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ありし日の想い

 いつものように授業を終えたティアは、生徒たちを見送ってから帰路についていた。学校から歩けばすぐにポツンと佇む小屋が見えてくる。周りに他の建物はなく、村の喧騒から離れた静かな場所だ。家というより納屋といった大きさだが、一人で暮らすには十分な広さだった。

 簡単に昼食を作り、昨夜の残りのスープと一緒に食べる。質素な食事にも随分と慣れた。教師という仕事はそれほど稼ぎが多い職業ではない。子どもたちの両親から感謝の印に差し入れを貰うときもあり、最初は断っていたが、それがこの村の礼儀だと知ってからは有り難く頂戴していた。


 使った食器を片づけてしまうと、ティアは籠を片手に家の外に出た。小屋をぐるりと半周すると庭が現れる。村の人に種や苗を分けてもらい、5年かけてたくさんの植物を植えていた。せっかくなので食べられるものを、とトマトやジャガイモも育てている。慣れない土いじりに最初は戸惑ったが、最近ではミミズにも素手で触れるようになった。ティアは初めてミミズに出会った時に大騒ぎしたことを思い出し、クスクスと笑った。

 花や野菜を避けて歩き、目的のものを見つける。ラズベリーだ。小さな赤い実をたくさんつけており、完熟したその実はまるで宝石のようにも見える。ひとつ、ふたつ採っては籠に入れ、それを繰り返す。

高く昇った太陽に照らされて、ティアは額にじわりと汗が浮かぶのを感じた。目に入らないように手の甲で拭い取る。華奢で傷一つなかった指は荒れ、すっかり村人の手となってしまった。肌の色こそまだ白いものの、これから夏が来れば健康的な色に焼けるだろう。

 籠が赤い実でいっぱいになると、太陽を避けるように家の中へ戻った。




 ラズベリーパイを作るため、鍋でジャムを煮詰める傍ら寝かせておいたパイ生地を取りだし広く伸ばす。一人でパイを作るのは初めてだ。どれくらいの薄さにするか忘れてしまった。せっかくだから美味しく作りたいのに。延棒を転がしながら悩んでいると、家の扉をノックする音が聞こえた。客が来るにはまだ早い。誰だろう。


「こんにちは!いい匂いがしたから釣られてきちゃいました!」


 扉を開けるとにっこり笑顔の可愛らしい少女がいた。明るい栗色の髪が、ある生徒を思い出させる。


「こんにちは、マリー。今日はダニーと一緒じゃないのね。」

「弟は友達と遊びに行ったわ。あ、これ。お母さんがね、パンが焼けたからおすそ分けにどうぞって。」


 マリーは両手に持っていた長いパンをティアに差し出した。感謝の言葉と共に受け取る。


「いつもありがとう。お母さんにも伝えて頂戴。」

「いえいえ、バカな弟がお世話になってますから。それより何の匂い? 甘くてとーっても美味しそう!」


 くんくん、と鼻で匂いを吸い込む様子が姉弟でそっくりなのでティアは思わず笑ってしまった。


「せっかくだから上がって行って。ちょうどラズベリーパイを作っているの。」




 その後、ご馳走するつもりが逆に作り方を教わり、ティアはマリーと一緒にパイ作りを行った。今はもう竈に入っていて焼きあがるのを待つだけだ。


「リディアって本当に何も知らないのね。前に火のつけ方が分からないって前に言った時は本当にびっくりしたわ。」


 思い出して苦笑する。それまでちょっとした料理はしたことがあっても、厨房で料理人に手伝ってもらいながらの作業だったため、そんな当たり前のことが分からなかったのだ。


「あなたここに来るまでどうやって暮らしていたの?まさかどこかの貴族の娘ってわけでもあるまいし…。」


 一息つくために入れた紅茶に砂糖を入れる。スプーンが震えないように気を付けるのが大変だった。マリーにミルクはいるか尋ねるとお願いされたので取りに行く。


「ねえ、それよりあなた昨夜どこにいたの?途中から姿が見えなかったけど…もしかして誰かイイ人がいるんじゃない?」

「そんな人いないわよ。昨日はアンナと一緒に話をしていただけ。」


 なーんだ残念、とマリーは項垂れた。今年で18歳、成人したばかりの少女は3度の飯より人の浮いた話が好きだった。ティアも彼女と会うたびに恋人はいないのかと聞かれている。


「リディアもアンナも結婚適齢期でしょ。それなのに好きな人の一人もいないなんて、嫁ぎ遅れたらどうするの!?」

「うーん、どうしようかしら。」

「リディアってば暢気すぎよ!!」


 マリーがテーブルをドンと叩くのでカップの紅茶が少し零れた。元気いっぱいだなあ、と興奮した彼女の顔を眺める。くりっとした瞳を睫毛が彩っていてとても可愛らしい。村の若い男達が彼女をデートに誘おうと意気込んでいるのをティアは知っていた。


「そういうマリーはどうなの。傭兵団の人に髪飾りをプレゼントされたって聞いたけれど。」

「なっ、どこでそれを!」

「あなたの弟が今朝話していたわよ。」

「あのバカー!!」


 頬を真っ赤に染め、涙目になってマリーはつぶやくように話し始めた。


「あれはなんていうか、前に怪我していたのを治療してあげたからそのお礼っていうか…別にそういうのじゃないから。でも、いつか私だけの王子様が迎えに来てくれて、そんな素敵な恋をしたいなあって。あっ、馬鹿にしてるでしょ。別に本物の王子様じゃなくっていいの。そりゃあ御貴族様のきらびやかな世界には憧れますけどね。でもそんな凄い人じゃなくていいから、私のことを心から想ってくれるような、そんな人といつか出会えたらいいなって。」

「…そうね。」

「えへへ、つい熱くなっちゃった。ごめんね。」

「ううん、いいの。私も、本当にそう思うわ…。」


 なんとなく気まずい雰囲気になってしまい、照れたマリーは大きな声で言った。


「そ、そういえばさ!話は変わるんだけど、そのペンダント、いつもリディアかけてるよね。誰からもらったの?」


 首から下げたそのペンダントはあの日母が身に着けていたものだ。特に変哲もないが、細かな意匠の刻まれたそれは見る人が見れば相当の値打ちのものだと分かるだろう。裏にはカークランド家の紋がしっかりと刻まれている。母から受け取ったその日から、今まで外したことはなかった。


「…これは、大切な人から貰ったの。」

「大切な人?」

「そう、大切な人…。」


 マリーも何か思うところがあったのか、それ以上訊ねることはしなかった。



 パイが焼け、取り出していると新たな来訪があった。アンナだ。もともとこのラズベリーパイもアンナのために作っていたものだ。


「きゃー、アンナさん!!」


 マリーは黄色い声を上げてアンナに抱き着いた。今日は長い髪を下ろしているのでいつもより女らしいが、それでも性を問わず絶大な人気を誇っているようだ。


「マリー、そういえば帰ってきてからまだ話していなかったね。」

「そうですよ、アンナさん昨日はリディアとずっと一緒だったって話じゃないですか。仲が良いにも程がありますよ。…まさかとは思うけど、あの噂って本当なんですか?」

「…私とリディアが、ってことを言っているのか?だとしたら教えられないな。」

「ええー!!」

「アンナ!」


 いつも静かな小さな小屋は、その日女三人の笑い声に包まれていた。

 



 楽しい時間が過ぎるのは早く、あっと言う間に夕暮れになった。帰り支度をしながらアンナが少し神妙な面持ちで切り出した。


「明日ここを離れることになりそうだ。なんでも最近、国境沿いに賊が出るらしい。」

「国境沿いって、ウィルノアとのですか?そういえば父も狩りに行ったときにおかしな連中を見たって言ってたかも。」


 マリーが思い出したように口にした。ティアは初耳だった。この村は間に深い森を挟み、ウィルノアと接している。2、3年前もそこに山賊が出たことがあった。


「ああ、今日村に来た商人も同じことを言っていた。以前と同じように私達で退治してしまおうという話になってね。数日で戻ってくる予定だ。二人も念のため用心しておくように。」


 そうだ、とアンナが上掛けを探り、手にしたものをティアに差し出した。短剣だ。鞘を取ると刀身が白く輝いた。


「特にリディアは女一人なんだ。護身用にこれを持っておくといい。」


 受け取ると思っていたよりズシリと重く、金属特有の冷たさが掌に伝わった。






 夜も更け、皆が静まり返ったころ。

ティアは鍵をかけた小屋の中で広めの桶に水を張り身体を洗っていた。髪を濡らせば透明な水が薄く茶色に濁っていく。閉め切った部屋の中でどこからか入ってきた月明かりが当たり、ぼんやりと本来の髪色を浮かばせた。

水の音だけが響く中、遠くへ思いを馳せる。6年の月日が過ぎても、郷愁の念が止むことはない。帰ろうと思ったこともあった。王女は死んでいない、ティアは、私は生きている。


―――ガタッ


 家の外の物音に、大きく震える。息を潜めても人がいる様子はない。しばらくして何かの動物の鳴き声が聞こえ、胸を撫で下ろした。


「こんなことで脅えてばかみたい。…帰れるはず、ないのに。」


 アンナ達傭兵団と旅をした1年間、ウィルノアは王女の皇位簒奪で話題が持ちきりだった。民衆の支持を集めていた分裏切られたと感じたものも多く、亡くなったことを手を叩いて喜ぶものもいた。それから5年が過ぎた。もはやその存在すら忘れられているだろう。それに例え生きて戻ったところで、改めて手にかけられ命を取られるのは目に見えていた。


 それに、また、あの人に刃を向けられたら。


 ティアは床が濡れるのも気にせず勢いよく立ち上がり、桶から出て服を着た。椅子に座り湿った髪を拭く。テーブルには食べきれずに残ったラズベリーパイが載っている。

 昼間、少女は素敵な恋をしたいと言った。あの頃の少女もそう願っていた。今はもう叶わない。

 濡れた髪から流れた雫が頬を沿い、そのまま床に落ちていった。




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