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しるし

 ロエンの侍女として働き始めて10日が経った。初日こそ不慣れな仕事に多少苦慮したものの、要領を掴めばそう大変ではなくなった。少なくとも無理難題を押し付けられているわけではない。他の使用人たちはティアの正体を知ってか知らずか必要以上に関わろうとしなかったが、聞こえるところで陰口をたたいたりはしなかった。セバスチャンは何かと気にかけてくれたが、家令として屋敷の人間を取りまとめなければならず、常に忙しそうだった。よってティアは就業中は兎も角、休憩時間も一人で過ごさなければならなかった。もし誰かと話そうと思うと、自ずと相手は夕食で顔を合わせるロエンに限られた。


「……。」

「…………。」


 だが、楽しく談笑が交わされるはずもなかった。侍女は主人に話しかける気が元より無く、主人も侍女を相変わらずの仏頂面で見つめるだけだった。二人ともテーブルマナーが完璧だった為に咀嚼音や食器同士がぶつかる音もせず、ただただ沈黙が支配する。毎日が通夜のようだった。一人で食べるほうが何倍もマシだ、とティアはうんざりしていた。


 思っていたよりはずっと恵まれた環境だったが、ティアはひどく退屈していたし、孤独も感じていた。

 だからその日、気が緩んで浮かれてしまったのも仕方がなかった。






 昼の休憩が終わってすぐ、ティアは外で洗濯物を取り込んでいた。2階の寝室のシーツをすべて干したので非常に枚数が多い。風が強く、はためいた布が顔にバシバシ当たって地味に痛い。籠に入れたばかりのシーツが今にも風でさらわれそうだ。


「あっ。」


 ……本当に飛んで行ってしまった。

 高く舞い上がったそれを慌てて追いかける。汚してしまったらまた洗い直しだ。夏なのですぐに乾くが、他の仕事もまだ残っている。ティアは絶対に落としてなるものか、と上に気を取られていたため、前に人がいることに全く気付かなかった。


「あれ、君もしかして……ってうわっ!!」

「え?わあっ!」


 見事に正面衝突、ぶつかった相手ともつれて一緒に転ぶ。空を見上げたままだったティアは一瞬鮮やかな赤を見つけたが、次の瞬間には視界が白で埋め尽くされた。幸か不幸か、シーツはティアの上に落ちてきたのだ。居たたまれない気持ちで自分を覆う大きな布を取り払うと、しりもちをついた男が腹を抱えて笑っていた。


「はっはっは、やっぱお姫様じゃん!登場が派手だなーはっはっは!!」

「グレン……!」


 6年前、護衛を務めた騎士だった。




「なんか最近王女サマが戻ってきたって噂になってたんですよ。でもまさかティア様がロエンの屋敷にいたなんてなあ。」

「ティアで構いません。」

「いやあ、実は俺堅苦しいの苦手なんだよね。流石に呼び捨てにすると怒られるんで、ティアちゃんって呼ぶわ。ティアちゃんもそんな畏まらなくていいから、ね。」


 相手は騎士なので下女として立場をわきまえるべきだろうが、グレン相手にはそんな気が全然起こらなかった。この人は上司にもこんな態度なのだろうか、だとしたら一生出世できなさそうだな、と余計なお世話を焼いたくらいだ。


「グレンは昔から変わらないわね……。」

「なんすかその憐みの目は、それなりに成長したよ!……でもまあ、ティアちゃんには敵わないよなあ。前も可愛かったけど、やっぱすげえ綺麗になったもん。」


 綺麗だなんて、もう随分と縁のない言葉だった。お世辞と分かっていても頬が熱くなるのを止められない。顔を見られないように、ティアはシーツをたたむことに専念した。


「そっかー、ティアちゃんがいるから最近アイツ帰りが早いんだな。どうなんすかそこら辺。」

「……ご主人様のことは詳しく存じ上げません。」

「ご、ご主人様!?なに、君たちそういう関係なの!?」


 大人だー!と立ち上がって叫ぶグレンに、急速に火照りが収まるのをティアは感じた。……この人ロエンと同い年じゃなかったかしら。まあ、ある意味ロエンと同じで何を考えているのか分からない男ではある。何を想像しているのか知りたくもないが。




 なんだかんだ言いつつも、心置きなく人と喋られるのはとても楽しかった。グレンはお調子者らしくばかばかしい冗談を言ってはティアを笑わせたし、6年間のことを聞き出そうとはしなかった。彼なりに気を遣ってくれたのかもしれない。お互い仕事があるので長くは話せなかったが、また会いに来るとも言ってくれた。


 そんな気持ちが顔に表れていたのか、食事中にロエンが話しかけてきた。


「何か良いことでもありましたか?」

「はい!」


 珍しく素直に答えたティアを目の前の男がどんな目で見ていたのか、昼間の出来事を思い出して幸せな気分に浸っていたティアは知る由もなかった。









 夜、入浴を済ませたティアは部屋でのんびり過ごしていた。特にすることもなく朝も早い。早々に就寝しようかと考えていると、部屋の扉が控えめに叩かれた。既に夜着に着替えていたので、薄手の上着を羽織ってから扉を開く。そこにいたのはセバスチャンだった。盆の上に葡萄酒の瓶とグラスを載せている。まさか差し入れではないだろう。にっこり笑っている家令に、嫌な予感がして一歩後ずさる。


「起きていましたね、ちょうど良かった。これをロエン様の寝室に運んでくださいませんか。」




 ロエンの寝室は廊下の一番奥に位置している。ティアの部屋からそう離れていないのだからセバスチャンが持って行ってもいいだろうに、あの笑顔は絶対に何かあるはずだ。盆を持つ手が震えた。部屋の前で深呼吸をして扉を叩く。


「……入れ。」


 いつもより3倍は低い、くぐもった声が返ってきた。ものすごく不機嫌なようだ。正直すごく怖い。寝ていたことにして帰りたい。セバスチャンが押し付けた理由が分かった気がした。

 出来るだけ存在感が無いように、小さな声で失礼致しますと声を掛けて入室した。ロエンの部屋に入るのは初めてだが、まずティアの部屋にあるそれよりも巨大なベッドが目に入った。……何人が寝られるだろう、村で住んでいた小屋よりも大きいのではなかろうか。

 そして肝心の部屋の主はこちらに背を向け、これまた大きな長椅子に座っていた。ティアは心の中で歓喜した。これなら気付かれずに退室できるかもしれない。あとはテーブルの隅に、こっそりお酒を置いて立ち去ればいいだけだ。忍び足で回り込み、ロエンがこちらを向いていない隙を見計らって盆を置く。本当なら盆は持って帰らねばならないが、今はそんなこと言っていられない。

 ティアは添えた手をそっと引こうとした。が、


「ひゃあ!」


 筋肉質な逞しい腕が、ティアの細い腕を掴んでいた。驚きのあまり変な声が出た。おそるおそる顔を上げると、なぜかロエンは目を丸くしてこちらを見ていた。どうしてこの人が狼狽しているんだ。


「なぜ、ここに……。」

「お酒を、持っていくように頼まれまして。」

「……ああ、セバスですか。」


 ロエンはため息をついて空いた方の手で頭を掻いた。自分の顔を見るたびにため息を吐かれている気がする。

 掴まれた腕を何気なく振り払おうとするが、びくともしなかった。逆に掴む力がどんどん強くなっているような気さえした。恐怖で足が竦んでしまう。このまま折られたらどうしよう。


「あの、私これで失礼致しますから……!」

「待ってください。」

「……っ!」


 次の瞬間、ティアはロエンの両腕に包まれていた。何が起こったか理解できず、とりあえず目の前の顔を見上げる。深く、黒い瞳が真っ直ぐに自分を見ていた。

 なぜこんなに近いのか。顔をそらして俯くと、剥き出しの厚い胸板が迫ってきた。触れていないのに体温が分かりそうなほど近い。もしかしたら既にくっ付いているのかもしれないが、それすらも分からない。大体どうしてこんなに肌が見えているの!

 単にロエンも寝巻を着ていただけなのだが、混乱するティアには考えもつかなかった。ただ、露出した主人が侍女に襲いかかってきたのだと思っていた。


「どうか、ここにいて下さい。」


 甘い囁き声が耳を撫で、なんとも言い表し難い感覚が全身をめぐり、身体が熱くなる。

 長い指が顔の輪郭に沿って置かれた。


 いくらご主人様でも耐えられない!ティアは叫んだ。


「離しなさい、変態!!」




 叫んで暴れ、ようやく離してもらったところでテーブルに空の酒瓶が何本も転がっているのに気付いた。ロエンは酔っていた。6年前にも同じようなことがあったのは思い違いではないだろう。相変わらず酒癖が悪いようだ。

 長椅子の端に座り、ティアは主人の晩酌に付き合うことになった。逃げようとすると退路を塞がれるからだ。代わりに自分に近づかないように釘を刺すと、素直に頷いた。大の男が仏頂面で頷いても全然可愛くない。しかもこちらを睨み付けるようにして愚痴を言い始めた。すこぶる面倒くさい。適当に聞き流しながら自分のグラスを傾ける。成人してからも滅多に酒を飲むことはなかったので、あまり良し悪しは分からなかった。けれどかなり高級なものなのだろう、口に含むと華やかな香りが鼻に抜けていく。飲みやすいのでごくごくと飲み込んだ。


「今日、グレンと会ったそうですね。セバスから聞きました。大層楽しげだったとか。話は盛り上がりましたか。まあ奴はよく口が動きますから。」


 ロエンは酔うと饒舌になるらしい。しかしあの家令見ていたのか、サボっているのを見ていたのか。明日の仕事はいつもより大変になりそうだ。


「何を考えているのです。……グレンのことですか。彼とそんなに仲が良いとは存じ上げませんでした。」

「久しぶりに会って話をしただけです。」

「本当にそれだけですか。ティア様は頬を染めて微笑んでいたそうではないですか。もしや彼を好いているのでは……」

「グレンはそんなんじゃありません!いい加減にして下さい!」


 あの家令は何を報告しているの!

 ティアは主人を怒鳴りつけたことに気づいていたが、その事実を無視することにした。相手は酔っ払いだ、明日になれば今夜のことは忘れているだろう。本来ならもっと慎重になるのに、自分も久しぶりに飲んで酔っているのかもしれなかった。


「グレンは呼び捨てなのですね。私のことは名すら呼んで下さらないのに。」

「はい、ロエン様ですね。ロエン様とお呼びします。」


 頭が回っていないのが自分でも分かる。よく考えずに、思いついた言葉がそのまま口から飛び出してくるのだ。それでもロエンはちょっとだけ仏頂面を緩めたようだった。愛想が無いのには変わらないが。


「あと、私は変態などではありません。」


 どの口がそれを言うんだ、とティアは思った。

 これまでも酔っては侍女や娘たちに手を出していたんじゃないだろうか。6年前だって、何もなかったとは言え、まだ15歳だった幼気な少女に覆いかぶさってきた。あれからどんな気持ちを抱いてしまったのか、この男は知らないだろう。少女の純情な感情を弄んだ罪は重い。


「前科持ちが偉そうに言うんじゃありません!貴方、当分お酒は自重しなさい!」

「…………。」

「分かりましたか!?」


 ……流石に言い過ぎただろうか。急に黙られ、ティアの酔いも醒めていった。

 するとロエンは長椅子の上に身を乗り出して、ぐっと近づいてきた。慌てて逃げ腰で下がるが、既に端にいたのでもう後退するスペースがなかった。約束と違うと戸惑いつつ、腰を上げて背もたれに乗っかる。必然的に、ロエンが上段のティアに跪くような形になってしまった。


「……ようやく、私を見てくださいましたね。」

「え?」




 華奢な踵が掴まれ、黒い頭部が足に近づく。

 何か暖かくて柔らかいものが、爪先に触れた。


「一人の騎士として……。主人ではなく、私は貴女の…………。」


 吐息を感じて、それが唇だと知った。

 ティアはみるみる顔を真っ赤にし、声にならない叫びを上げながらそのまま椅子から落っこちた。結構な振動が部屋中に響いた。背中をしたたかに打ち付けてしまい、痛い。一体何なんだ。文句を言おうと立ち上がる。


「…………すー。」


 寝ていた。

 またしても既視感を覚えるのはなぜだろうか。




 怒りや恥ずかしさで頭から湯気が出そうで、ふらふらになりながら出て行こうと扉を開けた。振り向くとやはり同じ体勢で寝ている。そのまま寝てしまうと風邪を引いてしまうかもしれない。でも夏に入ったし、鍛えているから大丈夫かもしれない。

 ティアは暫し思案し、その場をぐるぐる回った後、ベッドからシーツを持ってきてロエンの肩にかけてあげた。こんな人放っておけばいいのに、どうしてこんなことをしているのだろう。裏切られたんだ、忘れたのか。いいえ、忘れていない。絶対に忘れない。……でも、馬車の中で介抱してもらった。だからこれは、借りを返しただけだ。


 ティアはもう振り返らず、静かにその場を後にした。



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