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プロローグ

 漆黒の虚空に、禍々しい魔法陣が浮かび上がる。魔法陣を取り囲むのは、歪んだ古代文字と、赤く脈打つ血のような光。空間がひび割れ、断末魔のような風が吹きすさぶ中、その中心に立つのは、黒衣の女——彼女は、微笑んでいた。


 その真紅の瞳は、底知れぬ深淵のように暗く、それでいてどこか、温かさを含んでいる。


「……ようやく、この手で触れられる。愛しき我が子よ」


 その声は囁きにも似た低音で、空気を震わせ、世界の理すら歪ませる力を帯びていた。女の背からは黒い翼が広がり、足元の地は見る間に腐敗していく。だが、その手だけは、どこまでも優しげに宙へと伸びていた。


「さあ、こちらへおいで。お前はもう、その腐りきった人間界になど縛られる必要はない……」


 術式が完成した瞬間、地上の空が裂ける。光の逆流の中、ひとりの少年が、抗う間もなく引きずり込まれてゆく。


 その身が霧へと溶けて消える直前——


 女は、静かに呟いた。


「おかえりなさい、私の最愛の息子……。この地獄が、あなたの真の居場所なのよ」


 目を覚ますと、俺は見知らぬ森の中にいた。


 ——いや、これは森なんて生易しいものじゃない。俺の周りには巨大な木々がそびえ立ち、どれもビルのような高さを誇っている。枝葉が折り重なり、天井のように空を覆い隠していた。微かに差し込む陽光が幻想的な輝きを放ち、空気はひんやりとしている。


「……どこだよ、ここ」


 思わず呟くが、当然返事はない。確かに俺は、さっきまで家の玄関にいたはずだが……。俺は学校が終わると、部活にも寄らず、誰かと遊ぶこともなく、いつものようにまっすぐ家路を辿った。何も変わらない帰り道。何も考えずに玄関の前に立ち、慣れた手つきでドアノブをひねった。そういえば、扉が開く音が、いつもより少しだけ重たく響いた気はしたが……。


 しかし、玄関に入った瞬間、視界が歪んで、意識を失い、気がつけばこの大森林のど真ん中——って……。これどう考えても異世界転移だよな!?


 慌てて自分の体を確認する。制服姿のままだ。すぐにバックを床に放り投げたせいで、スマホも、財布も何も持っていない。マジかよ……。


 とりあえず落ち着こう。俺は深呼吸をして周囲を見渡す。すると微かだが、遠くから小川のせせらぎのような音が聞こえた。水があるなら、そっちへ向かえば何かしらの手がかりが掴めるかもしれない。


 音のする方へしばらく歩いていると、地面がゆるやかに窪んだ場所に足を踏み入れていた。それはクレーターのようにも見えたが、柔らかな苔に覆われたこの凹みは、まるでここだけ時間が止まったように静かだった。


 ふと違和感を覚えて顔を上げると、木漏れ日の間に黒い岩がぽっかりと宙に浮かんでいた。陽の光をまとった空気の中で、岩はゆっくりと揺れながら森の魔法に守られているようだった。


「……何だこれ!?」


 と、その時——。背後から透き通るような美しい歌声が聞こえた。


「……人間?」


 振り向くと、そこには、長くしなやかな銀髪と、鋭いエメラルドの瞳を持つ少女が立っていた。耳は細く、先が鋭く尖っている。間違いない、エルフだ。


 目が合った瞬間、少女は「ひっ」と小さな悲鳴を漏らし、まるで見てはいけないものを見たかのように、パタパタと森の奥へ駆けていった。


 俺は慌てて後を追った。頭の中では「追いかけるな」と何かが叫んでいたが、足が勝手に動いていた。枝が頬をかすめるたびに、小さな痛みが走る。すると森の奥へと続く細い獣道が現れた。しかし、もう少女をの姿は見当たらず、代わりに胸の奥にじわじわと不安が広がってきた。


 さっきの少女は何者だったのか。本当にエルフなんて存在するのか。答えのない疑問ばかりが頭を埋め尽くしていく。細い獣道は曲がりくねり、闇の奥へと誘い込むように続いている。足元の枯葉が微かに音を立てるたびに、静かな森はわずかにざわめいた。


 静けさに混じる湿った土の匂いが鼻の奥に絡み、ひんやりとした空気が肌にまとわりつくが、俺は不安を感じながらも足を進めた。行けども少女の姿は見えない。けれど、どこかで小さな足音が聞こえたような気がして、鼓動が早まる。


 呼びかけようともしたが、喉の奥で言葉が詰まる。声を出せば、何か別のものが振り返る気がした。

それでも俺は、呼吸を押し殺しながら獣道を踏みしめた、その時――


 何かの気配が背筋を撫でた。


 ゆっくりと振り返ると、そこにいたのは子どもではなかった。腰には木製の弓、背中には矢筒。森の影から現れたのは、ひときわ背の高いエルフの大人だった。


 いつの間にこんな近くに――。


 子どもと同じ、透き通るような銀の髪。けれど、その瞳はもっと深く、琥珀のように静かな光をたたえていた。足元の枯葉がふいに鳴り、自分が一歩後ずさったことに気づく。


 逃げなきゃ。そう思うのに、足はすくんで動かなかった。ただ、そのまなざしに吸い込まれそうになっていた。じっと見つめる瞳がわずかに細められ、次の瞬間、低く響く声が耳を打つ。


「…Æn noriel vaelth…」


 森のざわめきに溶け込むような、ひんやりとした音の連なり。それが言葉だと理解するまでに、数秒かかった。けれど、その意味はひとつもわからない。


 喉の奥がひくりと震える。何か返さなければ――


「ぼ…、ぼくは代山高校2年の一雙幸治といいます…、日本から来ました…。」


 顔はひきつり、笑顔を作る余裕なんてなかったが、それでも必死に言葉を紡ぎ出した。しかし、エルフは微動だにせず、じっとこちらを見つめている。


 どうしよう――何を言えばいい?


 するとエルフは、なぜか目を閉じ、静かに呼吸を整え始めた。長い銀髪がそよ風に揺れ、薄い唇がかすかに開かれる。何やら小声で言葉を発しているが、その意味は相変わらずわからない。けれど、その響きには奇妙な力があった。


 まるで聞いているだけで心の奥に何かが流れ込んでくるようで、頭の中がじわじわと痺れていく。

それは風の囁きにも似て、森の吐息に紛れては消えていき、それが敵意なのか、それとも別のものなのかさえ、わからなかった。


 何かを語り終えると、エルフはゆっくりと目を開けた。その瞳には、森羅万象の叡智が宿っているようにも感じた。


「私の言葉は、わかるかい?」


「ふぇっ!?」と思わず間の抜けた声を出てしまった。ええっ?? 言葉がわかるぞっ!? どういうことだ…?


「わっ、わかりますっ! 俺の言葉もわかりますかっ!?」


「ああ、わかるよ。良かった、どうやら成功したらしい」と、エルフは微笑んだ。


「今のはね、エルフだけが使える"魔法"なんだ」


 さっきのは魔法だったのか、どうりで今まで感じたことのない感覚だったわけだ。


『——スキル《微精霊の知恵》を獲得しました。』


「あれ!? 今、スキルがどうこうって声が聞こえたんですが、これも魔法と関係してるんですか?」


「そうだね、この魔法は本来、草木や動物たちと意思疎通するためのモノで、短時間しか効力はないのだが、君のような異邦人に使用すると、"スキル"として定着するみたいなんだ。」


「だから会話はもちろん、簡単な読み書きならできるはずだよ。そこで聞きたいのだが…」


 と急に笑顔が消え、目元の筋肉がわずかに引きつっている。そのまま静かに、しかし確かに圧を孕んだ声で言った。


「今、頭の中に響いてきた声は……男だった? それとも、女だったかい?」


 その目は笑っていない。返答の選択を間違えれば戻れない気がした。


 俺が聞いたのは、冷たく澄んだ音色…、まるで機械が紡ぐ言葉のように抑揚がないのに、不思議と耳に心地よい。なぜか優しさだけを残して、胸の奥にそっと染み込んできた。それは、どこか懐かしくもあり、決して拒むことのない女性の声だった。


「女の声でした。」


 その返答に、エルフは一瞬、瞬きをした。そして、気づかないほど僅かに、肩が下がり、こわばっていた表情が、ゆるやかに元の静けさへと戻っていった。


「よかった、それを聞いて安心したよ。とりあえず君は()()()()のようだね」


「なんですかそれ…!?」


「君はこの世界の住人ではないよね?」


「そうなんですっ!気がついたら森の中にいて…」


 必死で言葉を返しながらも、俺は自分の状況をまだうまく理解できていないことに気づいた。重力の感覚も、風の匂いも、どこか現実味が薄い。まるでゲームの世界にでも迷い込んだような感覚だ。


「なら、やっぱり。君、"召喚"されたんだよ」


「…召喚?」


 俺はその言葉を繰り返す。エルフはこくりとうなずき、辺りを見回した。木々の隙間からは光が降り注いでいるが、遠くから獣のような鳴き声が聞こえた気がした。


「ここは"フワの大森林"。ヒューマンはおろか魔族すら寄りつかない場所だよ。…君がなぜここに召喚されたのかは、私にもわからない。はっきりしているのは、異邦人は魔族によって呼び出されるってこと。だから、君も魔族の仲間かもしれないと疑っていたんだ」


「俺を召喚したのは魔族なんですかっ!?」


「でも――君が"ギフト"を授かったときに聞こえた声が女性のものだったんだろ? それなら、その声の主は女神マテラスに仕える天使様だ。つまり、君は女神様の加護を受けている存在ということになる。もし魔族の関係者なら、そんなことは絶対にありえない。だから、君は魔族側じゃない。私はそう確信してるよ」


 なるほど、さっきのスキル《微精霊の知恵》ってのは女神様からのギフトでもあったわけだ。ってことは、もし男の声だったら魔王様からのギフトで"魔族"だってことか…?

 しかし、なんで俺なんかが召喚されたんだ!? 至って普通の高校生だったと思うのだが…。


「…ここでずっと話してるのも、落ち着かないだろ? すぐそこに私の家があるんだ。よかったら、そこでゆっくり話そう。君も聞きたいことがたくさんあるだろうし、私もたくさんある。それに、これからのことについても、家で一緒に考えよう」


 そう言って、彼はふっと目を細め、柔らかく微笑んだ。俺は彼の言葉に、少しだけ気持ちが落ち着いた。知らない世界に放り込まれて、不安しかなかったが、「一緒に考えよう」と言ってくれる人がいる。

それだけで、ずいぶん救われるものなんだと強く思った。


「そうだ、まだ私の名を言っていなかったね。私はエルフのエルヴァン、モンク(僧侶)だ。君の名はなんていうんだい?」


「ああ、俺の名前は一雙幸治いっそうこうじっていいます」


「そうか、じゃあコージ、私の後をついてきてくれ!」


 そう言うと、指でそっと風をすくい上げるように合図を送り、彼は柔らかな苔の道を踏みしめて歩き始めた。空には木漏れ日が舞い、静けさに温かさが満ちていく。俺はエルヴァンの背を追いながら、森の奥へと足を踏み入れた。


 彼の足取りは軽く、迷いがない。どれくらい歩いただろうか。突然、エルヴァンが立ち止まり、満足げに笑った。


「着いたよ、あれが我が家だ」彼はそう言って、何かを示した。


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