろしいものに見えて、ティアは歩む速度を上げた。
翌朝、ロエンは屋敷を発った。
前日に早く就寝したティアは目が覚めてしまい、その様子をカーテン越しに覗いていた。屋敷の入り口に迎えの馬車が来ており、見送りはセバスチャンだけのようだった。仮にも主人の出立にそれだけしか居合わせず良いのだろうかと思ったが、朝日も昇っていない早朝なので家令が考慮したのかもしれない。ロエンもあまり仰々しいことは好きではなさそうだ。
生活音がしない朝の静けさの中、途切れ途切れに外の音が聞こえてきた。少しだけ窓を開けると、風に乗ってはっきりとした声がティアの元に届く。ティアが見ているとは知らずに二人は別れの挨拶を交わしていた。
「お気をつけていってらっしゃいませ。」
「ああ。留守は任せたぞ、セバス。」
「はい。……うう、ロエン様、お顔が見られなくなると思うと、爺は、爺は…………っ!!」
セバスチャンは相変わらずの執事馬鹿を発揮していた。どれだけ主人のことが好きなんだろうと呆れるが、何があっても主人第一というのは見上げた忠誠心で使用人の鏡とも言えるかもしれない。
しかしセバスチャンが胸ポケットから白い手巾を出して目元に当てているのを見ると、ティアはその考えが崩れ始めるのを感じた。……今生の別れでもあるまいし、大げさすぎないだろうか。
おんおんという老人の嗚咽を聞くのが忍びなくなってきた頃、主人が口を開いた。ティアの位置からはどんな顔をしているか見えなかった。いつもと変わらぬ仏頂面だろうと思うが、少しだけ声の調子が違うような気がした。
「ティア様のことを、よろしく頼む。」
「ロエン様、このままでよろしいのですか。やはり本当のことを話されては。」
「……あの方は私を許しては下さらないだろう。」
「決してそのようなことは、」
「くどいぞセバス。」
ティアは怪訝な表情になった。……本当のこと、とは?いったい彼らは何を話しているんだろう。
けれど何かが隠されていたとして、何も知らないティアには「裏切られた」という事実しか存在しない。その事実はどんな理由があっても決して変わらない。そう思うとカーテンを握る力が強くなり、柔らかい生地に皺が寄った。
馬車に乗り込む寸前、ロエンがこちらを見たような気がしてティアは窓際から離れた。そしてそのまま馬車は門をくぐり、屋敷から遠ざかって行った。ティアはもう一度眠りについた。
主人のいない屋敷は静かだった。この機にセバスチャンが使用人たちに休暇を与えたらしい。ティアも休んでいいと言われたが、他にすることもないのでいつも通り雑用をこなしていた。貯め込んでいた疲れはロエンがいないというだけでどこかへ飛んで行ってしまった。しばらく主人から逃げたり顔を合わせたりする必要が無い。精神的休暇だった。
そのためティアは面倒な草むしりも率先して行っていた。月に2度ほど庭師が来るが雑草が伸びる速度はそれを更に上回るようだ。凄まじい生命力に感服する。綺麗に整えられた庭にぴょんと長い雑草が生えていると特に目立った。ティアは広い庭を一人歩き回り、所々に生えたそれらを抜いて回っていた。
炎天下の下、拭っても拭っても汗が額を流れる。ガイナ帝国より南に位置するウィルノアの夏は厳しい。鮮やかな緑の上に自分の濃い影が出来ていた。無理だと分かっていてもその影に自分が入りたい気分だ。この一帯の草を抜き終えたら、休憩には早いが飲み物を貰いに行こう。そうじゃないと倒れてしまいそうなくらい、今日の暑さは異常だ。
生ぬるい風が吹き、頬を撫ぜた。こんな風でも無いよりはマシだ。……思ったより涼しい。まるで日陰に入ったようだ。
――ティアは、本当に自分が誰かの影に入っていたことに気が付かなかった。
そしてなぜか、ティアは王宮の侍女長と向かい合っていた。
草むしりをするティアの背後には騎士が立っており、声を掛けられるとあれよあれよという間に馬車に乗せられ、王宮まで連れて来られた。こういうのは抵抗しても無駄だと最近の経験から学んでいたので大人しく従った。手口は完全に誘拐だったが、手足を拘束されたりはしなかったことも抵抗しない理由だった。セバスチャンには何も言っていないので心配させてしまうかもしれない。けれど元々は休みの予定なので、侍女が一人いなくなっても然程困らないだろう。
「貴女には今日から1週間、ここで侍女として働いてもらうよう陛下より命令が下されています。」
王宮へ連れて来られたからにはもっと酷い目に遭うかと想像していたが、ただの侍女だとは。安堵と共に少し拍子抜けした。ロエンが留守の間にティアがさぼらないよう、監視も兼ねて王宮で働かせるつもりなのだろう。そんなことせずとも働く予定だったのに……彼はよっぽど姉のことが嫌いらしい。しかしなぜ侍女の仕事なのか、もっと辛い仕事はいくらでもあるだろうに。
ティアは侍女長から渡された侍女服に着替え、指示された持ち場へ向かった。
仕事内容はロエン邸のそれと大して変わらなかった。むしろ使用人の数が多い分王宮の方が楽かもしれない。今日の持ち場は宮殿の一番端にある、あまり使われない客間だった。人通りも全く無い。周りにいる侍女は皆若く、仕え始めて短いのかティアやユリスの顔をよく知らないようだった。まあ、死んだ元王女がここで働いているとは夢にも思わないだろう。彼女たちは掃き掃除をしながら気軽に話しかけてきた。
「ねえ、貴女は誰目当てでここに来たの?」
王宮へ使える侍女たちは大半が貴族や商人の娘で、奉公としてここに来る。身分の高さや勤務期間によっては王族付きの侍女にもなれるし官吏や騎士と出会える機会も多いので、結婚相手を探すために働く侍女も多くいる。ティアが王宮にいた頃も彼女たちは噂話や恋の話が大好物だった。
弟の命令で働かされています、とは言えないので曖昧に答えると不満そうな顔をされた。
「お給金目当てなんて野暮なことは言わないでよね。狙いが被ってたら困るでしょう、ここはお互い協力しましょうよ。」
「こんなこと言ってるけどこの娘ユリス様狙いなのよ、聞いて呆れるわよね。」
「あなただってロエン様に恋文書いてたじゃない!人のこと言えないわよ!」
「ど、どこでそれを!!」
若い二人の侍女はティアの存在を忘れて揉め始めた。どうしたらいいか困っていると、隣の部屋にいた侍女達も騒ぎを聞きつけ、いつの間にか部屋には若い娘が集まり恋愛話に華を咲かせ始めていた。掃除しなくていいんだろうか。もしセバスチャンがこんな場面を見れば仕事を倍に増やされるだろう、とティアは思った。
箒を動かしながら会話を聞くと、ユリスとロエンのどちらが素敵かという議論に発展しているようだ。時々他の良家の子息や騎士の名前も挙げられているが、残念ながらグレンの名は出なかった。……がんばれ、グレン。心の中で小さく応援をする。つくづくどこか残念な男だ。
話の輪から少しだけ外れた所にいる侍女に、こっそり話しかけてみた。
「陛下とロエン様ってそんなに人気があるんですか?」
「そりゃそうよ!貴方一体どこの田舎から来たの?お二人のことを知らないわけじゃないでしょう。そうねえ……ユリス様はいかにも王子様然としていらっしゃるし、誰にでも分け隔てなく優しいところが素敵よね。私達はお近づきにすらなれないけど……あそこの陛下狙いって言ってる子だって、実際に顔を見たことはないのよ。いつかお近くで拝見したいものよね。」
似た顔ならここにあります。
……それにしても、「誰にでも優しい」か。ティアにはそんな優しさは垣間見せてもくれなかったので、少なくとも「誰にでも」の箇所は間違っている。姉は今の弟には横暴で残虐な印象しかなかった。
「逆にロエン様は、ユリス様みたいに微笑まれたりはされないけど精悍な顔つきだし……まさに騎士を体現していらっしゃるような感じが人気かしら!」
騎士道とは、忠誠心や優しさのことを言うのではなかっただろうか。それともウィルノアにおける騎士の定義が変わってしまったのだろうか。ティアは二人の噂と自分の知る顔とのあまりの違いに、開いた口が塞がらなかった。
すると、途端に侍女たちの輪の中心が活気づいた。ロエンに恋文を渡した侍女の話の続きのようだ。皆が耳を傾けているのでなんとなくティアも倣った。
「それでロエン様からお返事は頂けたの!?」
「貰えたわ!……と言いたいところだけど、駄目。受け取ってすら貰えずにその場でお断りよ。」
周りの侍女が一同にやっぱりね、と口にしている。どういうことだろう。断るにしても手紙くらい受け取ってあげればいいのに、相変わらず女心の分からない嫌な男だ。
「ロエン様って素敵だけど、なんていうかお堅いわよね。今までどんな美女の誘いにも乗ったことが無いなんて。」
「もしかしてアッチ?なーんて。」
ドッと場が湧いた。ティアも想像したら可笑しくて笑った。ちなみに相手はグレンだった。心の中で今度は謝罪をする。ごめんね、グレン。がんばれ、グレン。
「やっぱりあの噂本当なんじゃない?ほら、王女様との禁断の恋。」
「亡くなった恋人を想い続ける……って?ただの噂でしょ。」
「でも実は生きてたって聞いたわよ。」
ええー!という驚嘆の声がティアの鼓膜に響いた。あまりの喧しさに両手で耳を覆う。話の内容と声の大きさのどちらも衝撃的で、驚きで心臓が止まりそうだった。
侍女たちはなぜ王女が生きているのか、どこで聞いた噂なのか、更には詳細な目撃情報まで語り始めた。嫌な汗が背中を流れる。
ここに本人がいると分かったら一体どうなるんだろう。今は運良くティアやユリスと面識のない侍女しかいないが、王宮にいればそんなもの時間の問題だ。そしてそれこそがユリスの思惑なのではないだろうか。
ティアはすぐそこにまで迫って来ている悪夢に、一人身を竦ませた。