あなたが見つけるのなら
『――私はあなたが嫌いです』
胸のうちだけで呟いたはずの言葉は、何度も何度も自分の中で反響し続けた。
嫌いなのに変わろうとする努力をしない、その癖、嫌いだという言葉は口にするのだ。
逃げてばかりいて、自分と向き合うこともしないくせに、一丁前に「でも」とか「だって」とか、「しょうがない」とか。そんな言葉を口にはできるのだ。
でももだっても、何個だろうが、何百個だろうが、何万個だろうが、そんな言葉をどれだけいい訳に使って並べようと、続く道なんてないのに。
それを分かっていながら、「でも」と「だって」とかを、私は永遠に使い続けるのだろう――。
* * * * *
『あなたが見つけるのなら』
私の遠藤くんへの気持ちが恋だと気付いたところで、変わる日常などなかった。
毎日、誰かに何かを頼まれて、休み時間だったり放課後にそれをやる。
それは水やりだったり、掃除だったり、日誌を書くことだったり――。
それを断る自分もおらず、止めてくれる人間もおらず、黙々と与えられたことをやった。
少しずつ、風に混ざってやってくる匂いは、雨の匂いだったり、夏の匂いだったりして。こういう風に、放課後の教室で一人で掃除やらをしてぼーっとしているのも悪くないと思った。
教室の窓から外の景色を見ると、いつでも楽しそうに談笑する学生達だったり、仲良く手を繋いでいるカップルだったりをつい見てしまっていた。
――自分には永遠に届くことのない景色なのだ、と。
少し目線を上げれば、青のコントラストが綺麗な空だったり、わたあめみたいにふわふわで真っ白な雲だったり、茜色に染まった空を見ることだってできるのに。
それを分かっていても、私はいつも俯いていてばかりだった。
「藤川ー」
ああ、この声は確か――。
誰を呼んでいるのだろうか。
決まっている、私じゃない誰かだ――。
「おーい、藤川?」
「うわああああぁぁぁぁっ!?」
「えっ、わっ!?」
自分の手に置かれた手にドキッとして思わず大声が出てしまった。
バックンバックン言ってる心臓に手を当てて振り返ると、こちらも驚いた顔をしている遠藤くんがいた。
「あっ、遠藤くん……」
「ごめん、驚かせた?」
いやー、俺も驚いたわー、と言って隣の開いた窓の枠に手をかける。
「あっ、えっと……ごめんね。その、ぼーっとしてたというか……」
楽しそうに下校している学生を見て、鬱になってたというか。感傷的になってたというか……。
「いやいやこっちこそごめんね。驚かせちゃって。藤川ってそんな大声出るんだなー」
「あー……、はい。出るよ、一応……」
「だよなー」
この人はなんだっていつも笑顔なのだろう。
そんなにも人生、楽しいものなのかと思ってしまう。
……そりゃあそうか。
友達もいっぱいいて……きっと、可愛い彼女もいるんだろうな……。好きという気持ちを相手に伝えられないどころか、失恋したこともないくらいなのではないだろうか。
――だから、こんなにも笑っていられるのではないだろうか。
「……遠藤くん、帰らないの?」
それなのに、私はそういう人に、こういう意地悪なことを言ってしまう汚い人間なのだ。
「いやー、藤川がまた教室で残ってるの見たからつい。もしかして邪魔だったりする?」
視線を上げ、彼を見ると、彼は空を見上げていた。
「……邪魔では、ないよ」
「そっか、よかった」
目尻が下がって、くしゃっとした顔で笑う顔は、とても愛嬌があって、人に好かれるわけだと思った。
窓から下を覗くと、また楽しそうに笑う学生達の姿があった。
下のほうから聞こえる笑い声は、いつも私の心をきゅっとさせた。
上から見ているのは私のはずなのに、いつもいつも、あの人達は私がいる位置のずっと上の、手が届かないところにいる人間なのだと思う。
「藤川ってさー、誰かと帰ったりとかしないの?」
私が追っているものの視線にでも気付いたのだろうか。遠藤くんの声に、ドキッとする。
「私……友達いないから……」
「えっ、俺って藤川と友達じゃなかったの?」
心底驚いたような声を上げる。
「えっ、と、友達だったの……?」
「えー……。まあそう言われると……あれだけど」
うーん、と唸る。
嫌なことを言ってしまっただろうか。
「ごめん……」
「え、なんで謝るの!?」
「いや……悪い気させちゃったかな、って……」
校門のところで、手を振っている女子生徒がいる。
明るい髪色で、ふわふわとしていて、スカートも短くて……明るい笑顔を浮かべている。
「……藤川ってさ、人の顔色ばっかり窺い過ぎじゃない?」
「……え」
女子生徒の近くにパタパタと駆け足で駆け寄ってくる、べつの女子生徒。
たぶん、『遅くなってごめんねー』と言っているのだろう。手を合わせて謝っている。それに対し、『いいよー、平気。行こ』と言っている。
「べつに悪いことだとは思わないけど、藤川のはやり過ぎっていうか。ほら、藤川いっつも誰かしらに頼まれごとされて、こうやって毎日教室に残ってるじゃん」
「あ、うん……」
そっか、知っていたのか。
――いつも独りでいる、可哀相な人間だと。
「言い方悪いけど、それってただ単に、利用されてるだけじゃん。見た感じ、仲のいい友達から頼まれて、って感じでもないし。藤川、そんなことばっかだから、なんかいつも暗い顔なのかなー……と、お節介にも思いまして」
「いつも……」
そうかもしれない。
クラスメイトと笑って話したのなんか、もうずっと昔の話だ。
一人で薄ら笑いを浮かべているのもおかしいだろうし。
「うん。だからまあ……俺なんかでよかったら、仲良くなりたいなー、と思いまして……」
遠藤くんが『俺なんか』ということにとても違和感を覚えた。
自分の何に、劣等感を持つことがあるのだろう。
「……うん。ありがとう」
それでも、その言葉で泣きそうなほどに嬉しい自分がいた。
今俯いているのは、涙を隠す為でもあった。
「えーっと、だからですね……。掃除? 終わった?」
「え、あ、うん……」
今日は日誌を書くことと、教室の掃除だった。
そのどちらも、今日はもう済ませた。
終わったけれど、ただ単に教室でぼーっとしていただけだ。
「そっか。じゃあ、一緒に帰ってもいい?」
誰に言っているのだろうか、と思った。
もしかしたら、この教室に他にも人がいてその人に言っているのかもしれない。そう思い、振り返ったが、誰もいなかった。
「藤川に言ってるんだけど、駄目……かな」
「えっ、あっ……いい、けど……ほ、他の友達は……?」
まるで夢を見ているかのような展開に、思わず声が上擦る。
「先に帰ったよ。だから二人だけだけど、それでもよかったら」
「あっ、……はい」
そろそろ下校時間が迫っていることに、そのときようやく気付いた。
――空がこんなにも赤いのに、私はいったいどこを見ていたのだろうか。
鞄を手に取り、遠藤くんと並んで帰る。
彼が住んでいる所は知らないし、聞いてもいないが、きっとこっちの方角なのだろう。
じゃなければ、わざわざ私と帰ろうなどとも思わないだろう。
遠藤くんがなにやら色々と話題を振ってくれたが、正直頭になど入らなかった。
左耳から右耳へ、そのまま抜けていってしまうほどに。
すぐ隣を歩いているのが遠藤くんだというだけで、どうしようもないほどに胸が鳴った。
ドキドキドキドキ――自分の胸の音だけがうるさく、耳に残った。
駅への分かれ道、遠藤くんは私の家まで送って行くと言ったが、さすがに気が引けて断った。
「じゃあ、また明日」
とかかる声に、私は返事できなかった。
俯いたまま、遠藤くんの足音がだんだん遠くなるのを聞いていた。
なぜだか泣きそうになって、すぐ後ろにある土手に座ろうとして、ずっこけた。
誰も見ていなかったが、恥ずかしさのあまり、ついに涙が出た。
涙で滲む風景は、頼りなく私の心に届き、青く茂った草の匂いが胸いっぱいに広がった。
グスグスと鼻を鳴らしながら、ふと昔のことを思い出した。
――小さな頃の自分を。
今よりも背はうんと小さいが、それでも、今の私よりずっと大きな私を。
私の幸せは、どこに行ってしまったのだろう。
いつの間にか、色々なことに口を噤み、色んな思いをひたすらに隠した。
学校に行っても全然楽しくもない。放課後、一人になった教室で少し落ち着けるくらいで、勉強も分からないところばかりだし、友達と話すことだってない。
何が楽しくて学校になど……と言えば、それは、最近のことかもしれないが、遠藤くんだろう。
人の顔をあまり見れないので、声を聞くくらいかもしれないが、それでも心地よく耳に届く声は、私を幸せにさせてくれた。
――私の幸せは、そんなことなのだ。
幸せの象徴と言われる、四葉のクローバー。
こんな土手にもあるだろうか、とクローバーがあるところを目で追うと、案外と、意外とあっさりと見つかった。
――なんだ、こんなものか。
拍子抜けした。
昔、必死になって四葉のクローバーを探していたときは見つからなかったのに、こんなにもあっさりと見つかってしまった。
幸せは、そんなものなのかもしれないと思った。
転んだ拍子についた草を掃い、起き上がる。
靴には土と一緒に、若草色が滲んだようについていた。制服にも、少しついている。
スカートのポケットからハンカチを取り出し、顔を拭う。
大丈夫、涙は乾いた。
鼻をくすぐる匂いの中に、雨の匂いがあることに気付いた。
雨が降るのかもしれない。
見上げると、雲は少なく、真っ赤に染まった空があった。
「――遠藤くん、私はあなたが好きです」
必死に走って、追いついてすぐに言葉にした。
驚いた顔をしたあと、いつものくしゃっとした笑い顔に、うっすらと涙が滲んでいた。
繋がれた手の温かさにドキドキして、私の心も温かくなった。
ぎゅっと力強く握られた手を、私も握り返した。
手から伝わる熱は、私の心を溶かしていき、再び滲む世界をつくりだした。
繋いだ手を離したくないと思う私は、少しだけ大きくなれたのかもしれない。
遠藤くんは前から藤川さんのことが気になってたんだよ。
言わせんな恥ずかしい。
……っていうことにしておいて下さい。
きっと地味な子が好きなんだよ。




