表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/16

迷宮

「だから……撤退したほうがいいって、言ったのに……!」


 崩れるように両膝をつき、俺は目の前の動かないノアリスさんに声を震わせた。喉の奥が焼けつくように痛い。なんとかなる、なんて甘い考えを抱いていた自分を殴りつけてやりたかった。即死魔法が2度襲いかかるなんて、予測できたはずなのに。


 なぜ、もっと強く引き止めなかったんだ……! 後悔が、黒い染みのように心を蝕んでいった。


 その時、エルヴァンが音もなく隣に立ち、黙ってノアリスさんを見下ろしていた。


「俺……これから、どうしたら……」


 か細い声で絞り出すと、エルヴァンはゆっくりと俺に視線を向けた。


「大丈夫だよ、コージ」


 その声は平坦で、何の感情も乗っていないように聞こえた。大丈夫なわけがない。ノアリスさんは、もう……。俺が反論しようと口を開きかけた、その時だった。


「……ノアリス様も、お人が悪い」


 エルヴァンが、まるで独り言のように呟いた。


「コージが本気で心を痛めているというのに。……そろそろ、よろしいのでは?」


 その言葉の意味を理解するより早く、地面に横たわっていたはずのノアリスさんが、不意に『んー……』と小さく呻き、片肘をついて上半身を起こした。


 まるで長い昼寝から覚めたかのように、ひとつ大きな欠伸までしている。


「……くくっ。エルヴァン、あんた、バラすのがちぃと早すぎやない?」


 ノアリスさんは、少し掠れた、しかし紛れもないいつもの声で、悪戯っぽく笑いながらこちらを見遣った。


「うわっ!?」


 俺は飛び上がらんばかりに驚き、尻餅をついた。心臓が、肋骨を突き破って飛び出しそうだった。


「の、ノアリスさん!? い、生きて……るんですか!?」


「おん? コージ君、そんな幽霊でも見たみたいな顔して。ウチはほれ、この通りピンピンしとるよ」


 ノアリスさんは悪戯が成功した子供のように目を細め、楽しそうに続ける。


「いやぁ、コージ君がウチのために本気で泣きそうになってくれてるの、役得やったわぁ」


「コージ」


 エルヴァンが、いつもの落ち着き払った声で俺に語りかける。


「さっき光が緑色だったことに気づいただろ? あれは"生命の"というアーティファクトが発動したときの光なんだ。


 そのアーティファクトは、"三世の玉響"と同様に即死魔法から身を守ってくれるものなんだ。ただし、一度だけだけどね。私も装備しているよ」


「そ、そうだったんですか……!?」


 怒涛の展開に頭が追いつかない。安堵と、騙されたことへの軽い怒りと、そして何よりも彼女が無事だったことへの歓喜がごちゃ混ぜになって、声が上ずる。


「エルヴァンもノアリスさんも、そういう大事なことは先に教えてくださいよ! 本気で……本気で、心臓が止まるかと思いましたよ!!」


 俺の悲鳴に近い抗議に、ノアリスさんは『すまんすまん』と笑い、エルヴァンは、どこか楽しんでいるような、それでいて少し呆れたような複雑な表情で肩を竦めた。


「さあ、感傷に浸っている暇はない。この騒ぎで、さらに魔物が寄ってこないとも限らないからな。早く迷宮ダンジョンに移動しよう」


 エルヴァンの言葉に、俺はまだ震える脚で何とか立ち上がった。心臓はまだバクバクと鳴っているが、先ほどまでの絶望は、嘘のように消え去っていた。


 そしてエルヴァンは、いつの間にか回収していたのだろう、猛毒斑豹ネクロティック・ヴェノム・パンサーの戦利品をそっと差し出してきた。ずしりと重みを感じる爪と牙、そして禍々しいほどの濃緑の輝きを秘めたマナ輝石。


「あの斑豹の毛皮は珍しくて高値がつくんだが、今回は焼け焦げてしまったね。


 それから、そのあたりに冥府魔漿ダーク・プラズモイドのマナ輝石が落ちてると思うので、それも回収しといてくれよ、おそらく相当価値があるぞ」


 言われるがまま、俺は足元に注意を払いながら冥府魔漿のマナ輝石を探した。やがて、黒々とした土くれの中に、異質な輝きを放つものを見つける。


「これがそうですかね」


 拾い上げたのは、まるで深淵を覗き込むかのような、吸い込まれそうなほど漆黒の石だった。手のひらに乗せると、ひんやりとした感触と共に、内側から微かに脈打つような不思議な温もりを感じる。


 それを見たノアリスさんが、目を細めて言った。


「それや、それ。冥府魔漿のマナ輝石……、久しぶりに見たわぁ。市場に出回らんから、とんでもなく貴重な代物やで。それ一つあれば、今回の旅費なんぞ軽くお釣りがくるんちゃうか?」


「えっ、そ、そんなに凄いものなんですか!? だ、だったら俺なんかがもらえませんよ!」


 あまりの価値に恐縮し、慌てて差し出そうとする俺の手を、ノアリスさんは優しい笑みで押しとどめた。


「あんたが初めて、自分の力で仕留めた魔物のマナ輝石や。記念にもらっときぃ」


 彼女はそう言うと、悪戯っぽく片目を瞑る。


「それに、なぁに、心配せんでええ。確かに貴重なものには間違いないんやが、何分あまりにも出回っとらん稀少品やからな。かえって、値がつくとも限らんのよ。目利きがおらんと、その真価も分からんやろし」


 初めて自分の力で倒した魔物――その言葉が、胸の奥にじんわりと響いた。そうだ、あの得体の知れない恐怖と対峙し、必死で掴んだ勝利の証なのだ。


 そしてノアリスさんの言葉は、俺が気兼ねなく受け取れるようにという、彼女なりの配慮なのだろう。

『珍しすぎて、必ずしも誰もが欲しがるわけではないし、買い手がつくとも限らない。だから気軽に持っていればいい』と。その温かい心遣いが、素直に嬉しかった。


「……そういうことでしたら、ありがたくいただきます!」


 俺が力強く頷くと、ノアリスさんは満足そうに、ふわりと微笑んだ。


「そういえば、冥府魔漿って異世界から来た"異邦種"って話でしたけど……どんなところから来てるんですかね?」


 俺の問いに、ノアリスさんは少し考えるような顔をしてから、ぽつりと答えた。


「"地獄"から来とる……って言われとるな」


 それだけで終わらず、彼女は続けた。


「冥府魔漿については、正直ようわかっとらんのよ。ウチも、これまでに見たのは数えるほどしかないわ。何十年か前に調査隊が来て、いろいろ調べたけど……結局のところ、謎のままやった」


 彼女は小さくため息をついて、ふっと笑う。


「ホンマのこと言うと、倒せるとは思っとらんかったんや。普通はもっと時間がかかるし、特殊な装備も必要になる。今回はな、正直リスクもあった。でも、コージ君の"ビギナーズラック"――初心者の幸運っちゅうやつに、ちょっとだけ賭けてみたんや」


「ビギナーズラック、ですか……でも、アーティファクトをずいぶん消費しましたよ? 本当によかったんですか?」


 俺が申し訳なさそうに尋ねると、ノアリスさんはにこりと笑って、首を振った。


「かまへんよ。"三世の玉響"も"生命の器"も、持ち主のマナを糧にして力を取り戻す便利な代物や。使い捨てやないから、心配せんでええ」


 そして、彼女の表情が少し引き締まった。


「それにな、今回の戦いで"透過魔法"を使ってるのがわかった。それだけでも大きな収穫や。……原理はさっぱりやけどな。謎が多い魔物やで、冥府魔漿は。ヤツの動きを見とったら、ひょっとすると、即死魔法は"地獄に送る召喚術"なんやないか? って思えてきたくらいや」


 そう言って、ノアリスさんはおかしそうに笑った。


「コージ、リスクはあったが戦ってよかったね。君のレベルは87に上がってるよ」


 エルヴァンが微笑みながら言った。


「え、87ですか!?」


 言われてみれば――、身体にみなぎる力の質の変化で、それが嘘ではないと分かった。感覚が鋭敏になり、今まで感じ取れなかった微かなマナの流れさえも肌で捉えられる。レベルが10倍以上……にわかには信じられないほどの成長だ。


「ああ。森の魔物にはまだまだ通用しないレベルだが、これから挑む迷宮の魔物が相手なら、そこそこ渡り合えるだろう。もちろん、油断は禁物だがね」


 このレベルでも十分ではない、か。やはり頑丈な防具が欲しいところだ。それからエルヴァンに促され、俺たちは目的地である迷宮へと歩き出した。森を抜けた先に、ごつごつとした岩肌が剥き出しになった荒涼とした土地が現れた。


 崖の中腹にぽっかりと口を開けた黒い影が見える。あれが迷宮の入り口だろう。しかし、あんな場所にどうやってたどり着くというのか。


 疑問を抱えたまま近づいていくと、崖の麓から中腹の門へと続く、まるで獣が踏み固めたような細い道が続いているのが見えた。人がやっとすれ違える程度の幅しかない、心もとない小道だ。


 息を切らしながら小道を登りきると、目の前に巨大な石造りの門がそびえ立っていた。風雨に晒され、所々が苔むした古びた門は、まるで太古の巨人が積み上げたかのような威圧感を放っている。その表面には、解読不能な文様がびっしりと刻まれていた。


「この門、どうやって開けるんですか? どこにも取っ手や押し込むような場所が見当たりませんけど……」


 俺が尋ねると、エルヴァンは門を見上げながら静かに答えた。


「一部の特殊な迷宮を除き、迷宮とは挑戦者を拒むものではない。むしろ、その深奥へ誘うものだ。だから、迷宮に入りたいという強い意志を示せば、自ずと道は開かれる。


 心の底から中に入りたいと願い、何か言葉をかけてみるといい。迷宮が君の意志を認めれば、すぐに扉は応えてくれるはずだ」


「なんでもいいんですか? じゃあ、ええと……」


 エルヴァンの言葉はどこか詩的で、半信半疑だったが、彼の真剣な眼差しに嘘はないと感じた。少し気恥ずかしさを覚えつつも、俺は深呼吸をして、門に向かって力強く言い放った。


「開け――ゴマ!」


 その瞬間、まるで俺の言葉が引き金になったかのように、ズズズ……と地響きにも似た重低音が響き渡った。


 巨大な石の扉が、沈黙を破るかのように、ゆっくりと、内側へと開き始めた。隙間から漏れ出すのは、ひんやりとした空気と、未知なるものへの期待感を煽るような、微かな魔力の匂い。


 『来るものを拒まない』とは、どうやら本当らしい。目の前に広がり始めた暗い通路の奥を、俺は固唾を飲んで見つめていた。


 石の扉が完全に開くと、まるで太古の墓所のような、ひんやりとして湿った空気が鼻腔をくすぐる。奥からは、微かに水の滴る音と、何かが蠢くような、あるいは風が吹き抜けるような、判然としない音が聞こえてくる。


「よし、行こうか。コージ、油断するなよ。迷宮の中は何が起こるか分からない」


 エルヴァンが静かにそう言うと、傍らにいたノアリスさんがにっと笑って続けた。


「コージ君、さっきの森での剣さばき、なかなか良かったで! あれなら迷宮内でも十分通用するわ。またウチが斥候をやるさかい、しっかり後を付いてきいや。厄介な魔物はウチが片付けるけど、手頃なやつはコージ君の練習台や。しっかり腕ぇ磨きや」


 ノアリスさんはそう言って、腰をポンと小気味よく叩いた。その自信に満ちた笑顔に、俺も力強く頷き返し、深呼吸一つ、意識を迷宮の闇へと集中させた。


 ノアリスさんを先頭に、俺が続き、最後尾をエルヴァンが固める。その連携で、俺たちはじわりと湿度を増す薄暗い通路へと足を踏み入れた。


 松明などの灯りはどこにも見当たらない。代わりに、壁に埋め込まれた鉱石が、宿した魔力に呼応するかのようにぼんやりと青白い光を放ち、辛うじて行く先を照らし出していた。その光は頼りなく揺らめき、俺たちの影を壁に歪に映し出す。


 足元はごつごつとした岩肌が不規則に続き、場所によっては粘つくようなぬかるみが靴底に絡みつく。一歩進むごとに、ひんやりとした湿気と、洞窟特有の黴びた匂いが鼻腔をくすぐった。時折、どこからか滴り落ちる水滴の音が、不気味な静寂の中で妙に大きく響いていた。


 しばらく進むと、通路は少し開けた空間に出た。そこは、まるで巨大な獣の肋骨のように湾曲した岩が天井を支えている、ドーム状の広間だった。そして、その中央に――いた。


「グルルル……」


 低い唸り声と共に、ぬらりとした体表を持つ、狼に似た四足の魔物がこちらを睨んでいた。体長は2メートルほど。腐肉のような紫がかった体毛に、爛々と赤く光る双眸。口からは絶えず粘液を滴らせ、鋭い牙が剥き出しになっており、不気味なオーラを放っていた。


「コボルトマモンか。コージ、小手調べにはちょうどいい相手だ。行けるか?」


 エルヴァンが冷静に分析する。以前の俺なら間違いなく苦戦を強いられただろう。だが、今の俺はレベル87だ。


「はい、やります!」


 俺は骨剣を抜き放ち、コボルトマモンに向かって駆け出した。身体が軽い。まるで羽が生えたかのように、地面を蹴る力がダイレクトに推進力に変わる。


 コボルトマモンが牙を剥き、こちらに飛びかかってくる。その鋭い爪が俺の顔面を狙うが、俺は最小限の動きでそれをひらりとかわし、懐に潜り込んだ。


 「いける!」


 迷いなく剣を振るう。狙いはコボルトマモンの脇腹。以前なら弾かれていたかもしれない硬質な毛皮を、俺の剣はまるでバターを切るように容易く切り裂いた。


「ギャウンッ!」


 甲高い悲鳴を上げ、コボルトマモンが怯む。その隙を逃さず、俺はさらに追撃を加える。一撃、二撃。レベルアップによって向上したのは、単なる力や速さだけではなかった。攻撃の精度、そして何よりも、自分の動きに対する絶対的な自信だ。


 数合打ち合っただけで、コボルトマモンは断末魔の叫びと共にどうと倒れた。


「……やった」


 まだ心臓が少し早鐘を打っているが、森での戦いのような消耗感はない。むしろ、力が漲ってくるような感覚さえある。


「おおー! すごいやん、コージ君! さっきより全然動きがキレッキレやわ!」


 ノアリスさんがパチパチと手を叩きながら駆け寄ってきた。その顔には素直な賞賛が浮かんでいた。


「ふむ、見違えたな。レベルアップの効果がこれほどとは。だが、油断は禁物だ。今の相手は、この迷宮ではまだ序の口に過ぎん」


 エルヴァンは満足げに頷きつつも、釘を刺すことを忘れない。彼の言葉通り、この迷宮はまだ始まったばかりなのだ。


 俺は改めて剣を握り直し、広間の奥へと続く新たな通路を見据えた。胸には、先程までの不安とは異なる、確かな手応えと、未知への挑戦意欲が湧き上がっていた。


「はい。行きましょう、エルヴァン、ノアリスさん!」


 俺たちは再び歩き出す。この迷宮の深奥には、一体何が待ち受けているのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ