涼と新しい家
エレベーターへと歩いていると恵さんが思い出したように言った。
「ああ、そっかそっか。同じマンション内で引っ越ししたんだってねえ。管理人さん言ってたよ。」
なんだ、知ってたのか。
「はい、父がマンション買って、そこで暮らすようにって。」
管理人さんは相変わらず口の軽い人だ。
世間話の好きなおばちゃんだから仕方ないが。
ひいながドアに挟まれないよう目を配ってエレベーターに乗り込んだ。
エレベーター内はドアが閉まると、その小さな窓以外、光がやや遮られる。
「電気取り替えてもらわなくちゃねえ。」
薄暗い中に人工灯が明滅しているのを見て、恵さんが呟いた。
「ほんとだ。気になりますね。」恵さんはふと言った。
「お父さん、きっとずっと前から、涼くんたちが一緒に住むこと考えてたのね。」
彼女の意外な言葉に思わず聞き返す。
「どうしてですか?」
要がずり落ちそうになったのをぐいと抱えなおし、話は続けられた。
「前ね、私たちの部屋の隣、空いてるはずなのに、時々大きな荷物が運ばれてくるから、誰か入るのかなって気になって、管理人さんに聞いたことがあったの。」
一瞬窓から日が射すのが、恵さんの頬に当たる。
要は蛍光灯の明滅音が気になるようで、ずっと天井を見つめている。
「その時は、少し前から買い手がついてて、まだ越してきてないって言ってたわ。」ひいなは周りの景色が下がって行くのを、小さな窓から背を伸ばして見ている。
「それってどのくらい前のことですか。」
「越してきたばかりのことだから…、一年くらい前かな。」
それは、どういうことだろう。
嵐のように突然に、ひいなを残していった父。
そのはずじゃなかったのか。
父さんは何かを隠してる?
暗いところへ落ちていこうとした思考は、いやに明るい点滅音で引き上げられた。
ドアが開き、光が差し込むのが少しまぶしい。
ひいなが走り出るから引っ張られて、思わずつまづきそうになった。
「ひいな、あんま引っ張んな。転ぶ。」ひいなは歩みを止めて振り返る。
横から恵さんが追い抜いていった。
「涼くんがぼんやりしてるからでしょ。さあさ、早いとこ片づけちゃいな。」
「かたづけちゃいな。」
「うー。」
ひいなは恵さんの口調を真似て楽しそうに笑う。
要が笑い声につられて声を上げた。
「笑うなよ。」
冗談のつもりで軽く言う。
「うん。ひいなわらわない。」
すると少女は、本当に笑うのをぴたりと止めてしまった。
かすかな、違和感。
それを反芻するひまもなく、新しい部屋の前にたどり着いた。
鍵をあけ、中を見ると、まず声を上げたのは恵さんだった。
「ひゃー。高校生にこれはゼータクだわ。」広い。
玄関から広い。
廊下も幅がある。
廊下の左右に二つずつ、奥に一つ扉が見えた。
感嘆の声を隠せない俺たちに比べ、ひいなは無感動だ。
「ウチも似たような感じだけど、右手の部屋は少ないねえ。」
恵さんが要に話しかけると、彼は何やら言葉を返す。
「リビングどこだろ。」
部屋が多くて分からない。
「構造同じなら、左手のドアだよ。」
彼女の言うとおり開けてみるとそこはリビングだった。
家具は完備。
というか、
「増えてる…。」
「ゼータクう。」
一人暮らしだったので、家具と言えば、せいぜいベッドと冷蔵庫、電子レンジと炊飯器くらいしかなかった。いわゆる一人暮らし専用の、家具家電付きの賃貸部屋である。
だが今、この部屋は、ファミリー仕様なのか何なのか、ソファからラグからテレビまで、幅広く取り揃えられている。
「…これ、備え付けってやつですか。」
「違うわよ。ウチはちゃんと買ったわ。」
父のふところはどれだけ広いのか。
キッチンでは全て新しいものになっていて、冷蔵庫もふた周りくらい大きなものだ。
「さっさと直しちゃいなさい。」
要は床に座らせ、三人で買い物袋から中身を取り出す。
「えー、冷食ばっかりじゃない。」
恵さんが非難の声をあげる。
そう、ご馳走を作るとは言っても、俺が作れるのなんてほんのちょっとだ。机いっぱいのディナーをつくろうとしたら、おのずと冷凍ものか既製品に頼ることになる。
「仕方ないでしょう。」
「なーにが仕方ないよ。不健康なんだから。」
言葉を交わしながら、三人で黙々と冷蔵庫に詰めていく。
「りょう、これどこいれるの?」
ひいなが中をあさくりながら声を上げる。
「んー?はいんねーな…。」
「あーもう、違うわよ、縦にすんのよ。」
詰めきれなかった冷食が恵さんの手で次々大人しく冷凍庫へと収まっていく。
「さすが主婦。」
「まーね。」
「けい、すごい。」
「まーねまーね。」
褒められて恵さんは上機嫌にピースした。
「さって、っと。」恵さんは立ち上がり、要を振り返る。
窓辺の日の射す場所で眠ってしまっているようだ。
彼女は彼をソファに移動させにかかった。
俺はビニール袋を小さく畳む。
ひいなももう一つの袋を手に取り、俺のまねをして畳み出す。
意外と器用だ。
「うわっ、何これ。」
恵さんは冷蔵庫を開けて驚いた。
「恵さん人んちの冷蔵庫勝手に開けないでくださいよ。」
「ちょっと涼くん、冷蔵庫中身あるじゃない。びっくりしたわ。」
「は?」
どういうことだろう。
彼女の肩の横から覗くと、冷蔵庫内が食品でいっぱいであった。
まさかと思い、野菜室を開けると、たくさんの野菜たち。「なーんで冷食なんて買ってきたのー?」
いっぱいあるじゃーん、と恵さんはうなった。
わけ分からん。
これも父さんか。
「父さんが用意してくれたんだと。」
「まめな人ねえ。」
恵さんが勝手に中身をいじっているが、放っておく。
「りょう、ほかのへや、みたい。」
ひいなが俺の袖を引く。
「そうだな。」
リビングがこの様子なら、他の部屋もすでに出来上がっているだろう。
俺の荷物も気になる。
こんなに広いなら、ひいなの部屋もあるに違いない。