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結界

えっ!? 一匹残らず始末する…?


「……どういう、ことですか?」


 絞り出すような俺の問いに、ノアリスさんは愉しむように、言葉を区切った。


「――客人のために、わざわざ門を開けてやったんや」


 俺の口からこぼれた言葉に、彼女は満足げに頷く。その笑みはさらに深くなった。


「奴らは、当然、綻びが生じたこの"リナーリア清泉区"に、蟻が蜜に群がるように殺到する。他の地区は、これまで通り盤石の結界で守られとるからな」


 その瞬間、俺は彼女の描いた戦術の全貌を理解し、背筋に冷たいものが走った。つまりひょっとして…、わざと結界を破壊させた!? もし結界を調整できるなら、特定の区域に敵をお生き寄せることができる。

 開かれた門。唯一の侵入経路。それを逆手に取れば、敵を誘い込むための罠になる。


「……袋の鼠、ということですか」


「正解や。一匹ずつチマチマ相手にするんはめんどくさいからな。あの阿呆どもは、何の疑いもなくこの死地に足を踏み入れるやろ」


 ノアリスさんはそう言って、夜の闇よりも昏い、不敵な笑みを浮かべた。その瞳は、すでに獲物を捉えていた。


「ほら、待ちかねた客人が来おったで」


 ノアリスさんのどこか楽しげな声とは裏腹に、地平の先から現れた光景に俺は息を呑んだ。深閑しんかんとした森の奥、無数の白骨が蠢いている。

 その数、ゆうに百は超えるだろうか。カタカタ、と骨の擦れ合う乾いた音が、静かな里に不気味な不協和音を響かせていた。それは、結界が完全に破られている、紛れもない証拠でもあった。


「今のコージなら、そこそこ戦えるかもしれないな」


 冷静なエルヴァンの声が、恐怖に固まる俺の背中を押す。


「えっ、俺がですか!? さっき、オーガ1体にすら手も足も出ず、死にかけたばかりなのに……!」


 思わず素っ頓狂な声が出た。俺の抗議に、エルヴァンは静かに頷く。


「だからこそ、だよ。生死の淵を覗くほどの苛烈な戦闘は、魂の霊験を飛躍的に高めるからね。紫斑鬼しはんきとの死闘は、君を確実に強くしている」


 まさか、と思いながら自らのステータスを確認すると、迷宮を出る前と比べて、レベルが30近くも跳ね上がっている……!

 死の淵に立つことこそが、ここでは成長への最短距離だというのか。


 リッチに操られたアンデッドは、生前の力を十全には発揮できないという。ならば、このレベルがあれば、あるいは――。

 俺がごくりと唾を飲んだ、その時だった。


「コージくんには、ええ腕試しの相手やもしれんな」


 ノアリスさんが悪戯っぽく笑ったかと思うと、一転して冷ややかな光を目に宿した。


「――せやけど、やっぱり、この美しい里が、阿呆どもの土足で汚されるんは我慢ならん。今回は何もせんでええ。

 エルヴァンと二人で、ちゃっちゃと掃除してくるさかい。コージくんはそこで、特等席から見とき」


 言うが早いか、彼女は言い放った。


「ほな、行こか、エルヴァン!」


「はっ!」


 次の瞬間、二つの影が弾かれたように飛び出した。迫りくる白骨の津波へと、二人は真っ直ぐに突っ込んでいった。


 それは、もはや戦闘と呼ぶのもおこがましい、一方的な蹂躙だった。エルヴァンが両手を掲げると、天から降り注ぐ聖なる光の槍が、アンデッドの軍勢を神の御業のように浄化していく。


 光に触れた骸は、断末魔を上げる間もなく塵へと還る。


 その光の網をすり抜けた一体の顎を、ノアリスさんが放った鋭い氷の槍が下から正確に貫いた。砕け散る骨片が、まるでダイヤモンドダストのように光を反射してきらめく。


 光の奔流と、氷の乱舞。次元が違う。俺の出る幕なんて、どこにもありはしなかった。圧倒的な力の前に、あれほど数多く見えたスケルトンの兵団は、見る影もなく数を減らしていく。


 やがて統率を失った骸の群れは、恐慌をきたしたように踵を返し、森の奥へと逃げ惑った。


 静寂が戻る。これで終わりか、と安堵しかけた、その瞬間だった。


 空が、偽りの夕焼けを迎えたかのように朱に染まった。


 無数の火線が空を裂き、灼熱の雨となって森へ降り注ぐ。木々が爆ぜる甲高い音、そして熱風が俺の頬を撫でた。やけくそになった敵が、森ごと俺たちを焼き尽くすつもりなのか。


 俺は慌てて二人の元へ駆け寄った。燃え移る炎を前に、思わず叫ぶ。


「この火、大丈夫なんですか!?」


「これくらい、この森の湿り気なら大事にはならん」


 ノアリスさんは静かにそう言うと、燃え盛る木々を冷ややかに一瞥した。だが、その声には先ほどまでの余裕はない。美しい顔に絶対零度の怒りを浮かべ、彼女は吐き捨てた。


「――しかし、舐められたもんやな。ウチの庭で糞尿を撒き散らすとは……万死に値するわ」


 普段の柔らかな物腰からは想像もつかない、殺意と呼ぶにはあまりにも純粋な憤怒。その気迫に、燃え盛る炎さえ気圧されているように見えた。彼女はゆっくりと天を仰ぐ。


「一匹たりとも、この里から帰さへんで!」


 静かな宣告と同時だった。ノアリスさんの頭上、その一点の空間がガラスのように軋み、光の亀裂が走った。


 天使の降臨か、あるいは神の顕現か。俺が息を呑んで見上げていると、亀裂の向こうから人ならざる"何か"が姿を現す。それは、光そのもので編まれたような、性別も年齢も超越した美しき存在だった。


「あれは……」


 呆然と呟く俺の隣で、エルヴァンが静かに、だがどこか畏怖を込めた声で言った。


「光の精霊"ヨスアール"。どうやらノアリス様は、本気で奴らを塵一つ残さず消滅させるおつもりだ」


「精霊……!?」


「ああ。精霊の力を借りることで、術者の魔力は飛躍的に増大するからね」


 エルヴァンの言葉が、目の前の光景の異常さを裏付けていた。光の精霊ヨスアールがノアリスさんを見下ろすと、彼女は祈るように、そして呪うように、その名を紡いだ。


「――聖域光芒サンクトゥス・レイ!」


 ノアリスさんが唱えた瞬間、世界から音が消えた。


 灼熱の風も、木々の爆ぜる音も、何もかもが遠い世界の出来事のように途絶える。そして、ただ一筋。天を衝く光の柱が、ノアリスさんを中心に地上へと打ち込まれた。


 それは、森を焼く炎とは似ても似つかぬ、浄化の光。神々しく、そしてあまりにも無慈悲な、絶対的な力の顕現だった。


 光は爆発的な速さで同心円状に広がり、森を薙ぎ払っていく。


 しかし、不思議なことに、燃え盛っていた木々は光に触れると、まるで時間を巻き戻すかのように炎が消え、元の静かな姿を取り戻していく。


 光が焼き尽くすのは、この森にとって"異物"であるものだけだった。


 天を覆っていた朱色の空は光に洗い流されて碧空を取り戻し、降り注いでいた火の雨は、まるで幻だったかのように消滅した。


 そして、森の奥へと逃げ惑っていた骸の群れは――悲鳴を上げる間もなく、聖なる光に呑み込まれ、浄化されていった。


 断末魔の一つも上がらない、あまりにも静かな殲滅。


 やがて光が収束し、再び世界に音が戻ってきた時、そこには焦げ跡一つない、静謐な森が広がっているだけだった。


「……すごい」


 俺はただ、その一言を漏らすことしかできなかった。だが、その圧倒的な光景とは裏腹に、俺の背筋を冷たい汗が伝う。強すぎる力は、時に人を畏怖させる。


「ノアリス様!」


 エルヴァンの鋭い声にはっと我に返ると、彼の視線の先で、ノアリスさんの華奢な身体がふらりと傾いだ。


「あまり無茶をなさらないでください。いかにあなたでも、連続行使はお身体に障ります…」


「…やかましい。ウチの庭を汚されたんや。これくらいせな、気が済まへん」


 か細い声に滲むのは、後悔ではなく、底なしの怒り。彼女はゆっくりと顔を上げた。血の気の引いた横顔に、しかしその瞳だけは、先ほどまで骸の群れが逃げ込んだ森の暗闇を、憎悪の炎で射抜いていた。


「――おかげで、ようわかったわ。あの"しおれた魔法使い"の、腹の内が」


「え……?」


 唐突な言葉の意味を測りかねる俺の前で、彼女は冷たく言い放つ。


「こんなに早く、里の結界が破られたんは想定外やったが、攻め込んできた兵の数も質も、あまりに粗末。奴ら、最初からこの里を攻め落とす気なんか、なかったっちゅうことや」


 その言葉は、俺の頭に鈍い衝撃を与えた。では、あの侵攻は一体何のために? 俺が口を開くより早く、ノアリスさんが続ける。


「決まってるやろ。ウチらを本気で怒らせ、牙を剥いて飛び出してくるのを、手ぐすね引いて待っとるんや」


「完全に罠ですよ、あまりに明白な!」


 エルヴァンが叫ぶ。だが、ノアリスさんは不敵に笑った。その笑みは、自らの消耗さえも楽しむかのように、狂的でさえあった。


「わかっとるわ。だから言うてるんやろ」


 彼女は一歩前に踏み出した。その足取りにもはや、ふらつきはない。


「その罠、乗ったろうやないかい!!」


 魂を叩きつけるような咆哮。


「リッチのアジトはわかっているんですか?」


 俺が尋ねると、エルヴァンが、少し悔しさを滲ませた声で答えた。


「実は、私とノアリス様で、これまで幾度となくカロンの討伐に向かったのだが、その都度、あと一歩のところで逃げられていてね。

 奴は狡猾に拠点を変え、今はここから東へ少し離れた場所にある、ティアツーの迷宮ダンジョンを根城にしているようだ」


「こんな露骨な挑発をしてくるゆうんは、よっぽどの秘策があるんやろうな。けどな、そんなもん関係あらへん。明日にでも乗り込んで、あの骨野郎の頭蓋を叩き割ったるわ」


 ノアリスさんが拳を握りしめ、息巻く。エルヴァンはそんな彼女の横顔をしばし見つめた後、静かに、しかし決然と言った。


「……そうですね。奴は曲がりなりにも、この里の結界を破った。これ以上、野放しにはできません。たとえ、いかなる罠が待ち受けていようとも」


 エルヴァンの言葉は、もはや諌めるものではなかった。


「さて、と。ウチはちょっくら結界を修復してくるわ。こんなザルみたいな状態じゃ、夜の間にどんな雑魚どもが嗅ぎつけてくるかわからんからな」


 ノアリスさんは吐き捨てるように言うと、ふらりと泉の方へ歩き出した。


 残された俺は、先ほどの戦いの衝撃が冷めやらぬ中、どうしても拭えない疑問をエルヴァンにぶつけてみた。


「今まで、この里の結界が破られたことってあったんですか?」


「私の知る限り、一度もないかな。だからこそ、今回の事態は異常なのだ」


 エルヴァンは苦々しげに顔を歪め、言葉を続けた。


「もっとも、予兆はあった。里の結界は、邪気を持つ魔物の侵入は完全に防ぐが、ただの動物は通してしまうという特性がある。

 カロンはその"穴"を突き、動物の亡骸を操って、これまでも斥候のように里へ送り込んできていたんだ」


「動物の亡骸……。じゃあ、気づいていたんですね」


「ああ。リッチに操られた時点で、それはもはやただの亡骸ではない。邪気に汚染され、生前の面影もない禍々しい存在と化す。

 里に入れば我々が気づかぬはずもない。奴の尻尾を掴むため、あえて気づかぬふりをして泳がせていたのだが……それも、もう終わりだ」


 エルヴァンは固く拳を握りしめた。


「結界そのものを破壊するという暴挙に出た以上、もはや看過はできないからね」


 最高機密とまで言われた結界が破られたのだ。もはや一刻の猶予もないことは、俺にも痛いほどわかった。

 先ほどのノアリスさんの魔法は確かに絶大だった。だが、それでも何度も取り逃がすほどの相手だ。

リッチ・カロンが仕掛けてくるという罠は、決して生半可なものではないだろう。ふと、脳裏にノアリスさんの消耗しきった姿がよぎる。あれほどの力には、相応の代償が伴うのではないか。


「そういえば、先ほどノアリスさんは光の精霊を召喚して、かなり消耗されているようでしたが……やはり、精霊の召喚というのは、術者にそれほどの負担を強いるものなのでしょうか?」


 俺は懸念を口にした。エルヴァンは静かに頷き、その問いに答える。


「召喚自体は、消耗するものでもないのだが……力を振るうための"器"が大きくなる分、結果として、身を削ることになる場合が多い…かな」


 エルヴァンは言葉を選びながら、静かに語り始めた。


「先ほどのノアリス様は、あの戦場で、"極大魔法アーク・マギア"を……実に、4度も放たれたのだから」


「よ、4回!? あの一撃だけじゃなかったんですか!?」


 思わず声が出た。俺の目には、空を覆い尽くしたあの巨大な光の柱は、ただの一撃にしか見えなかった。


「気づかなかったかい? 君の目の前に現れたのが最初の一撃。だが、あの時、敵の兵団は広範囲に散らばっていた。

 ノアリス様はそれを許さず、離れた場所に立て続けに三度、光の鉄槌を落とされたのだ」


 エルヴァンは、続けた。


「そもそも、あの聖域光芒サンクトゥス・レイは、上級魔法トリプルキャストの更に上に位置する魔法で、上級職のみが使用できる……"極大魔法アーク・マギア"と呼ばれる魔法だ。

 だから本来、連続でしようできるような魔法ではないんだ」


「じゃあ、精霊を召喚すれば、それを連続で……?」


「そうだが、少し違うかな。精霊は、力を増幅させる加護を持っているが、術者の魔力に応え、いわば"もう一人の自分"として、追加の一撃を放ってくれる存在でもあるんだ」


 どうやら精霊は、魔力を増幅させる以外にも、術者の分身として、追加で魔法を放つことができるようだ。

 そしてエルヴァンは一度言葉を切り、深い溜息をついた。


「ノアリス様は、もともとその常識から逸脱したお方なのだ。自らの力のみで、極大魔法を連続行使できるという、世界でも稀有な才能の持ち主でね。

 つまり、ご自身の力で二発、そして精霊の力を借りて二発。合計、四発もの極大魔法を、あの瞬間に叩き込んだことになる」


 信じられない、という言葉しか出てこなかった。規格外にもほどがある。


「……ただ」と、エルヴァンは声を潜めた。


「その御業が、彼女の体にどれほどの負荷を強いているか…」


 なるほど、そういうことだったのか。俺が垣間見た疲労困憊の姿は、その壮絶さのほんの一端に過ぎなかったようだ。


 不意に、エルヴァンが静かな眼差しを俺に向けた。


「そうだ。これは私の直感に近いものだが……コージ、君にも近々、精霊が応える日が来るような気がするんだ。だから、その時に改めて、精霊との付き合い方を詳しく教えよう」


「えっ? 俺に、ですか?」


 あまりに唐突な言葉に、俺は自分のことかと聞き返した。精霊。それは、選ばれた魔法使いだけが契約できるという高次の存在、というイメージがあってか、俺のような未熟者に、縁のある話とは到底思えなかった。


「なぜ、そう思うんですか?」


 俺の戸惑いを映した問いに、エルヴァンは悪戯っぽく口の端を上げた。


「それは、その時までのお楽しみ、というものさ」


 彼はそう言うと、ただ穏やかに微笑んだ。その笑みは、まるで遠い未来までも見通しているかのような、不思議な深さと温かさに満ちていた。


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