表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

人魚姫の後ろ姿

私の事を話せばいいのですか?私なんかの事を聞いても下らないだけだと思いますが、お話ししましょうか。お客様。

私は、とてもとても気の弱い、気の小さい娘でした。今でも、何かに抗するという姿勢を私は所持していませんし、今となってはその必要もないし、そんなことを望みもしません。商業高校に入った私は、そこでひどいいじめにあいました。五年、いや六年だったかしら、それくらい前の話です。でも、よくよく考えると、小学、中学と無事に切り抜けてこられたのが奇跡だったのです。先ほども申し上げました通り、気の弱い、気の小さい娘で、弱弱しい声でしゃべり、はっきり聞き取れるのが「はい」とか「わかった」くらいでしたので。どんないじめだったのか、客観的に見てひどいことをされていたように思いますが、もうどうでもよくなっていて、しっかりとは思い出せません。例えば……、そうトイレでしゃがんでいる時、頭から水が降ってくるとか、その時、何だったかしら、「シャワーさせてくれてありがとう」と言わされたのだったかしら。私には惨めという感情はありましたけれど、怒りという感情を持ち合わせていないので、胸かきむしり頭がおかしくなるというような苦しみはありませんでしたけれど、少しずつ少しずつ、力が削り取られていって、何も感じなくなり、人と同じように行動できなくなってきたので、私は高校を中退しました。担任の先生は引き止めてくれましたが、状況を改善する策は講じてくれませんでした。当然です。全て私の弱さが原因なのですから、教師にできることなんてないのです。むしろ、高校生にもなって人間関係に口出しされなきゃいけないなんて、みっともなくて甘えているでしょう?

 十六で高校を中退した私は、父に言われるまま、新聞配達のアルバイトを始めました。朝と夕の一日二回、出勤して新聞をまとめて配達していたのですが、体力のない私は、またもや力が少しずつ奪われていって、しまいに過労で人の家の前で倒れてしまいました。父は「(仕事を)続けられそうか?」と私に確認を取ってくれましたが、それは「続けなさい」の意味だったので、私は一日休んだら、また新聞配達の毎日に戻りました。しかし、疲れがひどくて頭が常にぼーっとするようになり、何も考えられなくなったので疲れたとは思っても苦しいと自覚できない状態だったので、辛いとか苦しいとか思いませんでした。しかしながら、何度も道交法に違反して、新聞を三十件も配達しそこなうなど、とんでもないミスが続き、同じ職場の人間の私を見る目つきがあまりにも哀れを誘われているのがわかったので、私は父に「仕事がきちんとできない。このままでは周りに迷惑をかけ続けてしまう」と訴えました。しかし、父は「我慢しなさい」と言ったきりでしたので、私は、何だかその頃布切れになったように感じる身体を引きずりながら、仕事に行き続けました。しかし、そのうち所長から「悪いけれど、今月で退職してもらう」と言われ、(その時の所長は、申し訳なさそうな表情に迷惑を被ったという感情が混ざった顔をしていた)、私はやっと新聞配達の仕事から解放されました。父に報告すると、「それならば仕方ない。次の仕事を見つけるから、そこでは必死に我慢して頑張りなさい」と言われ、父が勤める会社のオフィス機器を設備・管理、メンテナンスするために出入りしている業者の会社の事務の仕事に就くことになりました。たんたんとしてはいますが、処理しなくてはいけないことが多くて、お金の管理も絡むので、ミスをできない、気の張る日々が続きました。しかしそれでも、新聞配達をしていたときよりは、ずっと楽でした。だから、その頃、私は安心して過ごしていました。しかし、平穏の中を、水を濁す魚のように侵入してきた男がいました。彼は坂部浩太郎という、白い顔をした男でした。エンジニアと称して、毎日ダンボール箱を運ぶ坂部浩太郎は、お互いが定時であがれたある日に、帰り道隣を歩いて、話しかけてきて、私の肩をおもむろに抱いたと思うと、いきなり、口付けをしてきました。その時私は、今時珍しい煙草屋の車庫のシャッターに身体を押し付けられながら、身をすくめて小さくなっていました。それから家への帰り道が分かれるまで、肩を抱かれ、乱暴に強く背中を押されるようにしながら歩いて、別れた後、妙にびくびくした気持ちで狭い歩幅で歩いて家に帰ってきました。その日から、坂部は自分の仕事を私に手伝わせるようになりました。私は顎で使われ、自分の仕事が手につかないので、残業をしなくてはいけなくなりました。そして仕事が終わると、会社の出入り口から直接つながっている食堂で坂部が待っているのを見つけて、ホテルへと連れて行かれるのです。私はやめてくれと言えませんでした。帰宅が遅くなると、父に叱られました。私はもう仕事に行きたくありませんでした。仕事へ行くと、ホテルに連れ込まれて、身体を求められなければいけなくなるからです。私はそれを父に言えませんでした。父に「私の身体は汚された」と言うのが怖かったのです。父のつてで入社している以上、勝手に会社を辞めても、父の耳に入らないわけがありません。私は、予告もなく、退職願も出さず、家と地元を飛び出しました。向かう先は、家出娘が選ぶのに相応しいと思う場所を選んで、東京にしました。私はその時十八でした。

 私は家を飛び出した娘という卑しい立場の自分に相応しい職を探そうと思いました。そしてフロアレディという言葉で求人誌に載っているキャバクラ嬢の仕事に就くことにしました。私は十人並の容姿に、平坦で下手な作り笑顔のキャバ嬢だったので、指名客は数人しかつきませんでした。でも、指名してもらえると思わなかったので、それでもとても嬉しく思いました。二年ほど、ぼんやりと笑って男の人にお酒をつくりながら、安心して平穏に暮らしていました。一人暮らしは、楽々と息ができて快適で、寮として住まわせてもらったマンションもとてもきれいでいい所でした。

 私はともだちというものを作る習慣がありませんでした。ただ、私の他のともだちのいない人間が、私に張り付くように寄ってくることはよくありました。そして彼らは私を逆らわない人間と信じていましたし、実際そうでした。同じ店に勤めるキャバクラ嬢にも一人そういう子がいました。口を開けると犬歯がなくなっていて、歯並びがひどく悪く、目つきが嫌らしくも険悪でもないのですが、その代わりどこか汚い印象の目で、笑うと余計汚さが目立ちました。小鼻が大きくて、眉だけを不自然に細く整えている化粧の下手な子でした。笑顔がひどく貧乏くさいのですが、時々ロッカー室で泣いているときの顔はもっと醜く見え、貧相な犬のように痩せていました。

 彼女が、私を連れていきたいところがあると言いました。そして、次の私の休日を聞き出して、その日に自分の休日を合わせて、ポプラの街路樹の下で待ち合わせをして、そこへ私を連れていきました。そこは髪にストレートパーマをかけたり、片耳に大きなシルバーのピアスを付けたりして、過剰にごてごてと自分を飾った男たちがもてなしてくる、いわゆる「ホストクラブ」でした。彼女は案内された広いソファに背中をもたれて、はしゃぎながら、

「ユキト君呼んで」

と恭しい小さな顔をしたボーイに言いつけました。「ユキト君」は、自分の他に二人くらいのホストを従えてやってきました。その時の「ユキト君」の笑顔の印象は「欺瞞」と「狡猾」そのものでしたが、彼女は「ユキト君」にぞっこんらしく、

「ユキト君のためにドンペリ入れちゃう」

「ユキト君のためなら何でもしちゃうから、ユキト君は私のためだけにここで働いてね」

などと言ったことを連発するのでした。それに対し「ユキト君」は

「もちろんだよ。ハニー。あ、名前を呼んであげた方が良かったかな?『ハニー』とどっちがいい?」

「嬉しいな。君とこんなゴージャスな酒が飲めるなんて。マジ、他のお客とは飲んでも美味しくないから。僕が本当に愉しいのは、君と飲んでいる時だけだよ」

とサービス満点で答えるのでした。

 思うに、彼女は、男が「欺瞞」と「狡猾」を発揮するために最大限に自分を殺して、自己犠牲を払ってかしずいてくれている、その事にこそ慰めを見出しているのでしょう。我々キャバ嬢は、普段は人に対して自分を失うように笑いながらかしずく側であって、かしずかれる方ではありませんので。嘘を付いてまで自分をもてなしてくれていることが嬉しく、哀れな女心をくすぐるのです。

 人は誰だって、「嘘」が好きです。人の本音は、大抵周囲の人間にとって都合が悪いのですから。それは何者でもない私が学んだ数少ない物事の一つです。

 少し、脱線しましたね。

 ユキト君に従っていっしょに私たちの所へ来たホストの一人が私の横に座っていました。彼からは、石鹸に近いような香水の匂いがしました。黒く長いジャケットを羽織って、ユキト君の言った言葉に、他の人よりは小さくて、透き通った声で笑いました。ユキト君の肌は日焼けしていたけれど、彼の肌は真っ白な石鹸みたいな白い発色をしていました。ユキト君は片耳にゴールドの大きな幅の広い輪を付けていたけれど、彼はそれよりは少し幅の狭い文字の入ったシルバーのリングを付けていました。その文字は日本語でもアルファベットでもないようで、いつの時代のどこの国の言葉か分からない、目を凝らして見ても、どうしたって謎めいたものでした。ユキト君の目はアーモンド形だけれど、彼の目は細く横に、少しだけ斜め上に流れていました。ユキト君の鼻はがっしりしていて男性的だけれど、彼の鼻は細く高かったです。そして彼の唇は薄くてきれいでした。短く刈り揃えたよく手入れしてある黒髪で、卵形の顔をしていました。彼―サトルは、夢のようにきれいな男でした。

 サトルは、私に「しゃべって」と言いました。瞳の奥で柔らかく確かに私を捕えて、黒目の中に私を吸い込みました。私は浮足立った反感を覚えて、初めて他人に自分の反抗を伝えました。

「しゃべるのはあなたの仕事じゃない」

私はその時、私の周りの空気自身が私の言ったことに対して違和感と抵抗を示しながらも、緩く私の言葉を吸い取っていったのを感じました。

「そう。君の言葉が聞きたかったんだ」

私の言葉は、彼の涼やかな顔を通り抜けました。

 どうして、その時に限って、私は人に逆らうことができたのかと今でも不思議に思います。しかし、それはその後からサトルに従順になるための、私が私の服従的な性質を自分と世に知らしめる、いうなれば自分が自分でしかないという人生の証明の準備だったのでした。

 サトルは私が店に行くと、初めのうちは指名しなくても、私の所に来ました。彼は、横に座って、私の方にかなり身体を傾けて、少し背中を曲げて見上げるように私の顔を覗き込んで話しました。私は一人でもそのホストクラブに行くようになりました。彼は時々、笑いました。大きな声ではありませんが、よく通る声質でした。いえ、ちょっと聞くと細い声のような気がするのです。しかし、耳に捕らえやすい、何か特殊な波長というか、青いレーザーのような感じの声でした。その声の質は、私にとって父の声質と同等で、すぐに耳に入るからすぐに自分の身体と心を捕まえられて言いなりにさせられそうで怖いのだけれど、父と違って、心に快感を湧き起こさせるのでした。

「君はいつか何になりたいの?」

サトルは私にこう聞きました。

「なぜ、なりたいものがあることが前提になっているの?」

「それが若者だからだよ」

サトルは微笑みました。

「それなら私は老人だわ」

私は卑屈に醜く笑いました。

「それなら僕の恋人になりたいと思ったことは?」

「それは叶うの?」

「叶うよ。でも、僕は高いよ。そのかわり、君に僕の世界をあげられる。君は僕の世界でいつも気持ち良くなっていればいい」

私は泣きそうな目でサトルを睨みました。

「あなたを買うわ」

 私は毎日ホストクラブに通いつめました。連日ホストクラブのドアを開けるためのお金を稼ぐために、午後の二時から五時半まではヘルス嬢として働きました。遊びと性労働で、また自分がぼろ雑巾のような布切れになるかと思っていたのに、私は肌艶もよく、しっとりとエネルギーで張り詰めていました。

 私たちは間もなく店の外で出会うようになり、身体を幾度も重ねました。

 サトルがラブホテルを下品だと嫌がるので、私は一泊に一万五千円を超える高いホテル代を何度も支払いました。しかし、私は、自分がサトルにお金をやっているのではなくて、サトルが私にめくるめく新しい世界を与えてくれているという思いに、自分の感覚が充ちていました。錯覚だったのでしょうか?いえ、それはある意味真実だったのです。サトルの世界は確かに私の世界を覆ってしまったのですから。そもそも私の世界は「無」に近いのです。そこに入り込んでくるものは拒めませんので、それならばせめて快いものに侵入されたいのです。私がホテル代を支払っている時に、彼がただ私の後ろに立っている時の気配の違和感は、私の心の殻の外側をつるりと滑っただけでした。 

 彼はよく私にシャワーを浴びさせる前に、ベッドに私を押し倒しました。そして私の頭の横の方の髪を指先で梳いてから、起き上がって、持参したCDをかけました。台にのっている地球を模した青い小さな球の照明をコンセントに繋いで、シーリングライトを消して、回転する小さな地球に太陽のように自ら発光させます。私はその青い光だけが照らす世界の中にいつまでも浸かってミニチュアの地球を見つめ続けていたいけれど、サトルは今自分が押し倒した私にシャワーを浴びてこいと言うのです。浴室で出していたシャワーを止めると、CDの音がやんでいて、サトルが吹く気まぐれなハーモニカの音が適度な主張と軽さで湯気の間を縫って聞こえてきます。私がのろのろとローブを羽織って出てくると、サトルは私の所へ速足で近づいてきて、目の前に屹立し、頬を乱暴に挟むように片手で私の顎を掴んで、私の目を自分の鋭い目で睨みつけてから、何故か私の顔を舐めるように子細に眺め渡しました。手を離すと今度は背中に腕を回し、ベッドまで私を引きずるように連れていき、座らせて、気怠そうにカードゲームなどを始めます。主にポーカーだったのですが、私は最初ルールが飲み込めずに、微かに笑うサトルに丁寧に教えてもらいました。ポーカーは引きの強さを競う知的な感じのするゲームでした。実際はそのゲームの名前と「フルハウス」だとか「ロイヤルストレートフラッシュ」だとかいう手札の名前がかっこいいだけで、私はそのゲームでまともに頭を使ってはいませんで、ひたすら運だよりでしたけれども。いえ、まともに頭を使ったことなんてあったのかしら。

 ポーカーは五回に一回勝てればいい方でした。でも私には、自分で知的なゲームと言っておきながら変ですけれども、実際にこのゲームに、運以外の何が、どんな思考が役に立つのかさっぱりわからないので、どうしてこんなにサトルばかりが勝つのか不思議でした。

 このゲームではお金は賭けませんでした。

 サトルの笑みは時折、私に対する嘲笑というよりも自嘲が含まれていました。自嘲の意味なんて私が説明するまでもないのですが、私の受けた印象をほどいて解説してみると、「敗北」を飲み込んで腹に収め切れずに顔に表れて、ひどい時は額の上にまで広げたかのようないじけた、卑屈な笑みでした。それは少し意地の悪い凶悪さをも感じさせる場合もありました。私はその凶悪さに向かうと、恐怖、そして不快を感じて、それからそれらはマゾッ気の強い快感に変わるのでした。

 散々ポーカーだとかモノポリーだとかを二人でやって、明け方になって、サトルはカードを放り投げて、床の絨毯に散らかして、私をようやく抱くのでした。ローブがはだけて、私の身体は悦びに打ち震え、何もかもから逃れたように私は大きな嬌声をあげました。抱かれる前は、あまり大きな声を出さないようにしようと思うのですが、いざとなると、そんな抑制は頭から消し飛んでしまうのでした。事が済んだ後に、順番にシャワーを浴びると、ホテルを出る頃には、段取りの全てが、一つ一つの満足感を生んで、掛け算されて、私は満たされるのでした。私は水をやってもらったばかりの植物みたいだと、自分で思ったものでした。

 サトルが自宅に招いてくれる日もありました。十五階建てのマンションの贅沢な部屋でした。実際、彼は貧しいと維持できない種類の美男子だったのだと思います。氷で覆われた水のように汚れやすくもガードを硬く張っているようなところがありました。彼は確かに、何らかの種類の自尊心をもっていなくてはならなかったのです。そして、私は彼にそうあってほしいと望むのでした。だから、幾らでも彼に貢ぎました。彼が欲するだけ。でも、どれだけ欲するのか分からないから、結局、幾らでも、なのです。

 彼は、私が来ると必ず、自分の家のキッチンに立ってカクテルを作りました。格好つけて、中指と薬指で挟んでシェイカーを振って、私のグラスに注ぎました。私は「バーテンダーになればいいのに」と言いました。

「そんな仕事じゃ大して稼げない。趣味でやっているからこそ、カクテルを作るのは自由なままなんだ」

サトルは、カウンターキッチンの前に立ったまま台に両手を広げてつきました。

「それとも…」

彼は、少し顎を引いて上目遣いに私を見ました。

「僕と付き合う羽目になってお金を浪費することにならない方が良かった?」

皮肉めいた目が笑っていました。

「そんなことないわ。あなたがホストで結構だと思うわ」

「それは良かった」

彼は自分の分のカクテルを持ってソファに座りました。私は作ってもらったカクテルを持って彼の隣に移動しました。

 矢鱈とお酒に詳しい彼は、いつもソファでその手の雑誌や書籍を読んでいました。覗き込んでも、私の頭にはちっとも入らず、だからこそ彼が余計ミステリアスなのでした。私は、その横で、カクテルをちびちび飲みながらテレビや映画を見ていました。

彼のカクテルはいつもレモンの味がしました。

私は幸せでした。心の中はただ平穏でさざ波が立たなくて安心というだけでなく、波のない―もしくは柔らかく気分よく揺れ動く―心の水は、淡いピンクだとかイエローだとかの色がついて、甘い味がするのでした。

しかし、私が力を満たしていけばいく程、生き生きとした気分になればなる程、サトルは何故か素っ気なく冷たく、うっとうしそうな様子を見せるのでした。

私は、彼の反応の薄さは、貢いでいるお金が足りないからだと思いました。一旦心が離れて行ってしまうと、二度と親密さを再び手に入れられないのではないかと、私は恐怖して、借金をして、ホストクラブで彼のために高いお酒をオーダーして、それ以外にも彼に小遣いを渡しました。高級ホテルに連れて行って、ディナーをして、小旅行で温泉に泊まって懐石を食べました。私はこの時贅沢の愉しさを覚えました。かといって、彼なしで贅沢をするほどには、そういったものに狂いはしませんでしたけれど。

ある日の夜明け、海が眺められる広場の手すりにつかまりながら、白くなって少しずつ青くなっていく空を二人で見つめていました。

「俺さ、青が好きなんだ」

彼が、自分を「僕」ではなく「俺」と言うのを聞くのは初めてでした。

「お前、綺麗になったよな」

私は嬉しくて、片足を後ろに曲げて少し上げて、しなをつくったような女の子らしい仕草をしてしまいました。そして、次の瞬間そんな自分が少しこっぱずかしくなったと思うと、彼は私の頭を抱えて自分の肩にもたれかからせて、それから私の目をじっと見つめました。私が彼の切れ長の細い目をじっと見上げていると、彼の口から今までで一番冷たい言葉が飛び出しました。

「お前、あんまりしゃべるな」

まるで、刀で切るような声でした。

 それからサトルの自宅に行くことはなくなりました。行かないとサトルに怒られる気がして、ホストクラブには毎日通いつめました。キャバクラ嬢の仕事はやめて、昼から夜までヘルス嬢として働きました。サトルが顎でしゃくると、私は高いお酒を一晩のうちに何本も入れて、胸が苦しくなるまで飲みました。サトルがあまりしゃべってくれなくて、他のヘルプでついたホストに騒々しく話しかけられるのですが、私はサトルに言われた通りほとんどしゃべらず、サトルの機嫌ばかり気になって不安で楽しくありませんでした。そんな風な毎日でも、私はサトルとの関係を持ち続けたいのでした。この関係を断ち切るのは、あまりにも苦しい、不可能な勇気を必要とすることに感じられました。ホストクラブの開店時間から閉店時間まで、そうやって過ごし、その後は、サトルに「外で待ってろ」と言われて、半ば突き飛ばされるように扉の外に追い出されてから、しばらく待つと扉からサトルが現れて、肩を抱かれて強く背中を押されるようにして歩かせられながら、ホテルへ向かいました。サトルはもう青い地球を持ち込みませんでした。午前の間荒々しく抱かれ、何度も貫かれました。喘ぎ声を出すと、サトルに頬や額の横の方を激しくはたかれるので、私は行為の最中も全く声をあげないようになりました。

それでもサトルに抱かれるのは、苦痛ではなく、嬉しかったのです。

ホテルを出ると、昼食を取るかわりに、ホストクラブから一番近いデパートに向かい、そこでサトルが手に取って私に無造作に渡す、高価な財布とかジャケットとかT―シャツとかをレジで購入して、サトルに袋を渡して、私はヘルスクラブへ働きに出るのでした。

どれだけ働いても借金は膨れ上がるばかりでした。私は騒音と外から異臭の入ってくる、狭い襤褸アパートに住んでいました。料理をする気力がなくて、いつもパンばかりかじっていました。それと、ホストクラブで頼むフルーツが栄養源だったでしょうか?私は疲弊し、顔はしなびたような気が致しました。私からエネルギーが蒸発するように抜けていった頃、何故か私のヘルス嬢としての人気は増し、最高潮に達していました。

世間が親が、異性が、私に期待することは、結局そういう状態の私なのだと思いました。

私はサトルに、この他に何をして尽くしたら仲良くしてもらえるかと考えて、「家の掃除をしにいこうか?」「ご馳走してあげようか」と提案したかったけれど、しゃべってはいけないことになっていたので、自分から必要最低限以上に話すことができませんでした。

 サトルがホストクラブで他の客につくために席を立った後、近くに座っていた背の低い幼い顔立ちをしたホストが、私にこう言いました。

「君はすごいね。サトルさんの彼女なんて」

私は思わず、

「でも、他にも彼女はいるでしょう?」

と聞いてしまいました。きっと私にはサトルを独り占めしたいという抑圧された気持ちがあったのでしょう。言ってしまってから、私はサトルが口を開いてしまった私を見ていないかと心配になって、サトルを目で探しました。サトルは店内のどこにいるのか分かりませんでした。

「いや、見たところとか聞いたところでは、いないと思うけれど。君だけだと思うよ」

意外なことに、それは本当のようでした。

 彼は飛び抜けて売れっ子のホストではなく、一部の女性からだけ人気を得て、深く付き合っている客は私だけのようでした。それほど仕事熱心ではなかったようです。しかし、今よくよく考えると、お金をくれる人間は私だけで必要を満たしていたというだけのことかも知れません。彼がいつも一人の女からお金をむしり取っていたのかどうか、私には永遠に分かりません。

 私は、彼に気に入られ続けたくて、尽くして、尽くして、でも満足に尽くさせてもらえないのでした。

 ヘルスクラブであてがわれた一室で、ひっきりなしに入って来る客が途絶えた隙にお手洗いに廊下へ出た時のことです。他の女性の部屋に背の高い、頭の小さい黒髪の男が入っていきました。疲れて朦朧としていたので、すぐには分からなかったのですが、それはサトルでした。サトルは私がヘルス嬢として働いていることは知っていましたが、どこの店なのかは知らなかったはずです。私が二人の客をこなして、もう一度廊下に出た時、サトルと女性が店を出ていきました。そして、私が仕事を終えて外に出ると、向かいのカフェでその子とサトルがにこにことしゃべって、向かい合わせでパンケーキと食べていました。その子がサトルのパンケーキを自分のフォークで刺して、食べるのが見えました。私は立ち尽くしてそのままじっと見ていました。何かどす黒いものが喉をせりあがってきました。その子はサトルの客ではありませんでした。なぜなら、席を立つと、レジでサトルがお金を払ったからです。美人でもありませんでした。ねずみみたいな目をした娘でした。サトルはいつもの特異な青い雰囲気はなくなっており、普通のハンサムな若い男でした。ただの近所に一人くらいいてもおかしくない程度の素敵なお兄さんでした。

 その次の日の早朝、私はサトルに抱かれ、常以上に身体が燃え上がり、声が出せないから余計に感覚が責められました。終わった後、サトルがふいに眠りに落ちました。私は、それを確認しました。私の身体の火照りは抑えられて、殺意のエネルギーになっていました。仕事が終わった後、いかがわしい店で折り畳み式の小さなジャックナイフを購入していました。私は下着を身に着け、その上から直接薄いコートを羽織りました。そして、鞄からナイフを取り出し、刃を広げて、サトルの胸に当たるか当たらないかの距離を取って、狙いを心臓に定めました。瞼を閉じた、落ち着いて冷たいサトルの顔は、このナイフのようでした。躊躇いと決意が交互に胸を寄せては返してきます。私はサトルを殺したら、自分も死ぬつもりでした。手首を切って流水で血を流すつもりでした。サトルを傷つけた後、自分がどうなろうということは怖くはありませんでした。死んでも、逮捕されても。もしくは実家に送り返されても。しかし、殺人の行為そのものに対する恐怖が私を縛って、引き止め続けました。その時、サトルが目を開きました。私は動揺して、息を飲んで、心も身体も固まりました。サトルはナイフを認めて、そして私の顔を認めました。そして、何も見なかったかのように、再びまた目を閉じました。十五分ほど、そうしていたでしょうか?サトルは、顔をそむけも、寝返りもせず、そのままの形、そのままの姿勢でいました。私はナイフを床に放り投げて、コートの前を閉じ、ホテルの部屋を飛び出しました。ホテルの料金は、払いませんでした。そして、数日のうちにアパートの引き払いと家財の処理を済ませて、闇金業者に誘われていたフィリピンでの風俗の仕事―まあ、売春宿ですね―を受けて、船で運ばれていきました。

 私は今、二十一になりました。海のそばの淫売宿の仕事にも大分慣れ、言葉もかなり話せています。荒んだ生活―と人様からは言われてしまうのでしょうが、それなりの平穏は得ています。同じような境遇の現地の友人も出来て、仲良くやっていますし、かつて度々捕らわれていた、恐怖や不安からは自由になれた気が致します。

 ただ……、客に犯されている時も、時々わざと声をあげないでいます。そして、波の音に自分が泡泡と割れて消えていくのをただ見つめているのですよ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
主人公の私がサトルにナイフを向ける場面の緊張感とハラハラドキドキ感が半端なくて良く書けてると思いました。ラストシーンも納得する良い感じでした。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ