転移魔法
「結界のことはノアリス様にお任せして――我々は先に戻ろう。ダンジョン遠征の帰りだ、コージも疲れているだろう」
そう言い残すと、エルヴァンは踵を返し、来た道を静かに引き返し始めた。
「俺にも……何か手伝えること、ありますか?」
世話になっている身だからだろうか。気づけば、その言葉は自然と口をついて出ていた。
「そうだな……ノアリス様は、明日にでもカロンのアジトへ乗り込むおつもりだ。アンデッドの数も相当だろう。コージがいてくれれば、心強いかもね」
「俺も、行きます!」
思わず声に力がこもる。
――こうして俺たちは一度家へ戻り、翌朝、カロンの根城へと向かうことになった。
翌朝。
目を覚ますと、テーブルの椅子に腰掛けているノアリスさんの姿があった。寝ぼけ眼のまま挨拶をすると、彼女はちらりとこちらを見て、
「コージくんも来るんやってな。ええやん、ちょうどええ鍛錬になるで」
軽く笑い、それから肩をすくめる。
「まあ、ウチとエルヴァンで大方片付ける予定やけどな。あんまり出番はないかもしれへんけど」
「もう作戦は決まってるんですか?」
そう尋ねると、
「作戦ぅ? そんなもん――いらんやろ」
ノアリスさんは口元を歪め、不敵に笑った。
「ウチらが一方的に蹂躙するだけや」
……やっぱり、結界を破られたこと、相当怒ってるな。
俺は用意されていた朝食をかき込むように済ませ、外へ出た。玄関の扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは、あの奇妙な乗り物――絨毯と丸太で組まれた、"空飛ぶ筏"だった。
すでに組み上がっており、エルヴァンが最終確認をしている。
「ノアリスさん、作戦はないって言ってましたけど……本当に大丈夫なんですか?」
気になっていたことを、そのままぶつける。
「まあね」
エルヴァンは苦笑気味に肩をすくめた。
「奴はダンジョンに籠もっている。行ってみないと分からない部分も多い。時間があれば下見もできたんだろうけど……ノアリス様が"すぐにでも"とおっしゃっているからね」
「それで大丈夫なんですか?」
「私とノアリス様なら、そこまでの脅威ではないと思う」
淡々とした口調で言い切る。
「ただ……ダンジョン内の罠は少し厄介かな。それに――カロンは転移魔法を使う。これまで何度も、あと一歩のところで逃げられている」
「転移魔法……じゃあ今回も――」
「いや、今回は違う」
エルヴァンの視線が、わずかに鋭くなる。
「過去の経験から、すでにノアリス様は対策を編み出していてね。転移魔法そのものを封じる、特殊な結界術さ」
なるほど、転移魔法を封じる結界か。相手がダンジョン内に籠もっているのなら──袋のネズミ、というわけだ。
「ところで、転移魔法って、どれくらいの距離を移動できるんですか?」
「そうだね……個人の力量にもよるが、せいぜいあそこに見える畑くらいかな」
エルヴァンはそう言って、300メートルほど先にある小さな畑を指さした。
思っていたより、ずっと短い。逃走に使われていると聞いていたから、もっと長距離を一瞬で移動できるのかと思っていたが──どうやらそうでもないらしい。
……いや、待てよ。
連続で使えば、結果的に長距離移動になるんじゃないか?
「転移魔法って、マナはかなり消費するんですか?」
「確かに消費は大きい。だが問題はそこじゃない」
エルヴァンは静かに首を振る。
「どんな魔術師でも、原則として一日に一度しか使えない。それが転移魔法の本質的な制約だ」
「えっ……1日1回だけ、ですか?」
「せやで」
不意に、横からノアリスさんが割って入った。
「転移魔法っちゅうのはな、"この世界に穴を開ける"行為や。使い手の魔力だけやなく、"世界そのもの"の均衡エネルギーまで消費してまう」
ノアリスさんは指を立て、軽く振る。
「せやから一度使うと、世界は自分でその傷を塞ごうとする。その修復に使われるんが──マナやない。"魂"や」
思わず、息を呑んだ。
ノアリスさんは構わず続ける。
「魂にはな、普段あまり使われへん"予備領域"っちゅうもんがある。転移魔法はそこを削る仕組みや。せやから、一日一回くらいなら問題あらへん」
「予備領域は時間とともに回復する。だいたい1日かけて、ゆっくりとな。せやけど──」
その声が、わずかに低くなる。
「限界を超えたら、本体に手ぇ出しよる。そうなったら、精神は乱れるし、最悪は寿命まで削ることになる」
「……だから、1日1回まで、ってことですか」
「そゆことや」
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「魂を削るなんて……転移魔法って、思ったより怖いんですね」
「そこまで怯える必要はないよ」
エルヴァンが肩をすくめる。
「そもそも転移魔法は禁忌に近い術だ。1度使えばマナ回路そのものに負荷がかかってね、少なくとも半日は再使用できない。どのみち連続使用は不可能だ」
一拍置いて、彼はわずかに目を細めた。
「──リッチでもない限りは」
「リッチは、連続で使えるんですか?」
「ああ。あれは魂そのものを扱う死霊術師だからね。無限というわけじゃないが、かなりの回数を連続で使える。そのせいで、何度も取り逃がしている」
空気が、わずかに張り詰める。だが、その緊張をあっさりと打ち破ったのは──
「でも安心しいや」
ノアリスさんが、にやりと笑った。
「ウチが、ええもん作っとるからな」
「転移魔法を封じる結界術……ですね!」
「なんや、もう聞いとるんかいな。せや、それや」
ノアリスさんは胸を張る。
「今度こそ、逃がさへんで。──ほな、行こか!」
ぐい、と背中を押された。
俺は抗う間もなく、その勢いのまま筏へと押し込まれてしまう。
「出発やっ!」
威勢のいい掛け声とともに、エルヴァンが風を送り込んだ。
次の瞬間──筏がふわりと浮き上がる。
地面が、みるみる遠ざかっていく。
そのまま、空高く舞い上がったのだった。
頬を打つ風は強いが、不思議と安定している。筏は揺れながらも、確かな軌道で空を進み続けていく。
飛行は順調だった。
何度も魔物が寄ってきたが、そのたびにノアリスさんが軽く追い払ってしまう。まるで虫でも払うかのような余裕ぶりだ。
やがて──二時間ほどが経ち。
「見えてきたで」
前方、岩肌に口を開ける巨大な影。カロンの根城であるダンジョンが姿を現した。
だが。
上空から見下ろした瞬間、思わず息を呑んでしまう。入口周辺を埋め尽くす、無数のスケルトン兵。それは群れというより、完全な"軍勢"だった。
隙間なく陣形を組み、静かにこちらを待ち構えているように見える。
……間違いない。
「カロン……最初から俺たちを誘っていたのかもしれないな……」
昨日の襲撃。あれはやはり、罠だったのだろうか。
思わず声が漏れる。
「敵兵……多すぎませんか!? あれじゃ、転移魔法を封じる結界なんて、とても張れそうにないですよ……!」
だが。
その光景を見たノアリスさんは、口元をわずかに歪めて言った。
「ちょうどええな」
「ええ、あれだけ密集してくれていると、むしろ好都合ですね」
エルヴァンも、落ち着いた声でそう続ける。
……え?
「コージ」
エルヴァンが振り返った。
「これから私とノアリス様で、極大魔法により入口付近の敵を殲滅する。
終わり次第、降下して結界を張るつもりだ。準備をしておいてくれ」
さらりと言うが、やることはとんでもない。
「そんじゃ、ウチからやるで!」
ノアリスさんが前に出た、その瞬間。
──空が裂けた。
頭上に走る、光の亀裂。そこから溢れ出す、神々しい輝き。
光の精霊・ヨスアールだ。
「──聖域光芒」
静かな詠唱。
その直後、天を貫く光の柱が降り注いだ。一本──いや、二本。
地上のスケルトン兵団を、容赦なく飲み込んでいく。
さらに、エルヴァンの頭上にも、同じ亀裂が走った。
(風の精霊だけじゃなかったのか……!)
「──聖域光芒」
その声が響いた瞬間。
さらに二本の光柱が現れ、入口を囲むように展開される。
世界が、白に塗り潰された。
骨は焼かれ、影すら残らない。
悲鳴すら許されない、完全なる殲滅だった。
やがて光が消え──
そこには、何も残っていなかった。
あれほどいたスケルトン兵が、一体たりとも。
「よし、降りるぞ」
エルヴァンの声が響く。
空を駆けていた筏は、ゆっくりと高度を落としながら──
静まり返った戦場へと降下していったのだった。
筏は、岩肌にぽっかりと口を開けたダンジョンの入口、その目前に静かに降り立った。
「うまくいったようですね。魔物の気配は感じません」
エルヴァンが周囲に視線を巡らせながら、低く告げる。
「あまり時間はあらへん。エルヴァン、予定どおり頼むで」
ノアリスさんの言葉に、エルヴァンは短く「わかりました」とだけ応じると、風のようにその場を離れた。
「今からウチとエルヴァンで手分けして、結界を張る準備する。コージくんはここで待っといてな、すぐ終わるさかい」
そう言い残し、ノアリスさんは迷いなくダンジョンの門へと歩み出す。エルヴァンはすでに先行しているらしい。確かに、のんびりしている暇はなさそうだ。
「念のため、門は一時的に閉鎖しとくわ。魔物どもと――あの"しおれた魔法使い"を外に出さんためにもな」
その言葉が空気に溶けた、まさにその瞬間だった。
「門を封じても、もう遅いぞ」
背後から、地を這うような低い声。
ぞくり、と背筋が凍りつく。
振り向いた瞬間、視界に飛び込んできたのは――
黒いマントをまとい、空洞の眼窩に不気味な光を宿した骸骨の魔物。
リッチだ――!!
「アカンッ……!」
ノアリスさんの叫びが響く。しかし、その声を最後まで聞き取るよりも早く、俺の足元に魔法陣が浮かび上がった。
眩い光が弾ける。
次の瞬間、身体が引きずり込まれるようにして、意識ごとどこかへと奪われた。
――気がつくと。
俺は、ひんやりとした空気に包まれ、薄暗い空間に立っていた。
静寂。
次の瞬間、ぼう、と炎が灯る。一つ、また一つと灯火が連なり、周囲を照らし出していく。そこは――まるで洞窟の奥深くのような場所だった。
……転移魔法、か。
そういえば、さっき――リッチの姿を、確かに見た。
「驚かせたようだな……」
背後から、くぐもった声が響く。
ゆっくりと振り返る。
やはりそこに立っていたのは、あの骸骨の魔物――禍々しい気配をまとったリッチ。
「ワシの名はカロン……」
虚ろな眼窩の奥で、青白い光が揺らめく。
「お主は一体――何者だ……?」




