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闇魔法

 柔らかな浮遊感から一転、ごとん、と軽い衝撃と共に、俺達が乗っていた空飛ぶいかだがラーレス修道院の裏手に着陸するやいなや、ノアリスさんが忌々しげに舌打ちした。


「……やっぱり来おったな」


 筏の縁に腰掛けていたノアリスさんが、修道院の入口を見やりながら呟いた。その声には、呆れとどこか楽しむような響きが混じっている。隣でエルヴァンが静かに頷き、「みたいですね」とだけ応じた。彼の横顔からは何の感情も読み取れない。


 俺には何のことかさっぱりだったが、念話か何かで、里の様子は掴んでいるのだろう。二人の間に流れる無言の了解は、留守中に何か厄介事が持ち上がったことを雄弁に物語っていた。


「でも、ちょうどええな。コージくんの鍛錬になるかもしれへん」


 不意にこちらを向いたノアリスさんは、悪戯っぽく片目をつむいだ。


「しかし、コージくんはよう頑張ったな。疲れたやろ、ゆっくり休とき。……もっとも、すぐにまた遠征になるかもしれんけどな」


 そう言って不敵な笑みを浮かべると、ノアリスさんは軽やかな身のこなしで筏を降り、修道院の通用口へと消えていった。


 残された俺が筏から降りると、エルヴァンは間髪入れずに筏の解体に取り掛かった。魔法で編まれた木と蔓が、彼の指先から放たれるかすかな光に触れるたび、するすると解けていく。その見事な手際をただ眺めているのも手持ち無沙汰で、俺は一番気になっていたことを口にした。


「あの……誰か来たんですか?」


 問いかけると、エルヴァンは筏を解体する手を休めることなく、淡々と答えた。


「ああ。里の近くにスケルトンの兵団が現れたそうだ」


「スケルトンの兵団……それって、魔物ですよね?」


 乾いた骨と骨がぶつかり合う、そんな不快な音が耳の奥で響いた気がした。


「十年ほど前、"カロン"というお尋ね者のリッチがこの森に逃げ込んできてね。奴が、時折こうしてちょっかいを出してくるんだ」


 リッチ。その言葉に、俺は息を呑んだ。確か、アンデッドを意のままに操る、高位の魔術師。


 待てよ、そいつが操っているスケルトン兵団というのは、この大陸最強とも言われるフワの大森林の魔物たちの屍ということか?


 だとしたら……。


「リッチの手下はこの森の魔物たちってことですよね!? そんな連中が徒党を組んで攻めてきたら……この里、大丈夫なんですか!?」


 思わず声が上ずる。だが、エルヴァンは落ち着き払っていた。


「今のところは問題ないよ。リッチに操られたアンデッドは、生前の半分の力も出せないからね。数だけの張り子の虎さ。……だが、奴には他の魔物にはない、厄介なものがある」


「厄介なもの?」


「ああ、"知性"だ」


 エルヴァンはそこで初めて手を止め、静かに俺の目を見た。


「頭がいい、ということですか?」


 俺がそう尋ねると、彼は静かに頷いた。


「リッチはもともと人間だ。永遠の命を渇望し、禁断の儀式を経て"人であることを捨てた"魔術師の端境はざかいに堕ちた姿。だから、生前の知識も、狡猾な人格も、完全に保持している」


 彼の声のトーンが、わずかに低くなった。


「それどころか、人ならざる者となってからの悠久の時間で、さらに魔術と知識を磨き続けている。放っておけば、この里の結界も破られるかもしれない…。だから、奴は将来、我々にとって脅威となりうる存在なんだ」


 この里の結界が……!?


「あの…、少し話が逸れるんですが……俺がこの里の結界内に留まれる理由って、何かわかりましたか?」


 ずっと疑問だったことを切り出すと、エルヴァンは悪戯っぽく口の端を上げた。


「コージを近くでずっと観察させてもらったけど、正直まだ断定はできないんだ。なにせ、ノアリス様ですら首を捻っておられたからね」


 そこで言葉を切ると、彼は楽しそうな目で俺を見据えた。


「ただ一つ、非常に興味深い仮説が浮かんでね。君は、おそらく――状態異常を引き起こす攻撃に、極めて強い耐性を持っている」


「耐性……ですか?」


 聞き慣れない言葉に、思わず問い返す。エルヴァンは深く頷いた。


「昨日、この里の結界は侵入者に麻痺や混乱といった"不快な状態異常を与える魔法"だと話しただろう?

 最初、君は何かしらのアーティファクトでそれらを無効化しているのだと思ったんだ。

 ノアリス様が"冷酷グリムなる収穫ハーヴェスト"という即死魔法を打ち消したようにね。だが、どうも違ったらしい」


 そこでエルヴァンの雰囲気が変わる。探るような、真剣な眼差しになった。


「初陣でのダークフロスト・ボーンドラゴン……覚えているかい? 奴の身体から瘴気が噴き出していたのを」


「ええ。あの霧を吸った途端、肺が灼けるように熱くなって、酷い倦怠感に襲われました。忘れようにも忘れられません」


 あの時の、体の芯から力が抜けていくような感覚を思い出し、俺は顔をしかめる。するとエルヴァンは「やはりな」と呟いた。


「普通、あの瘴気をわずかでも吸い込めば、全身が痺れて即座に行動不能に陥る。致命的な毒なんだ」


「え……? でも、俺は動けましたよ」


「そこなんだよ」と、エルヴァンは人差し指を立てた。


「君が軽傷で済んだことこそ、耐性がある何よりの証拠だ。そして、少しでも症状が出たということは、アーティファクトによる"完全な無効化"ではないことを意味する」


 彼は一度言葉を区切り、核心に触れるように声を潜めた。


「奴の瘴気と、闇魔法の"麻痺パライズ"は効果が似ているんだ。そして里の結界は、その麻痺パライズのような闇魔法を幾重にも重ね合わせた複合結界になっている。


 ……思うに、君はこの世界に来た時、意識を失っていたようだが、その昏睡している間に、何らかの理由で君の身体が結界の状態異常に順応し――結果として、強力な免疫を獲得したのではないかな」


 エルヴァンの言葉は、俺の中で絡まっていたいくつもの疑問を解きほぐしていくようだった。


 闇魔法の結界に適応し、状態異常への耐性を得た……。理由は皆目見当もつかないが、俺の身体がこの世界で生き抜くために、未知の変化を遂げたということか。戦闘において、敵の厄介な攻撃が無効化されるというのは、間違いなく大きなアドバンテージになるだろう。


「……なるほど。悪い話ではなさそうですね。少し、安心しました」


 強張っていた肩から、ふっと力が抜ける。一つの謎が解けたことで、思考に余裕が生まれた。闇があるなら、光もあるのだろうか。


「ところで、闇魔法があるということは、光魔法もあるんですか?」


「ああ、もちろん」


 俺の問いに、エルヴァンは満足げに頷いた。


「回復系の魔法などがそれに当たる。……先程、私が呪竜に放った聖域光芒サンクトゥス・レイ、あれも光魔法だよ」


「あれが……!」


 思わず声が漏れた。あの、闇を祓う神々しいまでの光の柱。脳裏に焼き付いた光景が、エルヴァンの言葉と結びつく。


「光と闇の魔法は、火や水といった元素系魔法とは少し理が異なるからね、今はまだ、そういうものがあるとだけ覚えておけばいい。いずれ詳しく話す時が来るだろう」


 諭すようなエルヴァンの言葉に、俺は静かに頷いた。しかし、聖域光芒サンクトゥス・レイ……。あれは光魔法だったのか。元素系魔法の魔導書全てをグリモワールに読み込んでも、魔法の系統が分からなかったのはそのためのようだ。


 しばらくして、エルヴァンが筏を解体し終え、最後の木材が淡い光の粒子となり、彼の左腕にはめられた縮界しゅくかいの腕輪に吸い込まれていった、その時だった。


「えっ!?」


 エルヴァンの顔から、さっと血の気が引いた。普段の冷静沈着な彼からは想像もつかないほど、その声は鋭く上ずっている。


 何かを睨むように虚空を見つめるその横顔は、明らかにただ事ではない。念話で、不吉な報せでも受け取ったのだろうか。


「何かあったんですか!?」


 俺が尋ねると、エルヴァンはこわばった表情のまま、絞り出すように言った。


「……まずい。どうやら、良くないことが起きたようだ」


 その言葉を肯定するかのように、ふいに背後の木立から影が滑り出るようにノアリスさんが姿を現した。


 修道院に戻ったはずの彼女の気配に、俺は息をのむ。その表情からは普段の柔和な笑みは消え、氷のような鋭さが宿っていた。


「まだおって良かったわ、エルヴァン。急いで確認に行くで」


「確認…って、一体なにが起こったんですか?」


 俺の問いに、ノアリスさんは険しい眼差しで答えた。


「里の東側の結界が、破られたんや!」


 結界が破られた? その言葉の意味を理解した瞬間、心臓が氷の手に掴まれたように冷たくなった。つい先ほど心配していた最悪の事態が、現実のものになったというのか。


「だ、大丈夫なんですか!?」


「せやから、それを今から確かめに行くんや。コージくんも来るか?」


 ノアリスさんの問いに、迷いはなかった。俺に何ができるかはわからない。けれど、この人たちの力になりたい。ただ守られているだけの存在でいたくはなかった。


「俺も行きますっ!」


 俺は声を張って即答した。その目を見て、ノアリスさんは短く、力強く頷いた。


「よっしゃ、覚悟はええな。場所は里の東端にある"リナーリア清泉区"や!急ぐで!」


 ノアリスさんの鋭い声が、号砲のように静寂を切り裂いた。さっきまでの穏やかな時間が嘘のように空気が張り詰め、肌に突き刺さるような緊張が場を支配する。俺たち三人は言葉もなく頷き合うと、迫りくる脅威へと向かって鬱蒼とした森を疾駆した。


 木々の間を縫い、落ち葉を踏みしめてリナーリア清泉区にたどり着いた俺は、目の前の光景に息を呑んだ。魔物の群れが泉を汚し、暴れまわっている――そんな最悪の想像とは裏腹に、そこは静寂に包まれていた。


 せせらぎの音だけが静かに響き、風が運ぶ花の甘い香りが鼻をくすぐる。澄みきった水が絶えず湧き出る泉も、その岸辺で風に揺れる花々も、あまりに平穏で――それがかえって不気味だった。


「……何も、いないみたいですね」


 拍子抜けしたような俺の呟きに、ノアリスさんが鋭い視線で応えた。


「見た目に騙されたらあかんで。この地区一帯を守る結界が、綺麗さっぱり消失しとる。これほどの異常事態は、そうそう起こるもんやない。……まあ、原因にだいたいの見当はついとるけどな」


「この里の結界って、地区ごとに分かれてるんですか?」


 俺の素朴な疑問に、ノアリスさんは一瞬口ごもり、何かを測るように俺の目を見た。


「……結界のことは、里の最高機密や。本来なら、部外者には話せん。けど、コージ君には特別に教えたる」


 彼女は覚悟を決めたように、静かに語り始めた。


「結界は、地区ごとに張られた小規模なもんが幾重にも重なり、さらに里全体を覆う巨大な結界で守られとる。せやけど……里全体を覆う大結界は、今、意図的に止めとるんや」


「意図的に? どうしてそんな危険なことを……」


 俺が問い返すと、ノアリスさんの口元に、冷たく、獰猛な笑みが浮かんだ。


「決まっとるやろ」


「――あの"しおれた魔法使い"の兵団を、一匹残らず始末するためや」


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