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負けないで

「……、え?」


最後の仕上げをしようと早朝に美術室に駆け込んだ所で私は絶句した。


丹精込めて描いた男性の絵。それが__黒塗りにされていた。


どうして?ここは寮から少し離れた美術室の一角だけれど、まさか昨日作業を終わらせた夕方以降に誰かが…。


「ああ、やっぱり」


桜さんの声だった。

異常なほど落ち着いた声色でガラガラとドアを閉める。


「桜さんっ…!あの、私の作品が」


「だろうね」


そう言って桜さんは自分の作品にかかっていた白い布を捲った。

そこには黒い油彩絵の具で書かれた「私は人殺しの魔女です」の文字。加えてカッターのような刃物で表面が著しく傷つけられている。


「え…」


私は言葉を失う。

どういうこと?なんで桜さんの作品も…?

2人揃えて狙われた?

じゃあどうして?誰が、何のために?


「わたしの責任だ。深夜、配置しておいた部下5人から連絡があったんだ。守れなかった、と」


桜さんはぽつりぽつりと話し出す。


「いつものことなんだ。毎年コンクール当日にわたしの作品は破壊される。酷い年は女の子の油絵に体液がかかっていた事もある」


「体液って…唾を塗りたくられたとかですか?」


桜さんは首を横に振る。


「唾もだが…血液を中心とした様々な物だ。言えないような液体もかかっていた。1人の男の子から採取したものを別の女の子達がぺたぺたと貼り付けたらしい。その男の子のご両親に頭を下げ、治療もカウンセリングもさせて下さいと懇願したが…」


桜さんは心底悲しそうに困り眉で笑う。


「駄目だった。救いの天使なんて名ばかりだ、やはりお前は争いをもたらす魔女なんだと」


「桜さん…」


私は唇を噛み締める。

芸術における自身の作品とは、自分の全力であり半身であり生涯だ。

それがそんなにも惨い末路を迎えて、侮辱なんて軽い言葉で済ませては行けない事をされて。

桜さんの悲しみは到底測り得ない。それに…男の子の気持ちも。


「その男の子のために、別の優秀な医師に治療をお願いしたんだ。もちろんこっそりね。でも…無駄だったんだ。男の子は病院の窓から身を投げて亡くなった。蘇生させてもらう権利なんて、もう私は持ち合わせていなかった。その子が__三毛一家が亡くなる前の、最後の死者だ」


桜さんの唇がぐにゃりと歪む。

そのまま桜さんは顔を伏せた。


「いつも思っている。全ての人を幸せにする勤めを果たすべきなのにそんなちっぽけな責務も果たせないなんて、こんなの、人殺しと大差ないじゃないか。陽菜ちゃんだって私と一緒に描いていたからこんな嫌がらせを__」


「そこまでです桜さん」


私は話を遮った。


桜さんの嗚咽が聞こえる。

綺麗な涙が腕を伝っていた。


「悲しい気持ちはよく伝わりました。でも全て桜さんのせいじゃないです。治療を拒むのも自由なら治療をしないのも自由です。桜さんが世界の全員を救わなきゃ行けない道理なんて、少なくとも私は習っていません。だから……」


私は息を吸う。

精一杯の応援を込めて、私は言葉を口にした。


「勝手に使命作って背負ってないで、今はコンクールのことを気にとめて下さい。貴方に勝てないと私はこの先に進めません!立ってください。同じ芸術家としてのお願いです」


私は声を張り上げた。そしていつもの椅子に座る。


「桜さんなら予備のキャンバスぐらい持っていますよね?貸してください。今は油彩でめちゃくちゃにしてやりたいので油彩絵の具も貸してください。資料集めだって手伝ってもらいます。迷惑料です。これでもう桜さんは対価を払ったので、これ以上の懺悔は要りません。意地でも16時のコンクールまでの10時間で完成させましょう」


厳しい表情と声で告げる。

頑張れ、桜さん。桜さんならきっと乗り切れるはずだから大丈夫。だって、出来ることだけじゃなくて出来ないことも全部含めて桜さんなんですから。


「うあ…あぁ……」


桜さんの嗚咽が大きくなる。世界最強と呼ばれる天才は、ただのか弱い少女のようだった。


「頑張る…ありがと、陽菜ちゃん……」


「…分かればいいんです。あと五分しか待ちませんよ、泣いたら早く作業しましょう」


暫くして桜さんが立ち上がる。


「強くなったね、陽菜ちゃん。それから…」


がさごそとバッグを漁り始める。

そのままキャンバスを差し出された。

桜さんはふにゃりと微笑む。


「ううん、この言葉は、陽菜ちゃんが躓いて一人で立ち上がれなくなった時に使うね」


「……なんですか、それ」


私は少し苦笑しながらキャンバスを受け取った。

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