離別
ヒュン、と背後から矢が飛んでくる音がする。まだ追手との距離は離れておりティアの元まで届きはしなかったが、それも時間の問題だろう。震える手で手綱を握り、馬を走らせる。長距離を走り疲弊しているはずの馬も乗り手の意思を汲み取ったのか、全速力で駆けて行く。
道の先が二手に分かれているのが見え、ティアは崖の道へと進路を変えた。山道は馬車が通れるほどの幅があり、追いつかれ回り込まれると考えたからだ。対して崖に沿った道は馬一匹が通るのがやっとの狭さで、後ろから回り込まれるということはない。足元が崩れる恐れもあり、追跡の速度が緩むかもしれない。
「あと少し、お願いね。」
すっかり相棒となった彼、または彼女に声をかける。
どうかこの先にロエンがいますように。
祈るような気持ちで駆け抜けた。
高く切り立った断崖絶壁に臆することなくティアは進んだ。すぐ横の谷底には川が流れているようだ。余所見をしている段ではないので深さは見なかったが、以前通過した時はあまりの高さにヒヤッとしたものだ。激しい水の流れの音が響いている。馬が足を踏み外せば怪我ではすまないだろう。だが立ち止まってもそれは同じ。一歩でも速く、前へ進むしかないのだ。
「ハァ…ハァ…。」
崖下を流れる水の音と自分の荒い息が、やけに耳に付いた。
ついこの間も敵に狙われ、この道を駆け抜けた。その時は後ろにロエンがいて、怖かったけど、違う意味でドキドキしたりして、不謹慎だが少し楽しさもあった。それは彼が絶対に守ってくれると分かっていたから。今、後ろに寄り添える人がいないことがとても心細い。
道も中腹という所、追手との差が開いたのか自身の乗る馬以外の蹄の音が聞こえなくなった。このままどうかリコの村へ…、そんな思いを打ち砕くかのように前方に人影が見える。進路をふさぐように剣を構えるその姿は騎士のそれだった。もう山道から回り込まれたのだろうか。しかし相手は一人。無理矢理にでも押し通るしかない。できれば相手が怪我をしないように、と手綱を握る手に力が入る。
「ティア様っ!!」
その、声は。
「っロエン!!」
勢いがついていた馬を慌てて停止させる。目前で止まり、ロエンも剣を下ろした。兜を脱ぐと黒い髪に黒の瞳の精悍な顔が現れる。見慣れたそれがひどく懐かしく感じられた。こんな時でもロエンはいつもの仏頂面だ。安堵からか涙腺が緩む。
「ユリスが…倒れて、…わ、わたしの代わりに、うっ…母上が…母上が……。」
馬上の私にロエンが手を差し出した。珍しく、少し微笑んだような優しい表情をした彼に手を伸ばす。
「ロエン、たすけて、」
グサリと、近くで音が聞こえた。衝撃でティアは馬の背から崩れ落ちた。咄嗟にロエンが抱きとめる。背中が熱くて、どうしたのかと触れてみるとヌルッとした何かが手に付いた。確認しようと前へ持ってこようとするその腕をロエンが掴んだ。けれど、冷たい鋭器が刺さっていることをティアは知っていた。
「矢が…。」
不思議と痛みは感じなかった。強く抱きしめられ、目尻に溜まった涙が零れた。後方から馬の駆けてくる音が聞こえる。ロエンが何かを呟いたが、段々と大きくなるそれにかき消されて聞こえなかった。
「いたぞ、王女だ!」
「隣の騎士は…ロエンか?」
後ろを見ると、馬を降りた騎士達が剣や槍を構えていた。その中には先ほど街の前で立ちふさがった男もいる。片手に弓を持った彼はなにか高揚しているようだった。私を射たのは彼だろうか。
「あくまで王女の味方をするというのか。」
一人の騎士が歩み出た。格好からして隊長のようだった。
「見上げた忠誠心だが仲間とて容赦はせぬ。良いか。」
ティアは自分の身代わりとなった母を思い浮かべた。これ以上大切な人を犠牲にしたくはない。けれど生き残れる可能性が万に一つあるとすれば、それは目の前の彼を信じることしかない。そしてティアは信じていた。いつものように、ロエンが守ってくれるということを。
「この者は王子殿下を暗殺しようとした逆賊です。最早私の主君ではありません。」
一瞬、誰が発した言葉なのか分からなかった。目の前で開かれる口が何を言っているのか分からなかった。
ドサッと投げ捨てられる。顔を上げると、冷たい剣先が突きつけられた。
「生死は問わない。そうですね。」
「あ、あぁ。」
「ならばせめて、私の手で終わらせたい。」
黒の瞳がまっすぐに私を見ていた。太陽の光を受けて、キラリと刀身が光る。いつも私を守っていたその剣が今は私に向いている。どうして。なぜなのか。私を守ると、言ってくれたのに。頭も心も追いつかない。けれど死への恐怖から身体は後退する。後ずさると崖下から風が吹き上げてきて、もう後がないのだと知った。
「あなたの騎士であれて、私は幸せでした。」
大きく掲げられた剣が振りかぶられる。
『お願い、生きて。』
母の願いを叶えるために、ここで死ぬわけにはいかなかった。ティアは自ら深い谷に身を投じた。ロエンの顔は見えなかった。
落ち行く中、様々な情景が頭を過ぎった。王宮で家族揃って朝食をとったこと。授業を抜け出したユリスを叱って、落ち込んだ弟と夜は一緒のベッドで眠ったこと。父上と国の未来について熱く語ったこと。母の温かな腕に包まれてお茶をしたこと。ロエンを連れて色々な地方へ出かけて、多くの民と話をしたこと。これが走馬灯なのかもしれない。
ふと、最後に見たユリスを思い出した。
彼も同じ気持ちだったのだろうか。
信じていた人に、愛していた人に裏切られるということは、こんなにもつらく、胸が張り裂けそうだなんて。
父も、母も、弟も、ロエンもいない。
愛する人はみんな、私の側からはいなくなってしまった。
ティアはたった一人で、暗い谷の底へ沈んでいった。
一章完