呪竜
「ここで終わりだね。後は私がアイテムを回収済みだから、これ以上進まなくてもいいだろう」
エルヴァンは涼しい顔でそう言った。
迷宮内で一泊し、異端祈祷師なる行商人に寝込みを襲われる!? という最悪の目覚めから始まった俺たちの探索は、怒涛の勢いで突き進んだ。
そして、俺が寝ている間、エルヴァンが事前に下調べをし、地下九階層と八階層の宝を全て回収済みという手際の良さのおかげで、出発からわずか半日程度で探索は幕を閉じた。
あっけない幕切れではあったが、得られたものは大きかった。掃討した魔物の数は相当なもので、俺のレベルはもうじき200に到達するだろう。アイテムもたくさんに手に入り、俺としてはこの上ない満足感を覚えていた。
すると、ノアリスさんが言葉を継いだ。
「アイテムは全部回収できたみたいやし、また異端祈祷師とこ行こか。あいつ、トリプルキャストの魔導書を全部持っとったさかい。しかもな、交換レートがべらぼうに低かった。この機会を逃す手はないで。まだ冥樹の近くにいるやろ、行こか」
どうやら、ノアリスさんは手にしたばかりのアイテムと魔導書を交換したいらしい。冥樹は迷宮内における冒険者たちの拠り所であり、休憩所でもある。異端祈祷師がその近くにいるという話だったので、俺たちは地下四階層にある冥樹へと向かった。
しかし、到着しても、その姿はどこにも見えなかった。しばらくすると、どこからともなく、底冷えのするような不気味な声が聞こえてきた。
「……生贄を、さあ、捧げよ……」
その声を聞きつけ、ノアリスさんは早速、異端祈祷師の下へ駆け寄った。俺はノアリスさんの言葉を待たずに、交換用の武具を縮界の腕輪から取り出した。色とりどりの剣や鎧、スティック。地面に並べたそれは、ゆうに20を超える。
ちなみに、俺が今身につけているのは、ミスリルの鎖帷子に加えて、先ほど手に入れたばかりの、"星鉄の魔甲"という鎧を魔魂パペットに装備している。
エルヴァンが言うには、星鉄とは隕石のことで、魔法耐性に優れた希少な素材らしく、この鎧はレアアイテムらしい。打撃耐性の高いミスリルと組み合わせることで、物理と魔法、両方の防御を築き上げていることになる。魔法剣士は純粋な戦士系職業に比べて、装備できる武具が限られている。だからこそ、この星鉄の魔甲を手に入れられたのは、本当に僥倖だった。
地面に並べられた武具類を見て、ノアリスさんは、
「おっ、仕事が早いやないかい」
と微笑み、
「これ、持ってったって」
と異端祈祷師に指示した。異端祈祷師は地面に並べられた大量の武具を次元折畳器へと次々に回収していった。
そして、また深々と頭を下げ、
「ああ、魂の渇きよ! 我が内に宿る真理の光は、汝らの絶望を鎮めるだろう。だが、その安息は、お前たちが探し求めたものとは異なる。永遠の楽園とは、この我にその魂を捧げた者のみに許されるのだ」
また、わけのわからない独り言を呟き、顔の半分を奇怪な仮面で覆った異端祈祷師は、ノアリスさんの前に魔導書を四冊、無造作に積み上げた。そして、異端祈祷師は用が済んだとばかりに、その場を立ち去ろうとしたところ、
「またんかい! 一冊足りひんで?」
不機嫌そうなアリスの声が、異端祈祷師の背中を射抜く。まるで動きを封じられたようにぴたりと足を止めると、彼はゆっくりと振り返った。
「…だが、この渇きを潤すには、まだ遠く及ばぬ」
そう言って、仮面の奥からじっとノアリスさんを見つめる。あれだけじゃ足りない、もっと"対価"を寄越せ、ということらしい。
「しゃーないなぁ、これ持ってけ」
呆れたようにそう呟くと、ノアリスさんは腕にジャラジャラと幾重にも巻かれたブレスレットの一つを外した。無数の装飾品の中でもひときわ光を放つ、お気に入りの銀細工のブレスレットだ。
それを異端祈祷師に手渡した。すると異端祈祷師は、まるで聖なるものを拝領したかのように神妙な面持ちになった。
「魂の解放とは、この我を崇めし後に訪れるのだ」
満足げにそう宣うと、彼は五冊目の魔導書をノアリスさんに手渡し、そのまま音もなくどこかへ消えていった。
「よかったんですか? あのブレスレット渡しちゃって」
俺が思わず尋ねると、ノアリスさんは満面の笑みを浮かべた。
「お気に入りやったけど、まだあと二つ持っとるからええねん。それにな、あんなもんでこの魔導書が手に入るなんて、ありえへん話やろ?」
ノアリスさんは戦利品を抱きかかえるようにして、ご機嫌な様子で言った。その嬉しそうな顔を見ていると、俺もつい笑みがこぼれた。どうやら、上級の魔導書とはそれほど価値があるモノのようだ。
「ほれ、コージ君、トリプルキャストの魔導書が五冊や。これで元素系魔法は全て揃ったな。なくさないうちに、グリモワールに読み込んだってな。」
ノアリスさんが無造作に差し出したのは、すでに読み込まれている火以外のすべての魔導書。水、風、土、氷、そして雷。五つの魔導書が重なり、ずっしりとした重みを手に感じた。こんなに早く元素系魔法がすべて手に入るとは思ってもいなかった。
「ありがとうございます! 大切に使わせていただきます!」
俺は感謝を伝えると、すぐさまグリモワールを取り出した。五つの魔導書を次々と、まるで宝物を収めるかのように丁寧に読み込んでいく。その様子を見ていたエルヴァンが、からかうように言った。
「並の魔法剣士なら二つ、魔法使いで三つくらいだけど、コージは六つも読み込むんだから、もう、大魔法使いみたいだね」
その言葉に、俺は思考を巡らせた。エルヴァンは『普通の魔法剣士は二つ』だと言う。以前ノアリスさんが『四つがいいところ』と言っていたのは、星脈が二つあって、魔法が四つ使えるという意味だろうか。だとすれば、星脈一つにつき、魔法は二つ使えることになる。
俺には星脈が三つある。だから六つ読み込めるのかな、あとマナの回路の明瞭さも関係あるとは思うけど。自分の能力の謎が、一つ解けたような気がした。
「それじゃ、里へ帰ろか」
ノアリスさんの柔らかな声に背中を押され、俺たち三人は迷宮の出口へと歩を進めた。静まり返った通路を抜け、出口が見えてきたそのとき、ノアリスさんは俺の心を見透かしたように言った。
「コージ君、この迷宮の魔物じゃ、ちょっと物足りんかったやろ? 外に出たら、森の魔物と少し戦ってみるかい?」
たしかに、その通りだった。せっかく手に入れた剣術の奥義書。最強の必殺技を会得したものの、この迷宮では一度たりとも本気で使う機会がなかった。
霊装剣を振るえば、大抵の魔物は一撃で事足りてしまう。何度も練習のために放ってみたが、それはただ空を切るだけの虚しい行為だった。まるで壁に向かって素振りをしているような物足りなさ。
やはり、その技は強い相手に使ってこそ"必殺技"足りえるのだと、身をもって実感していた。
「はい、俺もそう思っていました。もう少しだけ、手応えのある相手と戦ってみたいです」
俺の言葉に、ノアリスさんは満足そうに頷いた。
「よっしゃ、それじゃあ一戦してから里へ戻ろうか」
ノアリスさんの快活な声が、迷宮の冷気を打ち消すように響いた。重い扉が開き、外へ出た瞬間、俺は思わず顔をしかめる。迷宮の薄暗さに慣れた目に、外の光が痛いほどに突き刺さった。ひんやりとした空気が、生暖かい風に押し流され、濃密な土と草木の匂いが鼻腔をくすぐる。
空を見上げると、太陽が真上から燦々と降り注いでいた。ああ、そうか。迷宮に入った時も、ちょうどこんな時間だった。俺たちは、丸一日もあの地下にいたのだと実感した。
とはいえ、不思議と疲れは感じない。むしろ、今の俺の中には確かな実力と、それを試したいという昂ぶりだけが熱を持っていた。
「念の為、すぐ出発できるよう、用意しといてくれんか? 筏」
ノアリスさんの言葉に、エルヴァンは『承知しました』と返事をすると、腕にはめた縮界の腕輪から、ひゅっと空気を押し出すようにして筏を取り出した。
「その筏も収納できたんですね」
俺が何気なく尋ねると、エルヴァンは頷きながら答える。
「ああ、このくらいの大きさならね」
そう言って、彼は両手で空間を測るような仕草を見せた。彼の話によると、縮界の腕輪や魔魂石といった一般的な次元折畳器は、どれも収納サイズが決まっていて、一部の特大サイズを除いて大差はないらしい。
三畳ほどの大きさがある筏がすっぽり収まるのだから、収納空間はざっと計算して250センチちょいの立方体といったところだろうか。
突然、ノアリスさんの鋭い叫び声が森に響く。
「近くにおるな、コージ君! 準備し!」
俺には魔物の気配など微塵も感じられない。しかし、次の瞬間、ざわめく静寂を切り裂くように、すぐそばの茂みが揺れた。ガサリ、ガサリ、と重く、しかし慎重に動く音が巨木の陰からかすかに聞こえてくる。俺はゴクリと喉を鳴らした。
「コージ君、もう覚悟はええか? 先に言っとくが、この森の魔物は迷宮の連中とはわけが違う。おまえさん一人じゃ、確実に勝てない。だが、まあ、経験や。経験を積めば、おまえさんの剣はもっと研ぎ澄まされる。それに、何かあってもウチとエルヴァンがおる。ウチらの前で、その剣のすべてを見せてみい!」
ノアリスさんの声には、迷宮で戦う時とは違う、本物の緊張が滲んでいた。すると、横にいたエルヴァンが静かに言った。
「この気配は"オーガ"だね。おそらくオーガの上位種、"紫斑鬼"だろう。紫斑鬼はでかい上に動きが速い。気をつけないと、一瞬でやられるかもしれない」
オーガの上位種だって? オーガを見たこともない俺には想像すらできない。だが、得体の知れない恐怖が、抜いたばかりの剣の柄を握る手に汗をかかせる。はやる鼓動を抑えながら巨木の陰を覗くと、紫色の巨大な影がぬっと姿を現した。
それは、想像を遥かに超える大きさだった。うっすらと白い縞模様の入った紫色。その巨体は、俺の背丈の倍近くもある。だが何よりも驚かされたのは、その紫の身体を覆う分厚い筋肉と、その動きの滑らかさだった。
そして、握りしめた巨大な棍棒は、まるで木を丸ごと引き抜いたかのように太く、ただそこに立っているだけで周囲の空気を圧迫している。
紫斑鬼、その名の通り鬼みたいだ奴だ。だが、俺は迷宮で何度も死線をくぐってきた。そのせいか、目の前の脅威を前にしても、驚くほど冷静に剣を構えることができた。
そして、俺は全身の力を剣に込め、試しに空を切り裂く鋭い一閃を放った。狙いは敵の心臓である魔核。肉を断ち、骨を砕く手応えを確信していた。
しかし、剣先が敵の体に触れた瞬間、予期せぬ事態が起きた。
肉を斬るはずの感触は一切なく、まるで巨大な岩盤を叩きつけたかのような、鈍く、硬質な衝撃が腕を襲った。剣は滑るように弾かれ、腕全体にビリビリと痺れが走る。甲高い音が響きわたっただけだった。
霊装剣で強化したくらいではどうにもならず、紫斑鬼の体には何の傷もついていない。つまりそれは、俺の剣が見えなかったからではなく、避けられなかったからでもない。
コイツは、俺の一撃を"ただ無意味なもの"として受け流しただけなのだ。その圧倒的な力の差を理解した瞬間、全身から冷や汗が噴き出し、背骨が凍りつくような感覚に襲われた。
そして次の瞬間、俺の視界から奴が消えた――。
「上やっ!」
ノアリスさんの叫び声が、思考よりも速く俺の身体を動かした。横に転がるように地面を蹴ると、直後、紫斑鬼の巨大な棍棒が轟音とともに振り下ろされ、土煙が舞い上がり、俺がいた場所にはクレーターのような抉れが残った。
「後ろだっ! 距離を取れ!」
エルヴァンの声が鼓膜を震わせる。休む間もなく、紫斑鬼はまるで瞬間移動でもしたかのように俺の背後を取り、その禍々しい棍棒を再び振り上げていた。
死角からの奇襲。だが、俺の身体は既に次の行動を選んでいた。紙一重でその一撃を躱し、熱を帯びた風が頬を掠める。俺には紫斑鬼の動きが全く見えない。ノアリスさんとエルヴァンの助言なしでは、今頃、俺は血飛沫を上げていたに違いない。
その時だった。
「コージ君、ガンバレ~!」
ノアリスさんの間延びした声が、場違いに響いた。俺の視線の先、紫斑鬼の右足には、深々と氷の槍が突き刺さっていた。実力差を見かねたノアリスさんが、ついに痺れを切らしたらしい。不本意ではあったが、奴の動きがこれで鈍るのは間違いない。
紫斑鬼は、足に深々と突き刺さった槍には目もくれず、俺に向かって突進してきた。その動きは、見るからに鈍重だ。だが、移動の遅さとは裏腹に、棍棒を振るう動作は変らず視認できないほどの速さだ。
俺が慎重に距離を保ち、奴の攻撃を捌いていると、コイツの攻撃には致命的な癖があることに気づいた。攻撃に入る直前、必ず棍棒を大きく後ろに振り上げるのだ。これなら、間合いを保ちさえすれば、回避は容易い。それに、よく観察すると、その動作はどれもこれもが大ぶりで、動きもかなり単純だ。
これならば、俺の必殺技、"風晶覇絶・貫滅刃"を叩き込む隙があるかもしれない。
風晶覇絶・貫滅刃は、風の結晶たる"風晶"を生成し、その鋭利な風晶と強大な風の力を合わせて放つ、一点突破型の斬撃技だ。岩のように硬い紫斑鬼の肉体にも、この一撃ならば風穴を開けられるはずだ。
そして、紫斑鬼が大きく空振りをした瞬間、俺は満を持してウルトを奴の胸元めがけて叩き込んだ!
「風晶覇絶・貫滅刃――!」
剣を振るうと同時に、無数の風の結晶が空中に浮かび上がり、青白い光を放ちながら俺の剣に収束していく。音すら追いつかぬ速度で放たれた一閃は、紫斑鬼の胸元を狙ったはずが、わずかに逸れて奴の左肩に深々と突き刺さった。
「交わされたか……」
俺がそう思った瞬間、紫斑鬼の巨大な棍棒が俺の左脇腹にめり込んでいた。強烈な衝撃と共に俺の体は宙を舞い、そのまま背後の巨木に叩きつけられた。
全身の骨という骨を砕かれたような激痛に、体はまったく動かない。口からは大量の血が溢れ、声どころか、呼吸すらままならない。鼓動が耳の奥でうるさいほど響いている。全身が震えている。でも、それでも俺は思う。
――ここで死ぬわけにはいかない。
ノアリスさんにも、エルヴァンにも、まだ何も返せていない。こんなところで終わるなんて、冗談じゃない。
まだやりたいことがある。
守りたいものがある。
戦う理由がある。
恐怖を振り払うように、奥歯を噛みしめるも、もう力が入らない──意識が朦朧とする中、エルヴァンの声が硝子越しの囁きのように響いた。
「大丈夫かい?」
その途端、瀕死だった俺の身体に温かな光が差し込み、裂けた肉が、砕けた骨が、音もなく元の形を取り戻していく。――エルヴァンの回復魔法だ。
「ありがとう…ございます」
かすれる声で礼を言いながら、俺は地面に手をつき、ふらつく体を支えながらゆっくりと体勢を整えた。そして、あたりを見渡したが、そこに紫斑鬼の姿はどこにも見当たらなかった。
荒い息をつきつつ、周囲を見回す──だが、あれほどの威圧感を放っていた紫斑鬼の姿は、どこにも見当たらない。
「奴は……どこ行ったんですか?」
俺の問いに、エルヴァンが肩をすくめながら答えた。
「ノアリス様が相手すると言っていたから……たぶん、もうその辺で倒れてるんじゃないかな?」
もう一度、あたりを注意深く見渡す。すると、少し離れた地面に巨大な影が転がっていた。その全身には無数の氷の槍が突き刺さり、紫斑鬼は、まるで巨大なハリネズミのような異形となって息絶えていた。
そこへ、ノアリスさんが上機嫌で近づいてきた。
「どうやった? なかなか手ごわかったやろ?」
「すみません……俺、倒せませんでした。っていうか、死ぬかと思いました」
俺が苦笑まじりにそう返すと、ノアリスさんはにっこりと微笑み、こんなことを口にした。
「でも、たまには極限の死闘を経験するのも、悪うないやろ。肉体の限界を越えてなお立ち上がるとき、人は初めて"自分"と深う向き合える。死と隣り合わせの場所でこそ、命の重みと、生きる意味っちゅうもんが、よう見えてくるんや。そういう経験は、単なる技術や力を超えて――おまえさんの"人間そのもの"を鍛えてくれるんやで」
ノアリスさんの言葉には、どこか慈しみが滲んでいた。その眼差しの奥には、長い歳月を戦い抜いてきた者だけが持つ、静かな誇りと真理が宿っている――そんな気がした。
そして、その言葉は、ふっと心の奥深くに染み込んでいく。死の淵を覗いた、あの瞬間、胸の奥に灯った熱は、今も消えることなく燃え続けている。まだ、やりたいことがある。守りたいものがある。そして――俺には、戦う理由がある。
俺は、少し俯いたまま、つぶやくように口を開いた。
「……確かに、死にかけて、初めて"生きたい"って本気で思いました」
その言葉は、驚くほど素直で、言った自分が一番驚いていた。ノアリスさんは、何も言わずに頷いた。
戦いの終わりを告げるかのように、柔らかな風が吹き抜けていく。命がある。ただそれだけのことが、今はたまらなく尊い。
「急いで出発しましょう」
エルヴァンが鋭い声で告げた。
「……まだ何かあるんですか?」
俺が息を整えながら問うと、彼は険しい表情のまま、低く答えた。
「オーガはね、群れで動くことが多いんだ。さっきの断末魔……あれを聞きつけて、仲間たちが動き出している。おそらく近くに奴らの寝床があるのかもしれない」
それを聞いた瞬間、肌を刺すような緊張が背筋を駆け抜けた。風の向こう、木々のざわめきに紛れて、地を踏み鳴らすような重く鈍い足音が混ざり始めている。確実に、何かがこちらへ向かってきているのがわかった。
「ほな、コージ君。剣とマナ輝石、ちゃっちゃと回収して帰ろか」
ノアリスさんの言葉にハッとする。そうだ、骨剣をまだ刺しっ放しだった。俺は慌てて紫斑鬼の亡骸へと駆け寄った。氷の槍が何本も突き刺さったその巨体。その中に混じって、白く光る一本の剣がある。
俺の骨剣──渾身の一撃だったはずなのに、思いのほか浅くしか刺さっていなかった。森の魔物と真正面から渡り合うには、俺の力はまだ遠く及ばないらしい。思い知らされるようで、悔しさと同時に、どこか静かな覚悟が胸に芽生えた。
そっと引き抜き、柄を握り直す。そして、すぐそばに転がっていた紫色のマナ輝石を拾い上げる。淡く脈動する光が、まだ魔の気配をまとっていた。
ふと視線を落とすと、地面には紫斑鬼が使っていた巨大な棍棒も転がっていた。まるで丸太のように無骨で重そうだが、これも貴重な素材だ。俺はそれもすばやく回収する。
そのときだった。木々の奥――揺れる枝葉の間から、影のような巨体がいくつも姿を現し、じわじわとこちらへ迫ってきているのが見えた。
「……まずい!」
心の中で叫ぶと同時に、俺は全力で二人のもとへ駆け戻った。
ノアリスさんとエルヴァンはすでに筏に乗り、俺の帰還を静かに待っていた。飛び乗るようにして筏に乗り込んだその瞬間、
「出発だ!」
エルヴァンの掛け声とともに、風魔法の力で筏が風に抱かれた羽のように動き出した。
その背後では、紫斑鬼の群れが木々をかき分けて現れ、あと数歩というところまで迫っていた。ほんの少しでも遅れていたら、逃げ切れなかったかもしれない――そんな間一髪の状況だった。
「ふぅ~、危なかったのぅ」
ノアリスさんが笑いながら、どこか楽しそうに肩をすくめる。あの化け物たちに囲まれかけていたというのに、まるで遠足の帰り道みたいな口ぶりだった。
筏はそのまま空高く舞い上がっていくかと思いきや、意外にも木々のすれすれを滑るように飛行していた。行き道では、地上の景色がみるみるうちに小さくなっていった記憶がある。だが今回は、まるで何かを避けるように、低空を保ったまま進んでいる。
「……もっと高度を上げなくていいんですか?」
俺が不安を込めて尋ねると、エルヴァンが静かに答えた。
「ああ、"雷対策"だよ。オーガの中には雷属性のスキルを使う個体がいてね。もし見つかれば、雷撃で筏を狙われる恐れがある。だから今は、木々の陰を使って視界から隠れつつ飛んでいるんだ」
そしてちらりと空を見上げる。
「そろそろ大丈夫かな……高度を上げても問題なさそうだ」
俺は内心でうなずいた。あの紫斑鬼が雷を操れたのなら、確かに雲のない上空は、完全な無防備地帯だ。逃げ場も隠れ場所もなく、雷撃を浴びればひとたまりもない。
そして、筏がぐんぐんと高度を上げ始めたそのとき――
「あん!?」
ノアリスさんが、これまで聞いたことのないほどの大声を上げた。その声に驚いた俺は、思わず振り返って訊ねた。
「ど、どうしたんですか?」
ノアリスさんは目を見開いたまま、空の一方向をじっと見据えながらつぶやく。
「あかん……あれは……あかんで……こっち来とる……!」
同じ方角を見ながら、エルヴァンが低く言った。
「間違いなく、……向かってきてますね」
二人の視線を追って、俺も空の彼方を見つめる。すると、遠くの雲間から、何か巨大な影がこちらへ向かって飛来してくるのが見えた。翼を広げ、まるで黒煙が押し寄せるような瘴気をまといながら、一直線に。
ノアリスさんの声が、硬く震えた。
「"呪竜"や……」
呪竜――ドラゴン? いや、それ以上の何か。あまりの威圧感に、遠目からでも"ヤバい"と分かる。
「呪竜って……ドラゴンの仲間ですか?」
と俺が尋ねると、エルヴァンが真剣な表情で答えた。
「呪竜とは、ドラゴンの上位種のことだ。討伐に成功しても呪いを受けることがあるから、その名で呼ばれている。存在そのものが災厄……この大陸で最強の生物だよ」
「た、大陸最強……!?」
思わず声が裏返る。そんなヤツが、こっちに向かって飛んできてるって――ありえない。