涼と雛
少女はソーダを飲まないので、アイスがいつまで経っても溶けやしない。
それが不満なようで、つついたり混ぜたり色々している。
血は繋がってないらしいが、どこか父に似ていた。
変わっている。
現に、父親と離れ、知らない人と二人になってしまったというのに、彼女はまったく動揺する素振りもない。
人形のような外見とあいまって、まるで生きてなんかいないようだ。
いや、この子は変わっていると言うよりも、
(気味が悪い…。)
そんなタイミングで振り向くものだから、思わず口に出してしまったのかと思った。
だが少女は特に感情を含んでいない瞳で俺を見ている。その様子から気分を害した風ではなかったが、その目に見られると、何だろう、深い、深くて、熱い、魅入られるような感覚が、
くすくすっ。
囁くような笑い声が耳のすぐ横で聞こえた気がして、俺は現実に引き戻された。
(今、俺、何して。)
もちろん彼女とのこの距離では、俺の耳元で囁くなんてできるはずはない。
テーブルを挟んで向かい合わせなのに。
途端に冷や汗が背中から出た。
耳鳴りがひどい。
やばい。
自分が自分で無くなる感じ。
地に足がつかなくて、意識がフワフワしてて。
何かしでかしそうな。
それは酔いに似ていた。
自分をコントロール出来ない。
どこか遠くから、見ているような。それでいて開放的な。
彼女の目の前にいるのが、怖い。
年端もいかない女の子相手に情けない話だが、彼女を置いてすぐに逃げ出したい衝動にかられた。
「君は捨てないで、お兄さん。」
こちらの思想を見抜いたように彼女は俺に言った。
まるで捨てられたことがあるような口振りだ。
いや、実際彼女の中ではそうなのだろう。
母は死に、父は、事実は違うにせよ、見捨てられた。
彼女の声は悲痛な響きでは無かったが、甘えるような、普通におねだりしているようなそれがますますつらかった。
そして、その少女の言葉が俺の心の疑心を取り払った。
血の繋がりなんてどうでもいい。
今のが何だって関係ない。
この子は、困ってる。
何より俺が父さんに頼まれたんだ。俺は立ち上がり、少女の側に座り直した。
彼女はアイスをつつくのを止めて、俺をあの目で見つめる。
そこに何の感情も無いことが、寂しかった。
それは宝石のような、本当に綺麗な瞳だった。
幼い顔に不釣り合いなほどに。
普通なら今はまだ、両親にべったりで、ぬくぬくとした愛情の中に居る頃だろうに。
この子にとって大事なことが欠けている。
それが今の俺には耐えられなかった。
俺が足りない分を埋めてあげられたら。
「俺が一緒にいるよ。」少女の目に色がさした気がした。
「お父さんいなくて寂しいかもしれないけど、俺がその分、楽しいことやおもしろいこと、たくさん教えてやるからな。」少女は頷いた。子ども特有のあどけないゆっくりとしたものだった。
「君、名前、何ていうの?」
少女は首を振った。
「分からないのか?」
意外な答えだった。
「ないの。」
無い?
名前が?
「じゃあ、お父さんには何て呼ばれてたんだ?」
彼女はまた首を振った。
俺は困惑した。
「きみは?」
今度は少女が問うた。
「俺は、涼。文片涼。」
りょう。
少女はオウム返しに言った。
「名前、自分で考えるの?」
「違うよ。つけてもらうんだ。」
「りょう、は、誰がつけたの?」
「父さんだよ。俺、七月に生まれたから、涼なんだ。父さんが昔言ってた。」うっすらとした、けれど、確かな記憶。
「ふうん。」
少女はひとりで納得して、真っ白になったソーダに向き合う。
相変わらず飲みもしない。
ふと、思いついた。
「じゃあ俺は君をひいなって呼ぶよ。」
「ひいな?」
「今が三月だから。三月は雛月って言うんだ。」
俺があらためて、彼女の名前を呼ぶと、目に見えて少女は笑顔になった。
ひいな。
何度も自分の名前を繰り返す。
「りょう、ひいな。ふふ。」嬉しそうにメロンソーダをかき回すひいな。
溶け残っている氷がカランカランと音を立てる。
「ひいな、食べ物で遊ぶなよ。」
「食べ物?」不思議な目で彼女は俺を見る。
はっとした。
もしかして、これが飲み物って知らないのか。
「ちょっと貸して。」
その手からコップを取り上げると、ひいなは少し驚いたようだった。
不思議そうな顔をした彼女を目の前に、ストローで飲んでみせる。
完全に炭酸が抜けて、ただあまいだけの水。
子供のときの味だ。
一気には飲めないから、最後は必ずこんな風な味になった。
ひいなは案の定、きょとんとした顔でそれを見つめていた。「これは飲むもんだよ。おいしいよ、ほら。」
ひいなに返すと、見よう見まねで、ストローに口を付けた。
変化は無い。
「息吸ってみな。」ちらりと目で返事が返される。
やっとストローの中を緑が上がっていき、少女はそれを飲み込んだ。
そうして何か言いたげに俺を見る。
「おいしい?」
「うん、おいしい。すき。」
「甘いよな。」
「あまい。うん、あまい。」
少し目を細めて、繰り返す。
父はもしかしたら、一緒に食事をしたことさえ無かったのかもしれない。
よく味が分からない子供がいるというが、こういう子のことなんだろう。いや、それ以前の問題じゃないか?
普通の子は食べ物とそうじゃないものの区別もつかないか?
と、また俺は思いついた。
「今日、夕飯一緒作ろうか。」
「ゆうはん?」メロンソーダは半分くらいまで減っていて、氷が積み重なっている。
「何食べたい?」
「分かんない。」
ひいなはわざとらしく首を振った。
食べたことはあっても、名前が分からないのか。
じゃあ今日はごちそうにしてあげよう。
毎日新しいことをしてあげよう。
退屈なんてしないように。
寂しさなんて感じさせないように。