序
広い、たぶん20枚くらい畳のある部屋で、俺は両脇に立つ黒服の男達に両腕を押さえ込まれた格好で葛城のおばさんと対面していた。
部屋は薄暗い。四隅に、時代劇に出てきそうな細長い柄の上に和紙で囲った蝋燭が1本立てられてるだけだ。
おばさんが背にしたふすまの向こうからは野太い声で読経がしていた。声からして数十人はいるとわかる。ふすま越しに聞こえるそのおっさん達の読経の声と、おばさんの俺を見る冷たい目に、俺は内心びびっていた。面には出さないようにしてたけど、きっとおばさんには丸わかりだったと思う。
「……葛城は?」
慎重に発した俺の問いにおばさんは眉をひそめ
「生きてますよ、まだね」
と答えた。
「本当か!? 本当に、あいつは生きてるんだな!?」
思わず駆け寄ろうとした直後、ぐんっと両腕が後ろに引かれた。その勢いに、制服のボタンがぶちっと飛ぶ。
罰だというように、俺の腕を押さえていた男2人が無言でぎりりと締め上げてきて、俺は思わず悲鳴を上げそうになった。
歯を食いしばり、面を上げた俺の前、おばさんは横を向いてため息をつく。
「まったく。とんだことをしでかしてくれましたね。あなた達のような者と付き合ってはいけないと、この1年、何度あの子に言ったでしょう。あなたには大切な使命があるのだからと。
あの子はそれを守らなかった。そのせいで、このざまです」
おばさんが左のふすまの前に立った女性に視線で合図を出した。女性が無言でふすまを開くと、廊下で待機していた男達が葛城を中へ運び込んだ。
だけどそれは、当主の息子にするような運び方じゃなかった。
両脇から腕を持ち上げるように支えているが、頭も足もだらりと垂れたまま。ずるずると、葛城は無抵抗で引きずられていく。
「葛城!!」
俺は夢中で葛城の名を呼んだ。
葛城は無反応だ。
「葛城! 葛城! 葛城!」
両脇から腕がきりきりと締め上げられたが、痛みなんかどうでもいい! 俺は重しのような2人を引きずりながら、じりじりと少しずつ、葛城へ向かって歩いた。
生きてるんだろ!? おまえ! 俺を見ろ! 返事をしてくれ!
「かつらぎいぃっ!」
「…………いま、い……?」
小さかったが、葛城の声だった。
葛城が首だけ回して、俺のほうを向く。傷だらけで腫れた顔。熱が出ているみたいで、赤く腫れた顔が熟れた果実のようだった。傷は右目が特にひどく、閉じた瞼の上からぱっくり割れている。
ぐっしょりと濡れた髪からぽたぽたと落ちているのも水じゃなく、血の雫だった。
葛城が引きずられた畳の上も血の跡がついている。
俺のせいだ。
俺達を逃がすために、葛城はあんな姿になったのだ。
涙が目に痛くて、ぎゅっと目をつぶる。
「……今井……鳥野達、は……?」
葛城の力ない声に、俺は首を振ることしかできなかった。
「……そう、か……」
風船から漏れる空気のようなしぼんだ声で、葛城はため息のように口にした。
葛城も覚悟してたのかもしれない。俺達を逃がそうとあの化け物の前に身を投げ出したけど、きっと俺達を救うことはできないだろうって。
「おばさん!」俺は葛城の前に立つおばさんに言った。「救急車を呼んでくれ! 病院に運ぶんだ! 葛城を助けてくれ! お願いだから!
こいつがこうなったのは俺のせいだ! 罰なら俺が受ける!」
だから……だから葛城を……!
「お願いだから……」
懇願する俺に、だけどおばさんは冷たい表情を崩さなかった。ふん、と鼻を鳴らし、虫けらを見るような目で俺を見、その目を瀕死の葛城へと向ける。
俺の母さんなら、絶対あんな顔はしない。あんな姿になった俺を見たらあわてふためいて、泣きながら救急車を呼ぶに違いないのに。
俺はカッとなって叫んだ。
「あんた葛城の母さんなんだろ!? 息子が死にかけてるんだぞ! 早く救急車を呼べよ! 医者に連れて行け!――うっ」
左横にいた男が俺の腹に拳を入れた。一瞬息ができなくなり、俺は思わずその場に膝をつく。
そんな俺に目もくれず、おばさんは葛城に言った。
「結、聞こえていますか」
「…………はい……母さま……」
「私がどれほどおまえに失望しているか、わかっていますか?
おまえを産み、育てるために、どれほどの人、物、年月、忍耐を私達が必要としたのかも。それも総てはこの日のためであったのに。
おまえは、あの愚かで浅はかな者達のために、その総てを台なしにしてしまった。そのことによる私達に与えた失望が……いいえ絶望が、あなたは本当にわかっていると言えるのですか?」
「…………申し、わけ……」
葛城は、ぐっとのどを伸ばすとぼたぼたと血の塊を吐いた。
そんな葛城を見ても、おばさんはほんの少しも揺らがない。
『私が』『私達が』おばさんの言葉はそればっかりだ。葛城がどう思い、こんなことをしたのかとか微塵も考えちゃいない。
葛城は俺達3人を助けるために化け物の前に身を投げ出した、すごいやつなのに!
俺は猛烈に腹が立って、また殴られてもいい、思ってることをぶちまけてやる、と思ったのだが、うなだれて、口から血をしたたらせながらこちらを見た葛城の目に、
『言っても無駄だよ。母さんは、きみの母さんじゃないんだ』
そう言った葛城の言葉を思い出して、ぐっと言葉を飲み込んだ。
今の葛城の目はその時と同じ、諦めと寂しさを浮かべていた。
「今のあなたに期待できるのは1つだけです」
おばさんは後ろを向き、ふすまを開けた。
そこにはこちらに背を向けて座った、数十人のおっさん達の背中があった。むぅんとした熱気と、汗と体臭のにおいが混じった、線香のような香の強くて甘い香り。それらがふすまが開かれた瞬間こちらの部屋に流れ込んできて、その濃さに喉が詰まって咳き込んだ。
ただし、俺以外の人達は慣れてるようで微動だにしない。
そしてふすまが開けられてもおっさん達の読経は途切れず、こちらを振り向く者もいなかった。みんな、一心不乱に読経を続けていた。
そうして読経をしているのに、不思議と彼らの正面には仏像も、それらしい絵姿も何もない。
(あいつら、何に向かってあんなに読経してるんだ?)
そう思っていると、誰に言われたわけでもないのに身を揺すって、ずりずりと左右に身を寄せて道を開けた。
それでわかったんだけど、その部屋は畳敷きじゃなかった。薄暗いのは同じだけど板張りで、奥に穴としか思えない黒い物がある。
穴は直径5メートルはあるかと思えるほど巨大で、おっさん達は穴に向かって読経を唱えているように見えた。
部屋に穴?
不思議に思っていると、開けた道をおばさんが歩いて行った。葛城を両側から持ち上げていた男達が後ろに従って葛城を引きずっていく。
穴の前で立ち止まり、振り向くおばさん。
まさか……。
「やめろ!!」俺はあせって叫んだ。「やめろ! やめてくれ!!」
だがおばさん達は俺の声など聞こえないというようにこちらを見もしない。
俺は滅茶苦茶に暴れて左腕を押さえていた手から引っこ抜くと右の男の股間に蹴りを入れて腕を放させ、葛城に向かって走った。
「葛城!」
おばさんが、早く中へ落とせと手を振る。
葛城は振り向いて俺を見ると、かすかに笑みを見せて、そして唇だけで言った。
「おまえは、僕の分も、生きろ」
と。
「だめだ葛城!!」
初めから間に合うはずもない距離だった。
伸ばした手の向こうで、葛城は穴に放り込まれた。
葛城は何の抵抗もせず――傷だらけの体を思えば抵抗できるはずもなかった――穴へと落ちていき。やがて重い物が硬い物にぶつかるぐちゃりという音が、小さく聞こえた……。
「葛城っ!!」
穴の縁に両手をついて中を覗き込む。穴は、井戸のように石を組んで造られていた。部屋の薄明かりでは底まで見通せず、ただただ真っ暗闇が広がっているだけだ。
いくら耳を澄ましても、俺の呼び声に応える葛城の声は聞こえない。
「葛城……」
「心配せずとも、あなたもすぐあの子のあとを追えますよ。
ほら、聞こえませんか? ケモノの唸る声が。見えませんか? 石壁を削る鉄爪が。
もうすぐ蠱毒の壺で勝ち抜いたケモノが、敗北したモノの魂を総てその身に従えて這い上がってきます。結の尊い血肉を啜ったケモノがね」
あなたはそのケモノの最初の贄となるのですよ。光栄に思いなさい。
おばさんは淡々とそんなことを言ったように思う。俺は穴を覗き込むのに必死で、おばさんにも、読経をやめて後退したおっさん達にも気を払っていなかった。
葛城の声か姿が感じられないかと、そればかり考えて……。
だがそんな俺の目に見えたのは、おばさんの言うとおり、獣の爪だった。
グルルと唸る獣の声。黒毛に覆われた腕が闇から伸びて、石壁に爪を食い込ませる。
獣は、空気がびりびり震える咆哮を上げたと思うや次の瞬間には石壁を駆け上がり、穴から飛び出していた。
巨大な白い獣だった。
胴が長く、ふさふさの毛に覆われた体は尾の先端が黒い。黒くて丸い耳はテンみたいだったけど、似てるのはそこまでだった。渦を巻いた黒い目は憎悪と殺意に満ちて、耳まで裂けたギザギザの口は血に濡れて湯気を放っている。黒い短めの四つ足からは湾曲した鋭い爪が伸びて、板に食い込んでいた。
その体から漂う何かが腐ったような獣臭に息が詰まる。
俺は怪獣のようなその姿に叫び声を上げることもできず、ただ、獣を見上げることしかできないでいた……。
これは、俺が葛城と出会い、別れて、再び会うまでの話―――。
これは 第25回書き出し祭り に参加しました拙作となります。
続きを書きたい気持ちはありますが、いろいろと手を加えたいのと、スケジュール的にいつできるかも不明のため、予定は未定状態です。