最後の一杯
彗星が地球に衝突する日。
私は車を走らせていた。
逃げるつもりはない。ただ、じっと待つのが嫌だっただけだ。
道路は不思議なほど空いていた。
皆、遠くへ向かったのだろう。意味がないと分かっていながら。
ラジオは、同じ情報を繰り返していた。
「衝突まで、あと三時間」
私は山道を抜け、小さな町に入った。
営業している店は、ほとんどない。
その中で、一軒だけ灯りがついていた。
古びた喫茶店だった。
なんとなく車を止め、扉を開ける。
カラン、と鈴が鳴った。
中には、年老いたマスターが一人だけいた。
「いらっしゃい」
まるで、いつも通りの声だった。
私はコーヒーを頼んだ。
どうせ最後なら、少しは落ち着きたかった。
カウンターに座ると、マスターがぽつりと言った。
「みんな、遠くへ行きましたね」
「ええ。でも意味はないでしょう」
「そうですね」
マスターはゆっくりとうなずいた。
しばらく沈黙が続く。
コーヒーの香りだけが、やけに鮮明だった。
やがて私は言った。
「どうせ終わるのに、なんで人は逃げるんでしょうね」
マスターは少し考えてから答えた。
「終わるからでしょう」
「……え?」
「人は、終わりが見えると、“今”を捨ててしまうんです」
静かな声だった。
「でも本当は、終わるその瞬間まで、全部“今”なんですがね」
私はカップに口をつけた。
妙に苦い気がした。
外は静まり返っている。
ラジオが時刻を告げた。
「衝突まで、あと一分」
私は息を止めた。
だが――何も起こらなかった。
一分が過ぎ、二分が過ぎた。
私はゆっくりと顔を上げた。
マスターは、変わらずそこにいた。
そして言った。
「ほらね」
「……何がです?」
マスターは、少しだけ笑った。
「ほとんどの人は、“終わり”が来る前に、自分の生活を手放してしまう」
私は外を見た。
誰もいない町。
エンジンを止めたままの車が、何台も放置されている。
マスターは続けた。
「終わりは、まだ来ていないのに」
コーヒーは、まだ温かかった。




