下女
鳥の鳴き声と柔らかな日差しで目を覚ます。刺繍のあしらわれた天蓋を見て、ティアは一瞬子どもの頃に戻ったのかと思った。起き上がって部屋を見渡すとやはりどことなく王宮の自分の部屋に似ている。けれどここはロエンの邸宅で、これから侍女としての生活が待っている。
ベッドから降りたティアは、備え付けられた鏡に映る自分を見て愕然とした。……汚れているのは知っていたが、それにしても酷い有り様だ。服は土や砂で汚れ、破れたり生地が伸びたりしている。肌は黒ずみ、髪の色もまだら模様で気味が悪い。流石にこの姿で仕えるわけにはいかないだろう。
ティアは部屋の戸棚を開け閉めして、できるだけ簡素な白い服を見つけた。何故か下着も揃っており、手に取るのは戸惑われたが、替えないわけにもいかないので拝借することにした。ちょっと過激な物もあってどぎまぎしてしまう。あんなに布の面積が小さければ下着として意味を成さないのではなかろうか。たが勝手に借りている身としてあまり文句は言えない。せめてご主人様の趣味ではありませんように、とティアは祈った。いくら命令とは言え変な性癖を持つ主を持つのは嫌だ。
それらをタオルで包み、音をたてないように廊下に出る。朝早いおかげかまだ誰も起きていないようだった。
なんとか浴室を見つけ、服というより最早ボロ布のようなそれを脱いで湯あみをする。あちこち青や黒の痣になっている身体が痛々しい。頭の天辺から足の爪先まで石鹸で磨き上げ、最後にもう一度湯を被ると茶色く濁った液体が溝を流れて行った。
濡れた身体を綺麗に拭き、持ってきた服に着替える。あつらえたように身体にぴったりだ。鏡に映った自分の顔は昨日会った弟と本当によく似ていた。染粉の色はすっかり落ち、金糸のような髪が肩のあたりで揺れている。紫の瞳を隠す重たい前髪が少し邪魔だった。
ティアは部屋に帰って荷物を置くと、すぐに廊下に戻った。勝手に服や浴室を利用したことを詫び、自分の仕事を教えてもらわなければならない。人がいそうな場所を探して階段を降りると美味しそうな匂いが漂っており、匂いの元を辿って行くと昨日のお爺さんがいた。
「おはようございます。」
「ああ、おはようございます。昨晩は眠れましたか?」
「はい、お陰様でよく眠れました。……あの、浴室と部屋にあった衣服を勝手に借りてしまいました。申し訳ありません。」
「そのことならお気になさらず、どれも自由に使って下さい。随分とさっぱりされたようで、爺には眩しく見えますぞ。」
はっはっは、と笑うお爺さんにつられてティアもほんの少しだけ微笑んだ。そのまま自己紹介をする。ティアが名乗ると、お爺さんはセバスチャンだと教えてくれた。皆にはセバス、と呼ばれており、やはりこの屋敷の家令を務めているらしい。何か手伝うことはあるか訊ねると近くの部屋に案内された。誰もいない食堂だった。大きな長いテーブルの上にパンやスープ、たくさんの果物が置かれている。思わず腹の虫が鳴り、ティアは顔を赤らめた。
「色々聞きたいこともあるでしょうが、とりあえずは朝食にしましょう。」
よく考えると久しぶりの食事だった。1日以上何も口にしていない。ご飯を食べ、風呂に入り、ベッドで眠れるというのはこんなに幸せなことなんだ、温かいスープを口にしながらしみじみ思う。しかしこの先また何が起きるか分からない。どんな辛い仕事が待っているのか、ティアの心から不安が消えることはなかった。
「ロエ……ご主人様は、どちらにいらっしゃるのでしょうか。」
「ロエン様は騎士団の仕事でお出かけになられました。」
それを聞いてほっと息をついた。ロエンと顔を合わせなくて済むのは嬉しい。しかしこんなに朝早くから出かけるとは、仕事熱心なのは相変わらずのようだ。これほど立派な屋敷を建てられる位だから、さぞ出世したんだろう。
そんなティアの思考を読み取ったようにセバスチャンは口を開いた。
「ロエン様は現在隊長として、部隊を統括していらっしゃいますよ。」
「隊長ですか?」
「はい。精鋭ばかりを集めた最強の部隊と聞いております。加えて人を寄せ付けない凛としたあの美貌。孤高の騎士として世の女性の話題をユリス陛下と二分していらっしゃいます。爺は……爺は誇らしいですぞ!」
人を寄せ付けないのではなく、皆近寄りたがらないだけでは……とティアは思ったが、主人の素晴らしさを熱弁するセバスチャンには何も言えなかった。6年前が18歳だったから、24歳で隊長ということになる。かなり若い隊長だ。同期では出世頭だろう。しかし昔からそうだが、ロエンが女性から人気があるというのはやはりよく分からなかった。あの仏頂面は美貌と言えるのか。ユリスも昔は可愛かったが、昨日の顔は思い出すのも恐ろしい程狂気に満ちていた。最近の女性の好みは怖い顔なのだろうか、もしくは自分以外の人には爽やかな笑顔を振りまいているのだろうか。ロエンはともかく、ユリスには恨まれているからきっとそうなのだろう――ティアは一人沈んだ。
「ところでティア様の処遇についてですが、」
主人自慢の途中、いきなり真面目な話をし出したセバスチャンはなかなか油断ならない人物のようだ。食事の手を止め、姿勢を正す。家令はティアの顔をじっと見つめた。
「邸宅から出なければ、自由に過ごして良いと聞いております。」
「はい……え?」
話が違った。自分はかつての従者の下でこき使われるのではなかったのか。思えば昨夜からのティアの扱いは客人に対するそれのようだった。元王女など何の役にも立たないから適当に軟禁でもしておけばいいと思っているのだろうか。ロエンが何を考えているか分からないが、彼の思惑通りに過ごすのは嫌だし、誰かに頼って生きていくのももううんざりしていた。
「私は、陛下にロエン様の下女となるように言われてこちらに参りました。」
「知っております。ですが、そうする必要はどこにも無いと……。」
「これまで小さな村で一人暮らしてきました。私は何もできないお嬢様ではありません。侍女としてお手伝いできることは必ずあると思います。どうか、働かせていただけませんか。」
「…………わかりました。そこまでおっしゃられるなら。」
爺は結構厳しいですぞ、と口角を上げる家令にティアは大きく頷いた。
セバスチャンは本当に厳しかった。朝食を済ますと徹底的に食堂の掃除をさせ、広い廊下を隅から隅まで掃くよう命じ、それが終わると屋敷中の窓磨きが待っていた。途中の昼休憩では鋏を借りて邪魔な前髪を短く切った。ティアはあっという間にクタクタになったが、忙しさで考える暇がなくなる位がちょうど良いと思った。
夕方が近づいてくると使用人の仕事も落ち着き、ティアは戦場と化した厨房で野菜の皮むきを手伝っていた。料理長の大声が響くたび、一緒に作業をしている見習いの男の子が怯えて背中を丸める。どんどん出来上がる料理はどれも色鮮やかで食欲をそそった。主人が食べ終わった後に使用人の皆で分けて食べるらしく、ティアもそれに倣うことにした。
人参やジャガイモなどたくさんの野菜の皮を剥き終えた。後はトマトのヘタと芯をくり抜く作業が残っていて、見習いの子を真似てナイフを回してみるのだがどうしても実がつぶれてしまう。ティアが四苦八苦していると、またしても料理長の怒声が響いた。今度は自分が注意されたのかと思ったが、どうやら水が足りないらしい。水汲みは見習いの仕事だ。だがトマトの下準備も早く終わらせる必要がある。青い顔になった少年が気の毒で、ティアが代わりに水汲みを引き受けた。
井戸は屋敷の裏にある。夕暮れが作る長い影がティアと一緒に軽快に動いた。水桶を井戸の中に落とし、水面に着いた音がしたら引き上げる。取り上げた水桶から持ってきた手桶に水を入れ、同じことを繰り返す。汲むのは簡単でも持ち帰るのは重労働だろう。けれどのんびりもしていられない。少年が怒られる前に戻らなければ。
「何をなさっているのですか。」
ふいに後ろから声がかかったので振り向くと、帰宅したロエンが佇んでいた。手を止めて礼をする。
「……お帰りなさいませ。水を汲んでおります。」
「それは見ればわかります。なぜ使用人のようなことをなさっているのか、と聞いているのです。」
「私は、下女ですから。」
それ以上この場に留まりたくなくて、ティアは手桶を持って歩き出した。満杯ではないがこれだけあれば足りるだろう。重たさで足元がふらつき、それ見たロエンが腕を差し出してきた。
「お貸し下さい。」
「やめて下さい、これは私の仕事です。」
「貴女の細腕では大変でしょう。」
「っ、大丈夫ですから!」
ロエンが無理やり手桶を持とうとするので、意地でも渡すまいとティアは強く抵抗した。結果桶の中身が揺れ、外に零れた冷たい水がロエンの脚を思いっきり濡らしてしまった。一瞬の沈黙が下りた後、深く頭を下げ非礼を謝罪したが、ロエンは何も言わず大きなため息をつくとその場から立ち去って行った。怒ってしまったのだろう。自分は侍女だから下仕事をするのは間違いではないのに、なんだか胸が痛んだ。
厨房に戻ると、見習いの子に大げさなくらい感謝をされた。料理も大方出来上がったようで、料理長の声も落ち着きを取り戻している。ティアが皿を運ぶのを手伝おうとしていると、入り口でセバスチャンが手招きをしていた。
「なんでしょうか。」
「ロエン様があなたをお呼びです。」
ロエンは食堂にいた。料理人たちが丹精込めて作った夕食が並ぶテーブルの前に座り、相変わらず怖い顔をしている。絶対にさっきのことを怒っているんだ、とティアは震えた。
「ティア様。」
「は、はいっ!!」
怒鳴られることを想定して目をつぶって構えた。……が、何も言われない。
「どうされましたか。早く席に着いて下さい。」
長期戦で来るつもりのようだ。確かに昔もグダグダ長ったらしく説教をするのが好きな男だった。正面に座るように言われ、大人しく従う。食べものに近づいた分、余計に空腹を実感した。ロエンは料理に手を付け、どんどん腹の中に収めていく。この邸の主人だから食事をとるのは当たり前だが、お腹が空いた人間の前でご飯を食べるというのはある種拷問だ。……もしかしてこれが説教の代わりなのだろうか、だとしたらとんだ悪趣味だ。
ティアがテーブルの下でこぶしを握っていると、ロエンが怪訝な顔をした。
「あまりお腹が空いておられないのですか。」
「とても空いています。」
「……ではなぜ召し上がられないのですか。」
「私は後でいただきますので。」
「目の前に用意してあるではないですか。」
「これはご主人様のものですから。」
食べ物への恨みを抑えて笑顔で応えると、ロエンはまたもや大きなため息をついた。人の前でため息をつくのは失礼だと知らないのかしら?眉間に青筋が浮かぶ。空腹のせいもあるが、ロエンを前にすると怒りやすくなっているのかもしれない。
「もしかして、まだ自分は侍女だと思っておられるのですか。」
「その通りですが何か違いますか?」
「……夕食は、私と一緒に取るようにして下さい。」
何を言っているんだろう。主人と下女が同じ食卓につくなど考えられない。それを伝えると、ロエンは首を横に振った。
「かつての貴女は、ただの護衛だった私と食事を共にして下さいました。」
「……騎士と下女では、立場が違います。」
「なら主人の命令だと言えば、受け入れて下さいますか。」
何も言い返せなかった。視線で促され、嫌々ながら従う。どれも非常に美味しいのだろうが、気まずい雰囲気の中では味がよく分からない。濃厚なソースが胃に重たいくらいだ。ティアはとにかく早く食べることだけに集中した。肉がとろけるほど柔らかく、あまり噛まないですむのは好都合だった。
やっとのことで食事を終えると、ロエンは優雅に食後のお茶を楽しんでいた。もういいだろう。愛想笑いを浮かべて立ち上がる。
「お食事ありがとうございました。私はこれで失礼致します。おやすみなさいませ、ご主人様。」
「……おやすみなさい。」
侍女として働くことを望んだのは自分なのに、いざ命令を下されると憂鬱な気分だった。
慣れる日は、いつか来るだろうか。