何かが足りない日常
「で、わたしの所に来たと」
「はい」
桜さんはうんうん、と頷く。
「まあつまりは、月下剣術戦を受けるかに迷いは無いわけだね?だから___」
もうひとつの方の相談に来た。
そう、私の悩みは月下剣術戦だけではない。
もうひとつ、今月末にある年に一度の絵画コンクール。
私はそこで大賞を取りたい。のだが。
「わたしが毎年大賞だからねえ。中等部の頃からずっと」
くねくねしながらグミを食べる桜さんが呑気そうに言う。こう見えてものすごく凄い桜さんを超すなんてできるのだろうか。…いや、できるできないじゃない、私はそう在りたい。ただそれだけだ。
「うーん…じゃあ見せてよ、大きめのキャンバスに描いた1枚絵。油彩と水彩どっちも。あとデッサンとスケッチ」
「はい!」
「なるほどねえ。どれもパース取りが正確だ」
ペラペラとスケッチブックを捲っていく桜さん。
桜さんが腕を組む。
「どうかされたんですか?」
私はドキドキしながら尋ねた。
「いや、正確だし綺麗なんだよ。狂いがない」
「じゃあ…!」
「でも正確すぎるんじゃないかな」
桜さんはこちらを真剣に見つめはっきり言葉を放った。
正確すぎる。
どういう意味だろうか。だって芸術にも正確さは求められて__あ。
「人によって見え方は違うじゃん?よく聞く話だと、林檎は青色でもいいとか、四角でもいいとか」
確かに…。
私は大いに納得するものの、同時に困惑した。
それってつまり…景色をぐにゃぐにゃ描けってこと?
「例えば、私にはこの本がぼろぼろに見える」
そう言って桜さんはとある本を指さす。
「消える透明と桜細工」というタイトルの大冊だった。
「一昨日貰った…買ったばかりのかなり新しい本なんだけど、昨夜これを通しで10回読み直したんだ。だからその熱で見返しすぎた場所に穴が空くまで読んだような気分でね、私にはそう映っている」
桜さんはすう、と目を伏せた。
内容が相当良かったのだろう、桜さんが没頭する本…読んでみたいな。
「本と言えば、今年度末には小説のコンクールもあるんです。小説もすごく得意な訳ではなくて…」
「ああ」
桜さんはなんて事ない、と言った顔をしたあと、顔を曇らせる。
「…いや、なんでもない。忘れてくれ」
桜さんは困り眉のまま笑った。
私は頭に疑問符を浮かべる。
「どうかしたんですか?」
「いや。ただ……居たんだ。__と言う、小説における稀代の天才がね」
覚えていてくれると嬉しい。
そう言って、桜さんは寂しげに目を細めた。
「それで、それから…聞いてる?蓮くん」
その日の夜、私は蓮くんと談話室にいた。
そういえば前はなぜか自分の部屋で蓮くんとお話をしていたような…なんでだっけ。思い出せない…。
「ああ。陽菜が可愛いことはわかった」
「だから蓮くん…!」
上機嫌そうに蓮くんは言う。
下まつげ長すぎ、超美形…譲って欲しい。
「それでね蓮くん!…関係ないけど、なんで蓮くんの睫毛はそんなに長いの?」
「わからない。それに長さが全てじゃないんだ、陽菜の睫毛を見れば分かる」
「蓮くん!」
いつも蓮くんはこうだ。
だからいつの間にか嘘かなにかの類だと思っていたのだが、どうやら本気だったらしい。
…婚約するんだし?
「ねえ蓮くん、稀代の天才って誰だと思う?私、調べてみたんだけど何も乗ってなくて…」
「分からない。だが、悩んでいる陽菜もかわいいな、と考えていた」
「あのね、そろそろ怒るけど」
なんだか適当に言われているようで腹が立ってきた私はズゴゴゴ…と後ろに気迫を追加する。
「陽菜」
蓮くんは頬ずえを付いて微笑んだ。
あ、蓮くんってこんなに笑うんだ…。
「陽菜が感じたことを、陽菜が体験したことを話してもらえることが心の底から嬉しいんだ。だから、良かったらこれからも話してくれ」
にぱ、と蓮くんが笑った。
て、照れる…。
「わかったってば…もう…」
窓からかすかに光が差し込む。
まるで、月が2人を眺めているかのように。




