流廻波
「うわぁ……。このちんまい筏で"呪竜"と正面からやり合えってか。さすがに無茶言うわ」
水平線の染みに過ぎなかった黒点が、みるみるうちに翼を持つ竜の姿へと変わっていくのを睨みながら、ノアリスさんがやれやれと肩をすくめた。
「地上に降りますか? 」
心配そうに問いかけるエルヴァンに、彼女は首を横に振った。
「この辺はまだオーガの縄張りやろ。地上でドンパチやらかしたら、さっきの連中がすぐに飛んでくる。それはそれで面倒や」
そう言うと、ノアリスさんは悪戯っぽく片目をつむった。
「なぁエルヴァン。この筏、ウチの"流廻波"をぶっ放しても、バラバラにならんか?」
「ええ、ご心配なく。見かけより遥かに頑丈な作りですから」
確信に満ちた返答に、ノアリスさんは強張っていた口元をわずかに緩めた。
そして、急速に近づいてきたドラゴンの姿が、はっきりと見えてくる。その異様な姿に、俺は息を呑んだ。
「頭が……2つ、あるのか?」
「双頭は上位竜の証や。分かりやすいやろ?」
ノアリスさんは、絶望的な状況にもかかわらず、どこか楽しんでいるようにも見えた。
「ドラゴンは大陸に7種類おってな、それぞれに"上位種"が存在する。あれは"ネザーボイド・ボーンドラゴン"。昨日、おまえさんたちが仕留めたダークフロスト・ボーンドラゴンの上位種や」
彼女の言葉を裏付けるように、その巨体は昨日のボーンドラゴンの倍はあろうかという威容を誇っていた。
次の瞬間、双頭のドラゴンは二つの顎を大きく開き、片方からは絶対零度の冷気を、もう片方からは致死の毒液を、濁流のごとく吐き出した!
しかし、ノアリスさんの反応は神速だった。
「――ノヴァ・インパルス!」
猛火の炎が渦を巻き、氷のブレスを凄まじい水蒸気と共に蒸発させた。
「――グレイシャル・プリズン!」
間髪入れず、もう一方の腕からは極寒の氷塊が放たれ、毒のブレスを瞬時に凍結させて空中で砕け散らせた。
先ほど魔導書を読み込んだおかげか、今目の前で起きた現象が二つの"上級魔法"によるものだと瞬時に理解できた。
だが、呪竜の猛攻は止まない。今しも二つの顎から放たれたのは、万物を焼き尽くす灼熱の劫火と、触れる者の精神まで蝕むという、あの呪いの黒炎。性質の異なる二つの破滅が、俺たちに襲いかかった。
「――深淵大海嘯!」
ノアリスさんの凛とした声が響き、眼前に巨大な水の壁が顕現した。これは水魔法のトリプルキャストだ、灼熱の劫火は激しい水蒸気を上げて霧散したが、呪いの黒炎は少しも勢いを衰えさせることなく、水の壁を侵食しながら突き進んでくる。
その黒き呪炎が我々を呑み込まんとした、その瞬間。
「――聖炎簒奪!」
エルヴァンの鋭い詠唱と共に、彼の掌から放たれた聖なる白炎が、まるで生きた捕食者のように黒炎へ喰らいついた。穢れた呪いを浄化するように、白い炎は黒い炎を瞬く間に吸収し、かき消した。
「ノアリス様、奴が本気になる前に、私が隙を作ります。その間に流廻波を!」
エルヴァンの言葉に、ノアリスさんは「頼むわ!」と力強く応じ、次元折畳器から自身の背丈をも超える長大な銀杖を取り出した。杖身に刻まれた無数のルーンが、秘められた魔力の高まりに応えるかのように淡く輝く。
「――ヴァーユ・サイクロンスフィア!」
エルヴァンの詠唱が、呪竜の周囲に荒れ狂う暴風の檻を生成した。これは風魔法のトリプルキャストで、巨体を誇る呪竜といえど、翼を持つ者にとって風は天敵。その動きが僅かに、しかし確実に鈍化した。だが、完全な足止めには至らない。
その一瞬の隙を逃さず、ノアリスさんは長大な銀杖を呪竜へと突きつけていた。切っ先に連凧のように幾重にも連なる翠緑の魔法陣が出現し、さながら巨大な風車の如く高速で回転を始める。凄まじい勢いで大気の魔力が収束していく様は、もはや砲台そのものだ。
しかし、エルヴァンの牽制も長くは続かない。暴風を振り払った呪竜が、三度、破滅の双顎を大きく開く。その絶望が空気を満たした瞬間、ノアリスさんの鋭い声が戦場を切り裂いた。
「エルヴァン、今やっ!」
その声は合図。エルヴァンは待っていたとばかりに、最後の言霊を紡ぐ。
「――聖域光芒!」
それは、宣告のようだった。詠唱が完了するや否や、天が裂け、呪竜の巨体を貫くかのように、神々しいまでの光の柱が天頂から降り注いだ。聖なる光に焼かれ、呪竜が苦悶の咆哮を上げる。
その隙を見逃すはずもなく、ノアリスさんの鋭い声が俺の耳を打った。
「コージ君、しっかりつかまっときや!」
彼女はそう言いい、展開していた長大な銀杖を反転させ、高速回転する翠緑の魔法陣――その渦の中心へと小さな炎の塊、フレアショットを撃ち込んだ。
次の瞬間、起爆剤が投じられたかのように魔力が爆ぜる。
「ほな、逃げるでー!」
ノアリスさんの絶叫と同時、魔法陣から放たれたのは破壊の光線などではなかった。凄まじい魔力の奔流が後方へと噴射され、俺たちの乗る筏を凶暴なまでの力で前方へと射出したのだ!
「ぐっ…おわっ!?」
まるで巨大な壁に背中から叩きつけられたような衝撃。内臓が浮き上がる不快な感覚に、俺は悲鳴を上げる間もなく筏の縁に必死でしがみついた。凄まじい風圧が肌を削り、景色が溶けて後ろへ流れ去っていく。
ほんの数秒前まで死闘を繰り広げていた呪竜の姿は、あっという間に米粒ほどの大きさになり、やがて光の柱と共に地平線の彼方へと消え去った。
これは、攻撃魔法ではなかった。猛烈な加速に脳が追いついてきた頃、俺は呆然と理解した。流廻波。その名の通り、魔法陣で練り上げた膨大な風の魔力を、炎魔法を起爆剤にして後方へ噴射し、絶大な推進力に変換する魔法。
あの連凧のような魔法陣はキャノン砲などではなく、いわば、魔力で駆動する巨大な"噴射口"だったようだ。
しばらくして、背後から聞こえていた凄まじい轟音が嘘のように静まり、筏は穏やかな速度を取り戻した。俺はまだ心臓をバクバクさせながら、強張っていた体からようやく力を抜く。
「……うまく巻けたようですね。里まではもう目と鼻の先です」
冷静なエルヴァンの声が、強張っていた空気を和らげた。
「はー、ほんま肝冷えたわ。いくらなんでも、あんなんと筏で空中戦はしんどすぎる。なんとか上手くいってよかったわ」
ノアリスさんが、やれやれといった様子で銀杖を肩に担ぎ直す。その横顔には、安堵の色が浮かんでいた。
「あの、今の魔法は…? なにかを噴射して飛ぶ、みたいなものなんですか?」
興奮冷めやらぬまま、俺は尋ねた。攻撃魔法だとばかり思っていたものが、まさか緊急離脱用の推進魔法?だったとは。
するとノアリスさんは、ニヤリと悪戯っぽく笑って見せた。
「まあ、そんなとこやな。専門的に言うと、風魔法で極限まで圧縮した空気を魔法陣内で循環させ、そこにうちの火魔法を起爆剤として叩き込む。そしたらどうなる?」
「え…爆発的に燃焼して…?」
「そや。その勢いで発生した高温高圧のガスを一気に後方へ噴射して、反動でぶっ飛ぶっちゅうわけや」
彼女はこともなげに言うが、やっていることはとんでもない。
「ただ、見ての通りマナの消費がアホみたいに多いし……何より、むっちゃくちゃうるさいやろ? 下手したら森中の魔物にお食事はこちらですー言うて知らせて回るようなもんや。せやから、森ん中じゃ滅多なことでは使わんのよ」
やはり、あの流廻波の原理は、俺の知るターボジェットエンジンに近いものらしい。魔力でそれをやってのけるのだから凄まじいが、同時にノアリスさんの言う通り、とてつもない騒音だった。
あれほどの音を立てれば、厄介事を引き寄せてくださいと言っているようなものだろう。緊急時以外は、使うべきではない魔法のようだ。
やがて筏は穏やかに速度を落とし、里の上空へとたどり着く。筏がゆっくりと地面に接し、固い土の感触が足裏に伝わった瞬間、ようやく俺は心の底から安堵のため息を漏らした。
こうして俺たちは、あの絶望的な戦いを乗り越え、無事に帰るべき場所へと戻ってきたのだった。