冥樹
俺は、魔法剣士としての固有スキル、"霊装剣"を習得して以来、破竹の勢いで迷宮を突き進んでいた。
すでに半日以上は迷宮内を探索し続けている。倒した魔物の数など、とっくに覚えていない。だが、その成果は確実に現れており、俺のレベルはすでに120を超えていた。
手に入れた戦利品も山ほどある。しかし、今朝に潜ったティアスリーの迷宮よりも、ここティアツーの迷宮は遥かに広大で、エルヴァンの話では、まだ全体の半分にも達していないらしい。
一体いつになったら攻略が終わるのか……。そんなことを考えていた矢先だった。
「おっ、ちょうどええとこに"冥樹"が生えとるな。今日はここで寝よか」
ノアリスさんがそう言って、目の前に根を張る大きな白銀の木を指差した。冥樹――それは闇の気配を帯びた、しかし崇高な静けさも漂わせる不思議な樹だった。
「えっ、ここで寝るって……里に戻らない……? つまり、野宿ですか!? それに、こんなところだと魔物が襲ってきたりしないんですか?」
思わず声を上げる俺に、ノアリスさんは涼しい顔で、『なんや、心配性やなあ』と笑った。
「コイツは、木の根っこのようにも見えるけど、冥樹っていうけったいなキノコの一種や。迷宮の地下四階層くらいからちらほら見かけるな。
ほんで、魔物はこの胞子が苦手でな、絶対近づいてけぇへん。迷宮じゃ数少ない、安全地帯の一つや」
ノアリスさんがそう言って腰を下ろすと、次元折畳器からなにかを取り出した。
「……まあ、胞子っちゅうても人間には無害や。せやから冒険者らは、こういうとこでよう休むんや。……ほれ、これ使いぃ」
そう言って取り出したのは、見たこともないふっくらとした黒い寝袋だった。表面はキノコの傘部分を加工したような質感で、口を開けて中を覗いた瞬間、俺は思わず声を漏らした。
「……ふわっ!? これ、スポンジ……? いや、クッションみたいだ……!」
「内側は柔らこうてな、煤タケっちゅうキノコを加工して作った寝袋で、寝心地は、もう文句なしや」
得意げに言いながら、彼女は自分の寝袋を地面に広げ、まるで旅館にでも来たかのようにすっと寝転がる。ふかふかの感触にうっとりしている様子だ。
「コージ君、今日はめちゃくちゃ働いとったしなぁ。こういうとこでちゃんと休まな、ほんまにえらいことなるで。冥樹の胞子は疲労回復にも効くっていうし、明日への備えや」
……確かに、休まず突き進んでいたせいで、足も腕も重たくなってきていた。
俺は、ノアリスさんから受け取った寝袋をそっと広げ、ゆっくりと横になった。冥樹のかすかな光と、ふんわりとした感触が、じわじわと全身を包み込んでいく。
「……あぁ、これは……やばい……寝そう……」
「寝とき、寝とき。魔法結界も張っとくし、心配せんでええよ」
その声を最後に、俺の意識は、ゆるやかに闇に溶けていった――。
――ザザッ……ザ、ザアア……。
どこか遠くから、砂利を踏むような不穏な音が響いた。眠りの深淵に沈みかけていた俺の意識が、その音に引き戻された。
「……ノアリス、さん……?」
目を開けると、白い冥樹の根がぼんやりと光っている。その傍らにいるはずのノアリスさんやエルヴァンの姿が、ない。
「えっ……?」
思わず身を起こすと、急に肌寒さが背筋を撫でた。さっきまでぬくもりに包まれていた寝袋の中が、ひんやりとしている。
そのとき――。
ギィィ……ィィ……。
不気味な軋み音が、迷宮の奥から這い寄ってきた。風もないのに、冥樹の傘がわずかに揺れる。空気が、変わった。
――いや、空気そのものが『歪んで』いる。
「……まさか、胞子と結界をすり抜ける魔物がいるってのか?」
緊張で喉が乾く。俺は腰の剣に手をかけようとした――その瞬間、
バンッ!
頭上から何かが落ちてきた。反射的に横に転がって回避。土埃の向こうに見えたのは――
白いローブを纏った、"人間"のような影だった。
「……え?」
だが、すぐにわかった。こいつは人間じゃない。ローブの中からのぞくその顔は、人間の皮を模した仮面のようで、目だけがギラギラと、異様な光を放っていた。
「我らが主は、汝の魂を望んでおられる……生け贄を、さあ、捧げよ……」
俺はその言葉を聞いて、剣を引き抜いた。空気が震える。
「クソッ……! やるしかねえ!」
俺がそう叫んだ瞬間、背後から甲高い声が飛んできた。
「待たんかいっ!」
ノアリスさんの声だ。慌てて振り返ると、いつの間にいたのか、彼女が仁王立ちしている。
「あれ、いたんですか?」
間の抜けた俺の問いに、ノアリスさんは呆れたようにため息をついた。
「そいつは、敵やない。"異端祈祷師"っていってな、なんちゅうか、行商人みたいなもんや」
商人? どう見ても、怪しげなローブを纏った不気味な男にしか見えないが。
「でも、生贄とか、魂がどうこうって言ってましたよ?」
俺の疑問に、ノアリスさんは諭すように説明を始めた。
「それはな、ややこしいんやけど、そいつらの信仰でそんなこと言っとるだけや。こいつらは『物には持ち主の魂が宿る』と信じていてな、使い古したもの――武具を中心に集めとるだけや。だから、武具を渡すと喜ぶで。それで、お返しに結構いいアイテムをくれるんや」
なるほど、"生贄の魂"とは"魂の宿った物"のことだったのか。どうやら彼らの信仰とは、アミニズム的な、つまりは森羅万象に神が宿るとする考え方のようだ。
それで、物を渡すと返礼品をくれるから、物々交換の行商人ってとこか。しかし、なんとも理解し難い風習だ。
俺が腑に落ちない顔をしていると、ノアリスさんはすでに異端祈祷師と何やら交渉を始めている。流暢な言葉で立ち話をしている様子は、まるで旧知の仲のようだ。
「コージ君、こいつは当たりや。迷宮で手に入れた武具類は、今装備している鎖帷子以外、全部渡したって。骨剣もな」
彼女の言葉に、俺は思わず二度見した。今持っている武具は、剣が三本、鎧が二着、スティック二本。そして、今装備しているミスリルの鎖帷子と、これまで頼りにしてきた骨剣だ。
この迷宮内で手にした武具類が、ほとんど大したものではないのは承知している。だが、まさか骨剣まで手放せと言うのか? これからは魔法だけで戦えと?
戸惑いながらも、俺はノアリスさんの言葉に従った。ここの迷宮で手に入れて間もない縮界の腕輪から、剣を三本、鎧を二着、スティック二本を取り出し、さらに骨剣を添えて地面に置いた。
取引の結果がどうなるのか、一抹の不安を抱えながら、俺は成り行きを見守るしかなかった。
「ほれ、持ってけ」
ノアリスさんが満面の笑みで告げると、異端祈祷師は地面に置かれた武具を次元折畳器へと次々に回収していった。そして、深々と頭を下げ、理解不能な言葉を紡ぎ出した。
「ああ、魂の渇きよ! 我が内に満ちる言葉の泉は、汝らの苦痛を癒すだろう。しかし、その救済は、お前たちが信じたものとは異なる。真の安寧とは、この我に全てを捧げし後に訪れるのだ」
そう言って、彼は魔導書のようなものを二冊、ノアリスさんに手渡すと、まるで煙のように静かに立ち去ってしまった。俺は、ただ呆然とその後ろ姿を見送った。
すると、異端祈祷師と入れ違いにエルヴァンが戻ってきた。
「異端祈祷師とは珍しいですね。お、コージも起きたみたいだね。疲れはとれたかい?」
「ええ、たくさん休んだので疲れは取れましたよ。でも、異端祈祷師って一体何者なんですか? どう見ても人には見えなかったし、魔物だったとしても、有毒な冥樹の胞子の中をかいくぐってくるとは、尋常じゃない」
俺の質問に、エルヴァンは楽しそうに笑った。
「何者なんだろうね~。魔物の類なんだろうとは思うけど、異端祈祷師というのは謎が多い集団でね、実のところよくわからないんだ」
エルヴァンは言葉を続ける。
「わかっているのは、彼らが迷宮を聖地として崇めていること。そして、そこでアイテムを収集しているってことくらいかな。
でも、迷宮内で彼らと戦闘になったという話はあまり聞かないから、出会っても安心していいと思うよ」
迷宮が聖地か……。しかし、アイテムを集めているのなら、なぜ迷宮内の宝箱から取らないのだろう? ……ああ、そうだった。
彼らが集めているのは"持ち主の魂の宿った物"だったな。宝箱のアイテムは"誰のものでもない"から、魂がないということになる。なるほど、いずれにしろいろいろな意味で害はなさそうだ。
「コージ君、これ貰っといたで」
ノアリスさんの手が差し出したのは、燃えるような赤と、深い海の底を思わせる青の、二冊の書物だった。異端祈祷師から受け取ったというそれは、確かに魔導書にしか見えない。
「これって、魔導書ですか?」
俺の問いに、ノアリスさんは軽く笑った。
「そうやな。赤いほうが炎の魔導書で、青が奥義書や」
奥義書。その響きに、俺は首を傾げる。
「奥義書ってのは、剣士が扱う攻撃スキル、つまり"必殺技"が記されとる書物や。今までゴチャゴチャになるから説明しとらんかったけど、魔術師に魔導書があるように、剣士にも奥義書があるんや。まだあるんやが、今はええ」
剣士にもそんな物があるんだな。どうりで、魔導書と奥義書が似ているわけだ。
「ほんで、これが剣士版のグリモワール、"ソーズ・アークナム"や。もっと後で渡す予定やったんやが」
ノアリスさんはそう言って、次元折畳器から、グリモワールと瓜二つの、しかし瑠璃色に輝く書物を取り出した。その美しい装丁は、まるで秘められた力を宿しているかのようだ。
「使い方はグリモワールと一緒や。『スピリトゥス・ウニオ』でソーズ・アークナムを自分の体に取り込んだら、あとは奥義書を読み込むときに取り出せばええ。
強さも、シングルアーツ、ダブルアーツ、トリプルアーツと三段階あって、経験値に応じて使用可能になる。このへんもグリモワールと同じやな」
グリモワールと同じ、か……。つまり、それぞれが初級・中級・上級に相当し、その段階に応じた奥義書が用意されている、と。
ダブルキャストがレベル100以上で使用可能だったから、ダブルアーツも同じくレベル100。となると、トリプルアーツはレベル400以上か。
俺は早速、『スピリトゥス・ウニオ』と静かに唱え、瑠璃色のソーズ・アークナムを体に取り込んだ。本が溶けるように俺の意識の中へ流れ込み、確かに体の一部になったような感覚がした。
次に、グリモワールを取り出し、手に持った二冊の書物について改めて尋ねる。
「この魔導書って、炎属性ですよね?」
ノアリスさんは、俺の持っている書物をちらりと見て答えた。
「その魔導書は炎のトリプルキャストで、奥義書はトリプルアーツや。つまり両方とも上級。おまえさんの今のレベルじゃ、魔術も剣術も上級はまだ使えんけど、読み込むことはできるで。それに、上級の書物は中級の技も使えるようになる。大は小を兼ねるってやつやな」
上級の書物で中級の技も扱えるのはありがたい。だが、それよりも今は、この二冊の書物に秘められた力が、一体どれほどのものなのか、想像するだけで胸が高鳴っていた。
「あ、しばらくは初級以外使ったらあかんよ。まずはしっかり基礎を固めんとやからな」
俺の期待とは裏腹に、ノアリスさんはあっさりとそう告げた。不満げな顔を隠せない俺に、彼女は諭すように言葉を続ける。
「魔術にしろ、剣術にしろ、地味に見える基礎練習こそが、高みへと到達するための盤石な土台なんや。基礎がしっかりしているほど、そこから派生する様々な技や呪文への応用力が飛躍的に向上する。さらに、基礎が身についとれば、いかなる状況でも迅速かつ的確な対応が可能になるんや」
ノアリスさんの言葉は続く。
「それにな、基礎を疎かにして先に進むと、必ず壁にぶつかり遠回りになる。丁寧に基礎を学ぶことが、結果的に効率的な上達への近道なんやで」
一流と呼ばれる者たちが、例外なく基礎を徹底的に積み重ねているという話は、たしかに耳にしたことがあった。才能や経験も重要だが、やはり地道な鍛錬の先にこそ、真の力が宿るのかもしれない。
「わかりました」
俺は素直に頷き、まずは炎の魔導書を手に取った。俺のグリモワールは、問題なく読み込んでくれた。
続いて、ソーズ・アークナムに奥義書を読み込ませようとすると、その表紙にうっすらとペガサスの絵が描かれていることに気づいた。
「これって、ペガサスですか?」
気になって尋ねると、ノアリスさんはふっと笑った。
「奥義書にも、いくつか種類があってな。それは見た通り"ペガサス"と呼ばれとる、剣術の奥義書や」
なるほど、奥義書にも種類があるのか。ほどなく、ソーズ・アークナムも、問題なく奥義書を読み込んでくれたのだが、重大なことを思い出した。
それは骨剣のことだ。さきほど、異端祈祷師に剣をすべて渡してしまっている……。奥義書があっても剣が無くては何もできない。
「これが欲しいんやろ? まだ10本以上あるから、無くしたり、壊したりしたら言ってな」
ノアリスさんがそう言って、二振りの骨剣を差し出した。なるほど、まだたくさんあるらしい。あの巨大なドラゴンの骨から剣が一本しか作られていないなんて、とんでもない誤解だった。よく考えたら、あれほどの素材から一本きりというのはありえない話だ。
「ありがとうございます」
俺が礼を言うと、今度はエルヴァンが、まるで子供のように目を輝かせて言った。
「出発前に、コージに渡したいものがいくつかあるんだ。ティアツーの迷宮は広い。昨日のペースで進めば、それこそ日が暮れても探索しきれないだろう。時間の制約もあるから、君が眠っている間に、私が下調べをしておいたよ」
エルヴァンは言葉を続ける。
「今いるのは地下第四階層だが、この迷宮は地下第九階層まであったよ。ついでと言ってはなんだが、地下九階と八階の宝はすべて回収してきた。これがその宝さ」
そう言って、エルヴァンは縮界の腕輪から次々とアイテムを取り出した。二本の剣、一つの鎧、そして一本のステッキ。最後に現れたのは、神聖な雰囲気を纏った一体の人形だった。その姿に、俺は見覚えがあった。
「これって、魔魂パペットですか!?」
俺が思わず声を弾ませると、エルヴァンはにこやかに頷いた。
「ああ、そうさ。見つかってよかったよ。君にぴったりの良い鎧が見つかるといいね」
エルヴァンの言葉に、俺は胸が熱くなった。
「はい! きっと見つけてみせます!」
鎧はいくつも見つけた。だが、どれも俺には装備できない代物か、あるいは見向きもされないような代物ばかりだった。それでも、迷宮の奥深くでまだ見ぬ、運命の鎧との出会いを想像すると、自然と笑みがこぼれてしまうのだった。
「ほな、行こか」
ノアリスさんの掛け声が迷宮に響き、俺たちは再び探索へと足を踏み出した。