涼と恵
とりあえず今日の分。
そう思ってコンビニのATMからお金を下ろそうとして固まった。
そんなことあるわけがない。
もう一度最初からやってみても画面の0の数は変わらない。
額が増えている。
母さんが父さんから受け取らされた慰謝料や、親戚からのお金や奨学金なんかで、俺が高校を卒業できる位は元々あった。
だけどなんだこれは。
ふと思い当たる節があった。
携帯を取り出し、通話を試みる。
「お掛けになった電話番号は、現在電波の届かない…。」
ああ、仕事中なんだった。
父の言っていたバイト代とやらがこれか?
ただの子守でこの額が動くのはあやしいってことくらい、俺にも分かる。何か厄介なことを引き受けたんじゃないか?
「りょう。」
ひいなが俺の袖を引いた。
「ああ、ごめんな、待たせて。」
あやしげな金には手をつけたくなかったが、とにかく金を下ろす。
「終わったよ、ひいな。」
「うん。」
それから近所のスーパーで食料品なんかを買い込むことにした。
それにしてもあれだ。
さっきから周りの人が俺たちをジロジロ見てくる。
正確には俺たちではない。
ひいなを、だ。
蜜の結晶のような色の薄い髪。エメラルドの瞳。
人形が歩いているみたいで、確かに目立たない方がおかしい。
しかし、意識しているのは俺だけで、本人は人の視線など気にもしていないようだ。そして傍若無人な彼女は、また気ままに振る舞い始める。
スーパーが珍しいのか、しきりに歩き回り、立ち止まっては棚の野菜を眺めている。
「りょう、ものがいっぱい。」
きゃらきゃらと笑うひいなには、どこもおかしな所はない。
考えすぎなんだろうか。
さっきの残高の数字が離れない。
かかる疑問を振り解こうと思案を巡らす。
ほら、子供って思ったより金がかかるじゃないか。
それに、きっと俺が思うより長く預かることになるからかもしれない。
遊園地に水族館、海水浴にキャンプ、映画にショッピング。
俺の考えていた楽しいこと、新しいことは逐一金がかかる。
父もそれを見越してのことかもしれない。「ねえ、りょう?」
「あ、ああ、何?」
ぼんやりしていた。
目の前でひいなはりんごを握りしめている。
「これ。」
「いいにおいだな。りんご、欲しいの?」
力いっぱい頷いた。
「いいよ、かごに入れて。」
わあ、と笑顔が広がった。
主婦たちが微笑ましいわ、といった様子で見ているのがくすぐったい。
買う予定だったものの間に、ひいなの欲しがるものを入れていって、ようやく買い物が終わった。
ひいながあちこち回るものだから、だいぶ時間が経って、すっかり辺りはオレンジ色をしていた。
「いいにおい、りんご。」ひいなはそう言ってりんごを手に持って歩いている。
「帰ったら剥いてやるよ。」「むく?」
不思議そうに彼女は振り向いた。
「りんごは皮剥いて食べるんだ。」
「たべるの?あまい?」
飛びつくように聞いてきた。
あまいのが相当気に入ったらしい。
「あまいよ。」
ふわあと目を見開いてりんごを見つめた。
思わず目を細める。
「早く帰って、飯にしよう。」
そう言うと、りんごを取り上げて袋に入れた。
するとひいなは、りんごの代わりに、俺が彼女の側に持っていた袋の持ち手を片方持つ。
「かえる?」
「今日は、俺んちに泊まんの。」
その言い方が引っかかったようで、ひいなは問い返す。
「あしたはー?」
「明日考える。」面倒だったし、実際そうするしかなさそうなので適当にそう答える。
「へんなのー。」
ひいなはまたきゃらきゃらと笑った。
最初に比べるとよく笑うな、と思った。
慣れてくれたのだろう。
このくらいの子はよく人見知りするから、最初あんなにかたかったのか。
何となく納得した。
人通りの無い裏道で、話をしながら道幅に目一杯広がって帰るなんて、小学校以来でひどく懐かしかった。
俺が借りている部屋は、月数万の安い一人暮らし向けの物件だ。
狭いが別に悪いところはない。ユニットバスも完備だし、言うこと無しだ。
すぐ上の階がファミリー向けだから、騒音の苦情を差し引いてこの値段。最上階はマンションの買い取り物件で、他の階とは違い、家族向けの造りになっている。
で、悲劇はその俺の部屋で起こっていた。
ひいなと、スーパーで買ったものを部屋の前へ置くと、急いで管理人の部屋を訪ねる。
慌てた俺とは対照的に、管理人さんはいたって普通なようだった。
「あれは、どうして。」
「え?君が頼んだんじゃないの?」
管理人はぽかんとしている。
「どうして俺の部屋のものが無くなってるんですか!」
そう、部屋がまっさらだったのだ。
「昼間に君が頼んだ引っ越し屋さんが来て、君の荷物を運んで行ったんだよ。」
「はあ?」もちろんそんな覚えがあるわけない。
「ほら、依託書なんかもあるし。それに同じマンション内の移動なら紙一枚でできるって、うちのウリでしょ。」
「俺、心当たりが、」
はっとした。
ある。
父さんか。
「ん?何?」
「…、いえ。何でもないです。」
そう笑ってごまかした。
管理人さんは特に不信感を持った様子でもなかった。
「これ、新しい鍵だよ。」
と真新しい鍵を手渡してくれる。
「ありがとうございます。」
受け取り、元居た方の部屋の鍵を返した。
「しかし最上階の物件を買い取るとはね。お母さん呼んで一緒に暮らすの?」最上階だって?
ひいなのために、おもちゃを買うのと同じように、マンションをぽんと買うなんて。
「まあ、そんな所です。」
驚愕を抑えて、愛想笑いを返す。
決まってしまったことは仕方ない。
だけど、父の手の上で踊っているようで、
まるで落ち着かなかった。
まさか部屋にカメラが仕込んであるなんてことはないだろうか。
あり得る。
まあいいか。
きちんとひいなの面倒を見ているかを見張るのが目的なら、別に見られて困ることもあるまい。
不安を引きずりながらも、俺はひいなのもとへ戻った。
ひいなは誰かと話していた。
「そうなの。ひいなちゃんていうの。」隣には一才くらいの子もいる。
「りょうが名前くれたの。」
しゃがんでひいなと話す後ろ姿から、それが誰だかすぐに分かった。
「りょう?文片涼くん?」
「いっしょ、すむの。」
「ひいな。」
呼びかけると、ひいなは女性の後ろから来た俺に駆け寄ってきた。
「こんにちは、恵さん。要、元気かー。」
「こんにちは。今、ひいなちゃんとお喋りしてたの。」
可愛らしく笑うベリーショートの女性は松崎恵さん。
若いながらも一児の母で、専業主婦。
隣で手をつないで危なっかしげに立っているのは、松崎要。
先月一才になったばかりで、ようやく立っているようだ。彼女は越してきた時から、階は違うけれど、会う度俺に良くしてくれている。
俺もそのさっぱりした人柄がすごく気に入っていて、信頼し、また、頼っている大人の一人だ。
「かわいいねえ。妹さん?」
「いや、目の色違いますから。」
「髪の色は薄いじゃない。」
「俺のは染めてんです。」
「高校生で生意気ー。はげちゃうよ。」
けらけら笑う彼女に口先だけで謝って、話を元に戻す。
「父の連れ子なんですよ。」
色々省略したが、面倒なのでまあいいやと思うことにした。
「あら、そうなの。一緒に暮らすの?」
「ええ、まあ。」
「一人暮らし向けの部屋じゃあ、ちょっと狭いんじゃない?」首を傾げる恵さんに詳しいことを説明しようとすると、服の裾を引く手があった。
「りょう、とけちゃう。」
ひいなが袋を指差す。
買った冷凍食品やらが入った袋がじんわり汗をかいている。
「わ、まずい。とりあえず部屋までこれ運ぶんで、いいですか。」
焦る俺に恵さんはさらりと言う。
「部屋は目の前じゃない。」
事情知らないんだった。
「色々あって、変わったんです。」
とにかく今は一刻も早く冷凍庫へ急ぎたかったから、適当に言っておく。
「ひいなもはこぶよ。」
ニコッと手を差し出す。
「ありがとう。そっちがわ持ってな。」ひいなと俺はまた二人で一つの袋の持ち手を片方ずつ持つ。
恵さんは要を抱き上げる。
「ひいなちゃん、えらいねえ。」
「おー。」
のんびりと誉める恵さん、それに相づちをうつ要くんと四人で、エレベーターへと慌ただしく向かった。