森の赤ん坊
「着いたよ、あれが我が家だ」
エルヴァンはそう言って、何かを示した。
彼が指さす先には、葉のトンネルを抜けた奥に、一本の大きな木がそびえ立っていた。その幹には精巧な扉が取り付けられており、窓からはあたたかな光がこぼれている。巨木をくり抜いて作られた、森と一体になったような家だった。煙突からは細く白い煙が立ちのぼり、どこか懐かしい匂いが風に乗って漂ってくる。
扉を開けると、まず目に飛び込んできたのは、家の中心にある巨大な暖炉だった。丸みを帯びた石組みは、まるで大木の根のように力強く、奥には薪が燃え盛っている。パチパチと音を立てる炎は、オレンジ色の光を部屋中に投げかけ、壁に飾られた木の葉の押し花や、キノコのランプシェードを照らし出す。
暖炉の上には、手作りのハーブが吊るされ、スモーキーな香りを漂わせていた。
「よし、夕食に取り掛かろう。コージはそこで座って待っていてくれ、すぐにできるから」
エルヴァンは体をくるりと翻し、俺を暖炉の脇にある木のテーブルへと案内した。テーブルは年輪の模様が美しい一枚板でできており、周囲には切り株を模した椅子が並んでいる。
「実は夕食の準備中に、リセルナが息を切らせて飛び込んできたんだ。それでコージのことを聞いて、急いで駆けつけたってわけさ。でも、コージを見たときは本当に驚いたよ。この森に90年くらい住んでるが、こんなことは初めてだったからね」
リセルナってのはあの少女のことかな。それはともかく90年だって!? エルフの寿命は人間とは比べ物にならないと聞いたことがあるが…。エルヴァンの年齢って、どうみても俺の一回り上くらいなんだよな。
「今さらだが、身体の方はなんともないかい?」
パン生地のようなものを練りながらエルヴァンが言った。
「特になんともないですよ」
「なら良かった。この場所はね、エルフにとって特別な聖地なんだ」
エルヴァンは穏やかに微笑みながら続けた。
「だから、この区域には強力な魔法結界が張られていて、エルフ以外の者は本来入ることすらできない。だけど……君がここにいるということは、どうやら問題なさそうだね」
なるほど、魔族さえ寄りつかない森の中を、リセルナがたった一人で歩き回っていた理由がわかった。しかし、どうやら驚いていたのは、俺が異世界から来た異邦人だということではなく、結界内にいたことの方らしい。
「そういえば、俺のことを異邦人だってすぐに気づいてましたけど、この世界には俺みたいな異邦人って結構いるんですか?」
「どうだろう…、私は森ぐらしが長いから詳しくは分からないけど、話はよく聞いたので、結構いるんじゃないかな?」
エルヴァンはそう言うと、先ほど練っていたパン生地のようなものを手に取り、暖炉の扉を開けた。そして、インド料理のナンのように、内側の壁にそっと貼り付けていく。
「これ暖炉ではなく、釜だったんですね」
「ああ、釜でもあり、暖炉でもあるかな。そう、それで、コージを異邦人だと思った理由だが、森にいたこともそうだけれど、一番の決め手は私の鑑定魔法で何も判別できなかったことなんだ。そんなこと、普通ではありえないからね」
「鑑定魔法? それで何もわからなかったんですか?」
「うん、まったく反応しなかったよ。私は上級の鑑定魔法が使えるから、相手がヒューマンなら職業やレベル、ステータスなんかがわかるはずなのだが……」
「ひょっとして、異邦人は鑑定できないんですか?」
ふと浮かんだ疑問を口にすると、エルヴァンは顎に手を当てながら首を横に振った。
「そうも考えたのだが、たぶん違うかな。コージは女神様よりギフトを授かっている時点で、この世界に認識されている。だから、この世界の法則は適用されるはずだ」
「じゃあ、どうして俺だけ——」
「実は似たようなケースがあってね」
エルヴァンは言葉を切り、釜の焚き火の赤い輝きをじっと見つめた。
「乳飲み子なんかは、鑑定できないことが多いんだ」
「……赤ちゃん?」
「そう。鑑定魔法ってのは、表面的な情報だけでなく、そのモノに宿る"魂の核"も観ている。魂の核は"経験を吸収"して成長するものだから、経験値の浅い乳飲み子は、まるで"存在が未完成"のように視え、鑑定できないことがあるんだ」
「ってことは……俺は赤ちゃんと同じ?」
自嘲気味に笑うと、エルヴァンも苦笑した。
「まあ、そういうことになるね、おそらくレベルが"0"に近い状態なのだと思う。ただ、この世界で経験値を積めばすぐにレベルは上がるはずだよ。これからの行動次第で、君の魂の核も成長していくはずさ」
「明日は狩りに出る予定だから、コージ、君も一緒に来てくれ」
「俺も……一緒に?」
思わず聞き返してしまった。
「そうだ。君の成長のためにも、一緒に来てもらう。私と組めば、コージの成長も早まるはずだ。君がこの先どんな選択を取るにしても、コージの能力や才能を見極めておく必要があるからね」
エルヴァンは真剣な表情で頷いた。一緒に狩りをすればレベルが上がる? 俺なんかが足を引っ張らないだろうか? 不安が胸をよぎる。でも、なぜかそれ以上に「試したい」という気持ちもあった。
「……わかった。俺も行くよ」
そう答えた自分の声は、思ったより震えていた。
焚き火の炎がぱちぱちと弾ける音が響く中、ふんわりと香ばしい香りが漂い始めた。
「そろそろかな」
エルヴァンはそう呟きながら、焼き上げた生地を釜から取り出した。香ばしい匂いが部屋の空気を一瞬で満たす。お皿にそっと乗せたそれは、ふっくらと膨らんだパンとは異なり、どちらかといえば平たく、焼き色のついた表面はわずかにひび割れており、小さな気泡が見えた。まさにナンのような仕上がりだ。
彼は満足げに頷きながら、指先で表面を軽く叩いた。コツ、コツ、と軽やかな音が響く。焼き加減は申し分なさそうだった。エルヴァンは木の盆に焼きたてのナンと湯気の立つスープを乗せ、軽やかな足取りで運んできた。
「お待たせ。焼きたての"サン"と、森のきのこを煮込んだスープだ。コージの口に合うといいのだが」
エルヴァンは微笑みながら、俺の前に盆をそっと置いてくれた。見た目は"ナン"と似ているが、"サン"と呼ぶらしい。サンの表面はこんがりと焼け、所々に小さな気泡が膨らんでいる。バターのような艶がほんのりと光り、鼻をくすぐる芳ばしい香りが食欲をそそった。
スープは木の碗に注がれており、具材としてたっぷりのきのこや野菜が浮かんでいる。澄んだ黄金色のスープからは、ハーブの爽やかな香りが立ち上り、口にする前からその優しい味わいが想像できた。
エルヴァンは俺と同じものを自分の前に並べると、静かに手を組んで祈り始めた。
「慈愛深き森の導き手よ、我らに恵みを与えし大いなる光よ。
この糧をもたらした大地と、これを分かち合う仲間に感謝を捧げます。
命の巡りの中にて、我らが正しき道を歩めるよう、どうか祝福をお与えください」
祈りの言葉は残り香のようにふと消えていったが、その真摯な姿勢を見ていると、彼が本物の僧侶であることを改めて実感させられた。しかし、こんな自分にも食事までくれるとは本当にありがたい…。
俺も「いただきます」と一言いい、目の前の食事に手を伸ばした。
「このサンはね、森の果実を発酵させた酵母で焼き上げたものなんだ。そのままでもいいが、スープにつけて食べても美味しいぞ」
その言葉に促されるように、俺はちぎったサンをスープに浸し、口に運んだ。じんわりと広がる優しい甘みと、スープの滋味深い味わいが舌を包み込む。
「……うまい」
思わずこぼれた言葉に、エルヴァンは満足そうに微笑んだ。
ここから俺は、自分が元いた世界についてエルヴァンに語った。魔法もエルフも存在せず、俺達人間だけが"科学"と呼ばれる技術を発展させながら生活している――そんな世界のことを。
話を聞き終えると、エルヴァンは真剣な表情になり、静かに俺を見た。
「それで、コージはこれからどうするつもりだい? この世界で生きていこうと考えている? それとも……元の世界に帰る方法を探すのかい?」




