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地面を見た日

 ――自分が、大嫌いだった。

 基本的に人と話すのが苦手で、相槌しか打てなくて、人の話で上手く笑ったりもできない。

 素直な言葉が口にできなくて、人と距離を置いてばかりいて。

 なにより――私は小さい。



* * * * *



「菜乃子ー、ちょっとこれお願いしていい?」

「あっ……うん……」

「ごめんねー、ありがと」

 んしょ、と小さな声を漏らして、手一杯に渡された紙の束を見つめる。

 これはたぶん、というか絶対、当直の人の仕事で、私は当直ではない。

「んと……」

 どこに持って行けばいいのだろうか。

 任せるのなら、せめて場所を伝えて欲しい。

 ……そういう問題ではないのだろうけど。

 まあ教員室に持って行けば、間違いはないだろう。此処じゃなければ、先生が言ってくれる。

 夕日色に染まって来た廊下を、一人テクテク……いや、そんな軽快な歩きはできない。……ノシノシ……? いや、これも違うか……。

 重いのはあくまで紙であって、私ではないのだから、ノシノシではないだろう。うん、きっと。

 人が疎らになった廊下は、下の階だろうか、遠くからわずかに人の声が聞こえるだけで、あとは開け放たれている窓から優しい風が吹いている程度だ。

 今更のことなので、誰かに手伝ってほしいということもないが、やはりどこか――寂しさを覚える。

 腕に圧し掛かる重さは、紙の重さだけのはずなのに、それ以上の何かがある気がしてしまう。

 それは腕じゃなくて、胸だったり心だったりするのだろうけど。

「よっ、んしょっ……」

 教員室前の廊下。扉を開けたい私。しかし空いていない両手。

 足を使って開けることなら可能だろうが、それはさすがに躊躇われた。

 きっとちょっとだけ足で開ける程度なら、教員室からも見えないだろうし、今の時間こっちの棟に残っている生徒もいないから、誰に目撃されることもないのだろうけど、やっぱりそこは……。

 前がよく見えない程に抱えてしまっている紙の束を、一度床に置くのはどうだろう? 

 ああ、そうだ。最初からそうすればよかった。

 よいしょ、という声を心の中で呟いて紙を一度置く動作をしかけたとき、不意に後ろから手が伸びて来て、扉が開かれた。

 誰だろう、と首だけで振り向くと、同じクラスの子だった。

「あ、藤川さんだったんだ」

「あ、遠藤くん……。ありがとう」

 同じクラスの遠藤くん。

 私と違ってスラリと背が高く、かっこいい人だ。

「いえいえ、どう致しまして」

 それだけ言うと、遠藤くんは歩いて行ってしまった。

 ありがとうだけじゃ素っ気無かったかな……。あんまり、というか全然話したことないのにいきなりタメ口はまずかったかもな……。

 もしかしたらそれで気を悪くして、さっさと歩いて行ってしまったのかも……。

 などと考えていて、すっかり自分がすべきことを忘れていた。

 教員室の中にいる先生に、『何の用なんだろうか』というような不思議な顔をされているのに気が付いて、顔がぱっと赤くなった。

 そうだ、私はこれを置きに来たんだ。

 内心、恥ずかしさでいっぱいになりながら、平静を装って手にしたプリントを置いて来た。

「わーっ、もう……私ってば何してんだろ……」

 帰り支度を済ませ、下校途中、さっきの出来事でまた頬が熱くなった。

 ぼーっとしてしまって、恥ずかしい思いをしてしまった。

 遠藤くんには明日、謝っておこう。あと、お礼も一緒に言おう。

 何て言おうかな……。

『昨日はごめんね。ありがとうございました』

 ……いやいや、これじゃ何言ってるのか意味が分からない。

『昨日はいきなりタメ口使ってしまって、ごめんなさい。あと、扉開けてくれてありがとうございました』

 うん、これでどうだろう。

 個人的にはばっちりだと思う。

 明日はこれで行こう――そう思い、一人頷く帰り道にふわりと吹く五月の風から、微かに夏の匂いがした。



* * * * *



 よくよく冷静になって考えてみると、遠藤くんは男女問わず、クラスも飛び越えるくらいの人気者であって、一人でいるところなど滅多に見かけない。

 それに気付いたのは、学校に着いてからだった。

 登校時から男子数人に囲まれていて、いつ一人になるだろうとそわそわしているうちに思い出した。

 ――そうだ、彼は人気者だった。

 やってしまった……。と一人落ち込んでいるときに、妙案を思い付いた。

 手紙を書けばいいのだ。

 レターセットは生憎持ち合わせていないので、ノートを一ページ分破って文をしたため、休み時間にこっそりと遠藤くんの靴箱に入れておいた。

 謝罪もできたし、改めてお礼もできて、なにより直接話さなくていい分、とても気楽に済んだ。

 

 放課後、一人残って掃除をすることになった。

 今日のもまた、頼まれたから。

 嫌だったら断ればいいのだろうけど、そんなことをするのはどうしても胸が苦しくなった。

 だから、ただ笑顔で頷くだけでいい。そうすれば、相手も気持ちがいい。

 丁寧に、埃一つ残さないように掃除をして行くと、とても時間がかかった。

 それでも、少し前まで騒がしかった教室のことを思うと、一人で黙々と掃除をすることはとても落ち着いた。

「あれ? 藤川?」

 声を掛けられた方を向くと、遠藤くんがいた。しかも一人だ。

「あっ、うん……」

「また頼まれてやってるの? 大変だね」

「いや、全然……そんなことないから……」

 顔を見て話せないので、私はいつも地面を見て話す。

 まるで、地面と話しているかのようだ。

「ああ、そうだ、これ」

 そう言って遠藤くんが取り出したのをチラリと見ると、私が靴箱に入れたらしい手紙だった。

「藤川が書いたのだよね?」

「えっ、うん……」

 あれ、おかしいな。

 ……もしかして、私……名前書いてなかった……?

「ああ、やっぱり。藤川でよかったんだ。いやさ、最初ラブレターかと思ったんだよ。ノートとか色気ないのできたなー、とか思って開いたら、『昨日はいきなりタメ口で話してごめんなさい。あと、扉開けてくれてありがとうございました』だもんなー」

 カラカラと笑う。

 一瞬、顔を上げようかと思ったが、それはしなかった。

「ごめん。何か変だったかな……?」

「いや、そもそも藤川、今タメ口じゃん」

「あっ」

 言われて初めて気が付いた。

 タメ口で話してごめんと言った癖に、さっきから思いっきりタメ口でしか話してなかった。

 私はなんという馬鹿なのでしょうか……。

「ごっ、ごめんなさい! うっかりしてたっていうか……その……」

「いや、いいよ。べつに責めてるわけじゃなくて、そんなの気にしなくていいのにな、って思ってさ。クラスメイトなのに敬語ー、とかなんか寂しいじゃん」

 遠藤くんが優しく笑っている気がした。

 気がするだけで、実際は困ったような顔をしてたり、しかめっ面をしているのかもしれない。

 だけど、なんとなく雰囲気で分かる。

 私を許容するように、遠藤くんはきっと優しく笑ってくれている。

「あっ、そ……うかな……」

「そうだよ。だから、藤川面白いこと考えてるなーって思った」

「えっ、面白い?」

 私は思わず顔を上げた。

 遠藤くんの顔はやっぱり、爽やかに微笑みを浮かべていた。

「うん、面白い。クラスメイトなのになにをそんな気使ってるのかなー、って」

 ね、と言って私に笑いかける。

 それに対してすごく恥ずかしくなって、赤くなった頬を隠すように、私はまた俯いた。

「いや、あの……全然話したこともなくて、仲良くないのにいきなりタメ口はまずかったかなって思って……ですね……」

「んー、そんなことないと思うけどなぁ。全然話したことないって言うんだったら、じゃあ話そうよ。それで仲良くなればいいんじゃない?」

「わ、私が……?」

「そうだよ。他に誰がいるの」

 少し、ほんの少し離れただけのところから聞こえる笑い声は、耳にとても心地がよかった。

 中傷している笑いではなく、温かい陽だまりのような笑い。

「私なんかでよかったら、ぜひ。ありがとう」

「うん。よし。じゃあまず、藤川はそうやってちゃんと相手の目を見て話しなさい」

 言われて初めて気付く。

 私いま、ちゃんと顔を見てありがとうと言えた。

 それは随分と久しぶりな気がした。

 昨日のも、すぐに顔をそらしてしまったので、そっぽを向いてお礼を言っていた。

「あっ、うん……」

 言われてしまったからには、顔を見て話すべきなのだろうけど、どうしても気恥ずかしさが勝って、俯いてしまいそうになる。

「せっかく可愛いんだしさ、前見て話しなよ」

「えっ、かっ、えっ」

「どんだけ焦ってるの。藤川、可愛いじゃん」

「いやっ、いや……えっ」

 そんなこと、男の人から言われたのは初めてだった。

 ――いつも、『根暗』とか『チビ』とか『キモイ』とか……。

「落ち着きなよ。まあ見てて可愛いけどさ」

 大袈裟なくらいの笑顔を浮かべて、笑う。

 その顔がどうにも、私にはくすぐったかった。

「ああ、はい……」

「うん。じゃあ、俺行くから」

 廊下のほうを指差す。

 きっともう、帰るところなのだろう。それなのに、私なんかに付き合ってくれたのだと思うと、申し訳なかった。ただ、それ以上にとても嬉しかった。

「うん」

 ばいばいと言うように、笑顔で手を振って背を向ける。

 遠藤くんが教室の扉を抜けたくらいのとき、私は振り絞るように声を上げた。

「遠藤くん、またねっ!」

 自分自身で驚くくらいに、大きな声を上げた。

 ――遠藤くんに届いてほしい、届くように。私の小さな、声が。

 振り返った遠藤くんは、驚いたような顔をして、また手を振ってくれた。

 夕日色の教室に棒立ちすること数分、箒を手にしているのに気が付いた。

 そういえば、掃除をしている途中だった。

 屈んで、床に置いてある塵取りの中を覗くと、たった一日、数十人の人が過ごしただけの空間を掃除しただけなのに、多くの塵が乗っていた。

 そんなものを、眺めていただけなのに、私はこの気持ちが恋なのだと知った。



「好きだよ、遠藤くん……」

 ぽつりと、地面に話しかけるように、言葉を落とした。

 その言葉はきっと、鋭くなって自分に跳ね返ってくるだけで、行き着く先はないのだ。

 ぽつりと、塵取りの中に滴が落ちた。

 夕日に照らされ、小さな小さな影を作って、地面に話しかける私は、静かな教室でたった一人なんだ。

 それは気が楽でもあり、息ができないほどに苦しいことでもあった。

 ぽつり、ぽつりと何度も落ちる滴だけが、私の心を静かに暗くさせていった。

 

 小さな、小さな私。

 たった一つの想いを口にすることすらできない、小さな私。

 ――私はあなたが嫌いです。


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