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帰りたい

「それで、コージはこれからどうするつもりだい? この世界で生きていこうと考えている? それとも……元の世界に帰る方法を探すのかい?」


 エルヴァンの言葉に、俺は無意識に拳を握りしめた。


「――帰れるなら、帰りたい」


 俺の声は、思ったよりも固くなっていた。エルヴァンはしばらく黙って俺を見つめていたが、やがて静かに問いかける。


「そうか…、まあ、そういうものだろう。でもなぜ、帰りたいんだい?」


 胸の奥がちくりと痛む。俺には叶えたい将来の夢があるわけでも、愛おしい彼女がいるわけでもない。でも――理由は、ずっと自分の中で決まっていた。


「母さんに……"ありがとう"って言ってないんだ」


 俺の心には、伝えられなかった想いが、まるで重たい石のように残っていた。


 母さんは、ずっと一人で俺を育ててくれた。朝早くから夜遅くまで働きながら、どんなに疲れていても、俺のためにご飯を作ってくれた。風邪をひけば、一晩中そばにいてくれた。運動会や授業参観には、仕事の合間を縫って必ず来てくれた。俺が何も言わなくても、靴のかかとがすり減っていれば新しいのを用意してくれたし、試験前には『頑張りすぎないでね』と、そっと温かいお茶を出してくれた。


 忙しいはずなのに、どんな時も俺のことを気にかけてくれて、当たり前のように支えてくれた。そこにいることが当然だった。言葉を交わさずとも、ただ隣にいるだけで安心できた。だけど、その温もりが失われるかもしれないと思った瞬間、全身から力が抜けた。


 俺は、その当たり前に甘えていた。俺は何も返せなかった。感謝の気持ちは、ずっと胸の中にあったのに、言葉にするのが気恥ずかしくて、いつも後回しにしていた。


 『いつか言えばいい』と思っていた。でも、その"いつか"は、もう来ないかもしれない。"失ってから気づく"なんて、どこかの他人事のように思っていたはずなのに。まさか自分が、こんなにも痛みを知るなんて。


 最後に俺は何を話した? ちゃんと笑顔を見せただろうか? 母さんは、俺が突然消えてしまったことを、どんな思いで受け止めるんだろう――?


「ずっと、いつか言おうと思ってました。育ててくれて、支えてくれて、本当に感謝してたのに……いつも照れくさくて、結局言えなかった。でも、言わなきゃいけなかったんだ。たった一言、それだけなのに……」


 自分の声が震えているのを感じた。エルヴァンは、そんな俺の目をまっすぐに見つめていた。


「たしかに"いつか言おう"と思っているうちに、その機会が突然失われることはよくある。私のようなエルフは、強く思ったことが無意識のうちに"念話"となって、相手に伝わってしまうことがあるけれど、君たちヒューマンは、どんなに心の中で想っていても、言葉にしなければ相手には届かないときが多いからね。後悔しないためには、伝える勇気を持つことが、本当に大切なことなのかもしれない」


「しかし、君は優しいんだね、コージ。世界が違えば、空の色も、風の匂いも、言葉すら違う。それでも変わらずに胸に浮かぶ笑顔があるのなら、そのつながりは偽りじゃない。――魂で結ばれている、本当の絆なんだ。忘れない限り、絆は消えない。それは道しるべのように、君の胸の中に残っている。その絆を辿っていけばいい。きっと元の世界へたどり着けるはずさ」


「もちろん――、帰る方法が簡単に見つかるとは限らない。場合によっては、長い旅になるかもしれない。それでも、探し続けるつもりかい?」


「……はい。俺はやります!」


 言葉にしたからか、もう迷いはない。どんなに遠くても、どんなに難しくても、俺は帰る!


 すると、エルヴァンは少しだけ笑い、ゆっくりと立ち上がった。


「よし、それなら私もできる限り協力しよう。正直なところ、異邦人を元の世界に戻す方法なんて、私には見当もつかない。だが、"アテ"はある。この里には、魔法に関してずば抜けた知識を持つ御仁がいるんだ。――明日、その御仁を紹介しよう。」


 そう言って差し出された手を、俺はしっかりと握り返した。


 夕食を終えると、エルヴァンは「こっちへ来てくれ」と言い、後ろをついていくと、彼は小さな扉の前で立ち止まった。エルヴァンはそっと取っ手を回し、扉を開けると、そこには地下へと続く階段があった。


 階段を降りると、きのこ型の小さなランプが温かな光を灯し、ほんのりとした冷気が肌を包み込む。空気はしっとりと落ち着いていて、土と木の香りが漂っていた。ここは地下室で元々倉庫だったらしいが、埃ひとつない整った空間だった。木箱や棚が端に寄せられた一角には、きれいに整えられたベッドが置かれ、ふんわりとした毛布がかけられている。


 しばらくの間、ここで寝泊まりしてくれとのことだった。


 何から何まで世話になりっぱなしで、胸の奥がじんと温かくなる。こんなにも気遣ってもらえるなんて、思ってもみなかった。


「本当に……何から何までしてくれて、ありがとうございます」


 とお礼を言うと、エルヴァンはこちらを見つめ


「そんな、礼なんていらないよ。君の力になれたなら、それだけで十分さ。それはさておき、君がこの世界に来たのは、大きな力が働いたからだろう。見た目には元気そうに見えるけど……体の奥では想像以上の負担がかかっているはずだ。無理をしないで、今日はもう休んだほうがいい。でも、明日は私と一緒に狩りに行くからな!」


 そう言って、彼はベッドの隅に手を伸ばし、ふんわりとした毛布を軽く整えてくれた。


 エルヴァンの言葉に頷いたとき、自分でも気づかないうちに、体の芯に重たさが溜まっていたことを感じた。確かに――目まぐるしく変わった今日一日を思えば、心も身体も、知らず知らずのうちに疲れていたのだろう。


「……うん、わかった。休ませてもらうよ」


 俺はそう答え、ベッドの縁に腰を下ろした。ふわりと沈む感触が心地よく、深呼吸ひとつで体から力が抜けていく。毛布の柔らかな手触りに包まれると、まるでこの部屋そのものが優しく抱きしめてくれているようだった。瞼がゆっくりと重くなる。ランプの淡い光が遠ざかっていく中で、思考はやわらかく揺らめきながら、静かな眠りへと落ちていった。


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