窮地
暴力・暴行の描写が含まれますので、苦手な方はご注意ください。
頭をすっぽり覆うように上衣を身に着け、念のために懐に小刀を忍ばせた。使う機会が訪れないことを祈る。月は雲に隠れ、松明の明かりだけが頼りだった。二人は急ぎ足で駆ける。
「いつから姿が見えなくなったの?」
「夕食を食べて部屋に戻った後は見ていないからはっきり分からないの。ダニーの友達にも聞いてみたけど、遊びには来てないって。」
マリーは酷く心配しているのだろう、赤い炎に照らされても顔が青いと分かる。いつもケンカばかりだがやはり姉弟なのだ。そう思うとティアは少し胸が痛んだ。
小屋から学校への道の片側は森の入り口になっており、この先に騎士団がいると思うとティアは背筋が凍るようだった。誰もいないのに、じっと監視されているような気さえする。
家から近いこともあり、学校へはすぐに辿り着いた。鍵を探し、期待して扉を開けたが中には誰もいなかった。今日は授業の途中で広場に向かったので机には子どもたちの私物が残ったままだ。ガランとした室内を眺めてマリーは項垂れた。
「もう、どこに行っちゃったのよ。」
マリーはティアが鍵を掛けている間も建物の外で辺りを見回している。焦って手元が震え、なかなか鍵がかからない。痺れを切らしたようにマリーが言った。
「なんだか森の奥で誰かが動いたように見えたわ。私、行ってくる。リディアは村の方をお願い!!」
止める暇もなく走り去ってしまい追いかけようと思ったが、やはり騎士団に近づくのは恐ろしいので言われた通り村の中を捜すことにした。
ダニーは案外あっさりと見つかった。学校から村への帰り道を一人歩いていたのだ。ティアの家とは方向が違うのですれ違わなかったのだろう。ぽかんとした表情を浮かべる生徒に安心して力が抜けた。
「先生、そんなに慌ててどうしたの。」
「貴方を捜していたの。マリーと、お父さんとお母さんもよ。」
「ホント!?」
「こんな時間に何をしていたの?」
ダニーは持っているものを差し出した。松明はマリーが持って行ってしまったので暗くてよく分からない
「宿題だよ。……頑張らないと、議会には入れないんだろ。」
「帝国軍に入りたかったんじゃないの?」
「今日騎士団の人達来ただろ?なんか、想像してたのと違ってさ。もっとカッコいいと思ってたよ。」
確かに昼間の彼らは任務を遂行するためとは言え、いたく荒っぽいやり方をしていた。抵抗できない民衆に脅しをかけるなんてもっての外だ。ウィルノア騎士団は腐敗してしまったのか、それともティアが知らないだけで昔からああだったのだろうか。王宮にいた頃の騎士達は日々鍛錬に勤しみ、忠義を持って仕え、王家や市民を守っていたのに。
「……いるよ。カッコいい騎士。」
「え?」
「今日の人達はあんまりだったけど、勇気があって、とっても強くて、いつも誰かを守っている…そんな騎士も、きっといるよ。帝国軍の兵士にもそういう人いるんじゃないかな。もしいないのなら、ダニーがなればいいわ。」
「……ありがとう先生。俺、頑張るよ。」
マリーに報告するため、手をつなぎ二人で道を戻った。子どもの温かい体温が心地良い。
森の近くまで来たがマリーの姿は見えなかった。本当に奥まで入っていったのだろうか。二人でマリーの名を呼ぶが返事はない。
「松明を持っていたし、森の中にいたら明かりが見えるはずなのだけど。」
「もう家に帰っちゃったのかも。」
ダニーはそう言うが、あれだけ必死になっていたのだ、まだ捜索を続けているだろう。森でなく他の場所にいるのかもしれない。ティアはとにかく早く森から離れたくてたまらなかった。小さな手を引いて踵を返そうとする。
「村の方に戻って、」
「キャー!」
突如、静かな夜を裂くようにマリーの悲痛な叫び声が響き渡った。声が聞こえてきたのは森の方だ。ダニーと一緒に走り出す。暗闇の中を駆けるので木の枝や葉に何度もぶつかった。雨でぬかるんだ地面に脚を捕られつつもなんとかマリーの元へ辿り着くと、他にもう一つの人影があった。マリーが持っていた松明は地面に落ちて消えかかっていたが、残った微かな炎が辺りをぼんやり照らし、異常な光景が浮かび上がる。
マリーは地面に組み敷かれ、騎士に襲われそうになっていた。ティアは思わず叫びそうになった口を手で塞いだ。
「せ、せんせい。姉ちゃんが……。」
今にも姉の元へ飛び出して行きそうなダニーを両腕で引き止めた。相手は訓練を積んだ兵士で、武器も持っているかもしれない。女や子どもが敵う相手ではない。
「そんな、黙ってなんていられないよ!助けなきゃ!」
「だめよ、村の人を呼んできましょう。」
「なら先生が呼んできてよ!俺は姉ちゃんを助けるんだ!!」
そうこう言っている間もマリーは必死に抵抗し、泣き叫んでいる。とても聞いていられない。
『いつか私だけの王子様が迎えに来てくれて、そんな素敵な恋をしたいなあって。』
昨日のマリーの言葉が頭を過ぎる。
『そんな凄い人じゃなくていいから、私のことを心から想ってくれるような、そんな人といつか出会えたらいいなって。』
そう言って少女は笑った。今、まさにその想いが破られようとしている。かつてティアの淡い想いが切り捨てられたように、いや、それよりも惨い形で。
「……ダニー、急いで村の人を呼んできて。私がマリーを助けるから、大丈夫。」
ティアは前へ飛び出した。すぐ後ろで、子どもが駆けていく音が聞こえた。
華奢な女でも、勢いをつけてぶつかればそれなりの重さになる。相手が油断していれば尚更だ。ティアは思いっきりマリーの上の騎士を突き飛ばした。
「うわっ!」
衝撃を受けた騎士は横に倒れ、ティアも跳ね返って尻餅をつく。騎士は鎧を着たままだったので相手とぶつかった箇所が痛んだ。明日にはあちこち青くなっていることだろう。
「マリー、大丈夫!?」
慌てて傍により手を貸して起き上がらせる。衣服はそれほど乱れておらず安心したが、右頬が赤く膨れていた。抵抗したので殴られたのだろう。真っ赤に泣き腫らした目も痛々しい。ティアは怒りがふつふつと込み上げてくるのを感じた。
「いって、何すんだよ!」
「こっちの台詞よ!王国騎士団がこんなことして恥ずかしくないの!?」
マリーを背に庇いティアは吠えた。男は煩わしそうに頭を掻く。よく見れば昼間に恋人はいるかとふざけたことを訊ねていた男だった。
「その女が誘ってきたんだよ。」
「わ、わたし、そんなこと……!」
後ろで震える彼女を見ずとも大きな涙を零しているのが分かる。そして彼女がそんなことをするはずがないと知っていた。目の前の相手を殴りたいと思ったのは生まれて初めてのことだった。
「そんなわけないでしょう、この変態!最初からこの子に目をつけていたくせに!」
「な、なんだと!!」
「おい、どうした。」
木々をかき分け、奥から更にもう一人の騎士が松明を持って歩いてきた。一気に辺りが明るくなる。騎士は泣きじゃくるマリーにちらりと目をやると大きなため息をついた。
「お前またこんなことやってたのか。後でどやされるぞ。」
「ばれなきゃいいんだよ。」
二人を相手にするのは分が悪すぎるので、男達が話し始めたのを見てティアはこっそりその場を離れようとした。だが目ざとい男がそれを見つけ、マリーの腕を取り自分の方へ引き寄せた。
「いい加減やめとけって。」
「半年も任務に就いているんだ、ちょっとくらいお楽しみがなきゃやってられねーよ。お前だって本音はそうだろ?それにここはウィルノアじゃない、上に気づかれやしないさ。」
男の甘言に騎士はごくりと唾を飲みこむ。舐めまわすような視線を受け、ティアは嫌悪感で叫びだしそうだった。馬鹿な同僚に誘惑されるんじゃない、しっかりしろ、そう訴えかけるが効果もなく、じりじりとにじり寄られる。視界の端ではマリーが必死に抵抗していた。大きな男の手がティアにも伸びてくる。
「っ、汚らわしい!離しなさい!」
思わずその手を振り払うと、男は笑った。
「まるで貴族のお嬢様みたいな反応だな。」
嫌な汗が背中を流れた。怒りのあまり自分の正体をすっかり忘れていた。ダニーはまだ戻ってこないのだろうか。
そうして他に気を取られていたからか、騎士の手がついにティアを捕らえた。腕を振り回して抵抗するがそれもあっさり掴まれる。ティアは空いていた右手で懐に手を入れ、短剣を握った。正しい使い方など知らないので何も考えず思い切り振りまわす。騎士の鎧に触れ、金属と金属がぶつかる音がした。
「おっと、そんな物騒なもん持ってたのか。こいつ刃物なんか持ってるぞ!」
騎士がもう一人に呼びかけると、マリーを置いて面倒そうな顔でこちらへ歩いてきた。男の背後の彼女は泣きながらこちらを見ている。ティアは叫んだ。
「はやく、逃げて!!」
鞘を抜いたナイフを大きく振りかぶった。油断して近づいてきた騎士の顔を鋭い切先が触れる。その隙にマリーはふらふらと走り去って行った。
「舐めた真似しやがって!」
腕を強く叩かれたティアが短剣を落とすと容赦なく腹を蹴られた。軽い身体は後ろに跳び、ぬかるんだ地面を滑る。筋肉など付いていないので衝撃はまっすぐ内臓へ伝わり、痛みで息が出来ず蹲ってしまう。騎士は無理やり仰向けにさせると、胸元を掴みそのまま乱暴に引き下げた。
男の頬の傷から生ぬるい血がティアの顔に落ち、いつの間にか降り始めた雨でその赤が滲む。興奮し瞳孔が開いた男の顔が恐ろしくて見ていられず、自分の両腕で顔を覆った。
「やっと大人しくなったな。おーおー、田舎娘が大層なもんつけやがって。」
首の後ろが引っ張られる感じがすると、ブチっと何かが千切れる嫌な音がした。ハッとして顔に乗せていた腕を退ける。男はペンダントを手に持っていた。
「返して!」
「嫌だね。ほらよ。」
母の形見はティアから離れ、傍観していたもう一人に投げられた。受け取った騎士はしげしげとペンダントを見る。
「へえ、随分と立派だな。裏にはどこかの紋まで入っているぞ。……うん、いや待て。これは、」
「なんだそんな値打ち物なのか?」
「これは……カークランドの家紋じゃないか!女、なぜこれを持っている!」
答えようと口を開くがどう言い訳すればいいのか、言葉が出てこなかった。騎士たちはそれを怯えて声が出ないと勘違いしているようで、顔を見合せていた。絶体絶命だった。
しかしその時、複数の足音が泥を踏み鳴らし、ティアの名を叫んだ。