襲来
厚い雲がかかり、雨が降る前のあの独特の匂いがしていた。じめじめとした空気が身体にまとわり、なんとなく不快な気分だ。昼前には降り出すだろう。
その日の授業は「社会」だった。政治の話は苦手な子が多い。ノートを開いて前を向いていても、頭は眠っている。授業はまだ始まったばかりで、終わるころにはたくさんの舟が漕がれていることだろう。
「ガイナ帝国は帝国議会と元老院によって治められていることは皆さん知っていると思います。それぞれのメンバーの選定方法を知っている人はいますか。」
「はい。元老院は貴族の家から一人ずつ代表が出て、議会は貴族じゃなくて選挙によって選ばれます。」
一番前に座っている女の子が答えた。彼女は村長の孫で、非常に勉強熱心な子だった。ティアに褒められ嬉しそうにはにかむ。
「その通り。ガイナ帝国は貴族だけでなく市民にも広く政治の門戸を開いている点で非常に先進的だと言えるでしょう。帝国議会の議員は、頑張ればみんなもなることができるのよ。」
「えー俺には無理だなー。それより俺、帝国軍に入りたい!」
ダニーの発した帝国軍、という単語に男の子たちの頭が上がった。
「帝国軍カッコいいよな。」
「俺、隣街で一回見たことある!」
「俺はアンナ達の傭兵団に入れてもらいたいかな。」
そういうものに憧れるお年頃なのだろう。微笑ましいが授業は進まないので、話を続ける。
「政を司る議会と元老院、軍事を握る帝国軍。その全てを統べる存在が皇帝陛下です。皇帝は代々皇帝家の血筋の中から選ばれており、」
その時、教室の扉を叩く音が響いた。つまらなそうな顔をしていた子どもたちが一斉に音の方を向く。遅刻してきた生徒かと思ったが今日はもう全員来ている。ティアが近づいて木の扉を開くと、生徒の母親が一人立っていた。
「どうかされましたか。」
「お母さん!」
村長の娘さんだ。駆け寄ってきた娘の頭に手を置き、困惑した顔でティアに言った。
「父が村人全員を広場に集めるように、と。よく分からないけどどなたかいらっしゃったみたいで。」
「子どもたちもですか。」
神妙な顔で頷かれたので、教室の方を振り返って子どもたちに外に出るように促す。なんだなんだとお喋りをしながら皆が出たところで鍵をかけた。
とうとう雨がぱらつき始めた。ティアは頭を濡らさないように上衣のフードを被り、子どもたちを連れ広場に向かった。妙な胸騒ぎがしていた。
広場には既に多くの村人が集まっていた。つい先日アンナ達が帰ってきた時の光景と同じだが、何が起きているかわからないとう点が違っていた。
中央では村長の息子が皆に詰め寄られていた。話の内容は大半が仕事中だという不平不満のようだ。しかし肝心の村長の姿は見えない。狩りや仕入れで村の外に出た男たちもまだ戻っていなかった。
「一体なんだっていうんだ。」
「それが武装した男達がやってきたらしい。今は村長の家で何か話をしてるって。」
「それ、例の賊じゃないのか?」
近くの男たちの話が聞こえてきてティアや子どもたちは不安を募らせる。母親達はそれぞれの子どもを迎えに来ていた。
すると村長が現れた。隣には槍や剣を携え、鎧を纏った男達がいる。見慣れない兵士たちにざわめきが広がった。
「嘘でしょう…」
忘れもしない、ウィルノア王国騎士団だった。一個小隊ほどの人数だ。なぜガイナ帝国に他国の兵がいるのか。だが困惑したのはティアだけではなかった。ウィルノアの兵だと分かると途端にヤジやブーイングが飛ぶ。これは侵略ではないのか、誰かがそう叫んだ。村長は大きく手を挙げて村人を諌める。声が通るほどの静けさを取り戻すのを待ち、口を開いた。
「まあまあ、皆落ち着け。何やら人を捜しているらしい。謝礼も既に頂いた。協力してやってくれ。」
「貴殿らに危害を加えるつもりはない。帝国からの許可も得ている。」
「なんだ、お姫様でも逃げたかー。」
おちょくるような村人の発言に笑いが起きた。ティアは全く笑えず、一人だけ顔を引き攣らせた。
「…捜しているのは重罪人だ。くれぐれも抵抗はしないことだな。」
騎士達の腰元の大きな剣がガチャリと鳴り、村人は笑うのを止めた。明らかに脅しだ。村長も同じように命令されたのだろう、冷や汗を浮かべている。ウィルノアが誇る王国騎士団が民衆を脅すなど以前では考えられないことでティアは愕然とした。
「女だ。女は全員一列に並べ。」
村の女たちは抵抗せず、静かにいくつかの列を作った。ティアもフードを被ったまま並ぶ。雨足は強まってきており、他にも帽子やフードを被った者もいたので不自然ではなかった。騎士が一人一人顔を確認し始めたので首からかけていたペンダントを服の下に隠した。捜しているのがティアでなくとも存在がばれれば連行されるだろう。雨ぐらいでは髪色も落ちない。大丈夫だ。身体の震えをグッと抑え、静かに順番を待った。
「次、フードを取って顔を良く見せろ。」
「はい。」
言われたとおりにする。長い前髪の向こうで騎士がジッと見つめるのが分かった。しばらくそうすると次の女性の確認に移っていく。ティアだとは分からなかったようでほっと息をついた。
「ん?お前…」
すぐ後ろで騎士が立ち止り、マリーと向かい合っていた。
「ブロンド、とは少し違うか。…お前、恋人はいるか。」
「えっ、い、いません。」
「ふむ、よし行っていいぞ。」
解放されたマリーがティアを見つけ、駆け寄ってきた。後ろで騎士の顔が微妙ににやけている。きっとマリーが好みだったのだろう。可愛い妹分がちょっかいを駆けられる前に、と腕を取って人ごみに紛れた。
お昼を知らせる鐘が鳴ったころ、全員の確認が終わったらしい騎士達は去って行った。同時に村人も解散し、それぞれ昼食を食べに行く。ダニーは騎士の後ろ姿をジッと見つめていた。
「あの人達、今夜は森で野営するんだって!」
「ダニー、分かってると思うけどあの人たちに近づいちゃダメよ。あんたのことだからどうせ騎士カッコいいとか思ってるんでしょ。」
「ちゃんとわかってるよ。あーあ、説教ババアはうるさいなー。」
「なんですってー!」
雨は当たると痛いほど強く降っている。二人をなだめ、風邪を引く前にそれぞれ家に帰って行った。
あれほど降っていた雨は夜になりぴたりと止んだ。いつも聞こえる村人の生活音も聞こえない。騎士を恐れ、皆家に籠っていた。
かくいうティアも家に戻ってからは一歩も外に出ず、しっかり戸締りをして早めに消灯していた。落ち着かない気分でシーツに包まる。瞼を閉じても目は冴えたままだった。
騎士団は誰を捜していたのか。重罪人、女…。騎士の言葉がぐるぐると頭を廻る。マリーを見てブロンドではない、とも言っていた。すべて自分に当てはまる。まさか本当にティアを捜しているのだろうか。でも、今更なぜ。もう6年も経っているのに。考えれば考えるほど動悸が激しく、苦しくなる。
―ドンドンドンッ
小さな小屋の扉が大きく叩かれ、驚き飛び上がる。ティアは身を固くし、息を潜めた。騎士だったらどうやって乗り切ろう、居留守を使おうか。枕元においていたアンナにもらった小刀をしっかりと握った。
「リディア、私よ!」
「マリー?」
聞きなれた声に慌てて扉を開けると、松明を掲げたマリーが焦燥した表情で立っていた。中へ招こうとすると縋りついてきた。
「ダニーがいないの!家族で捜しているんだけど見つからなくって、騎士の人たちのところには流石に行ってないと思うけれど…ここにいないのね?それじゃあ学校かしら…?」
子どもが一人で出歩くには遅い時間だ。何より昼間あんなことがあった。心配になるのも無理はない。
学校の鍵は早く来た生徒から開けられるように教室の外に隠してある。外を歩くのは躊躇されたが、泣きそうなマリーを見て意を決し小屋を出た。
ようやくタイトルが決まりました。仮題はしばらく残し、完結後に削除したいと思います。




